第6話『心の奥が溶ける様で、痛くも辛くもないのに、涙がこぼれる』
あれから時間が過ぎて、私は三年生になっていた。
お母さんは先生が来た日から私へのしつけを隠す様な事は無くなって、隠しきれない場所にまで傷を残す様になってしまった。
毎日の様に。生むんじゃなかった。消えて欲しいというお母さんに、私は何もいう事が出来ず、部屋に閉じこもって、ただ膝を抱え日々を過ごしていた。
この家を出て行けば全部解決する。私もお母さんも幸せになれる。
でも、私はこの家を出て生きていく方法が無かった。
相談に乗ると言ってくれた佐藤先生に、一緒に住んでも良いかと勇気を出して聞いてみたが、誤魔化されてしまった。
多分嫌なのだろう。
でも当然だ。私は嫌われ者だし。一緒に住んでくれる人なんて居る訳が無い。
国が保護してくれるという話もしていたが、その為には家に誰かが来る必要があるみたいで、来たらきっとお母さんは私を許さないだろう。
また、家を出てみようか。
でも警察の人に見つかったら、家に戻らなきゃいけないし。戻ればお母さんが怒る。
駄目だ。考えても何も良い案が浮かばない。
「紗理奈? 大丈夫?」
休日だというのに、一緒に居てくれる佐々木が心配そうに話しかけてくるが、いまいち上手く返せなかった。
今日は朝からお腹が痛くて、血も出てるし、頭だってフラフラする。
駄目だ。もう家に帰ろう。
そう思い、私は地面に向けていた顔を上げて佐々木に話しかけようとして、街中にいる天野を見つけた。
あの時と同じく笑っている。
そして、口をパクパクとさせながら、何かを私に伝えようとしていた。
声に出さなきゃ分かるわけが無い。訳が無いのに。何故か私には天野が言っている言葉がハッキリと分かるのだった。
『奇跡の準備は整った。君の願いを叶えてやる。本来は偶然か、多くの祈りによってしか得られない物だが、お前は特別だ』
天野が私に背を向けた瞬間、私は目の前が真っ白に染まり、立っている事が出来なくなってしまった。
そしてすぐ近くで焦った様な声で私の名を呼ぶ佐々木の気配を感じながら、意識を閉ざしていく。
消えていく意識の中で、最後に聞こえたのは天野の笑い声と、確かに頭の中に聞こえてくる声だった。
『あぁ、言い忘れていたが。奇跡には代償がいる。いずれ対価を貰いに行くぞ。この貸し。忘れるなよ』
次に目覚めた時、私は知らない部屋の知らない布団の中で眠っていた。
すぐ横には知らない女の人が居て、私の顔をタオルで拭いていた。
「おはようございます。気分はどうですか?」
「……もう、大丈夫」
「そうですか。それは良かった。でももう少し寝てましょうか。貧血、後は熱中症でしょうか。少し風邪気味というのもありそうですね」
「あの、私……ごめんなさい。すぐに帰ります」
「駄目です」
「でも」
「今日はこの布団から出る事を許可できません」
「でも、私、帰らないと、お母さんに怒られちゃう」
「でしたら私の方から電話させていただきますよ。お名前と電話番号をお聞きしても良いですか?」
「えっと、でも」
「お聞きしても、良いですか?」
「……千歳、紗理奈です。電話番号は、えっと、ごめんなさい。分からなくて」
「千歳……? もしかしてお姉さんが居たりしますか?」
「え? あ、はい。今は居ないんですけど、前は居ました」
「その名前は、千歳加奈子さん。だったりしますか?」
「はい。そうです」
「……これも何かの縁でしょうか」
「えっと」
「紗理奈さん。後の事は私達に任せて、今はゆっくりと休んでください。紗理奈さんのお母様にもしっかりとご説明させていただくので、心配は何もいりませんよ」
「……はい」
「あと、何か欲しいものはありますか?」
欲しいものと言われて、私は頭に浮かんだ人の名前を言った。
女の人は少し怖い顔をしていたのだけど、佐々木の名前を言ってからは、優しい顔になってすぐに呼んでくると言ってくれた。
それから女の人が出て行って、そんなにしないで佐々木が部屋に入ってきた。
佐々木は凄く心配そうな顔をしていたけど、手を握ると安心してくれた。
私も、その手の暖かさに、嬉しい気持ちになるのだった。
「ねぇ、佐々木、ここにいて」
「あぁ。居るよ」
それから、あれよあれよという間に、私は立花さんの家にお邪魔する事になった。
朝陽さんは凄く優しくて、お手伝いをするだけで良い子良い子と頭を撫でてくれる。
もし失敗しちゃっても、全然怒らなくて、次からこうしましょうとやり方を教えて貰えた。
涙が出る程嬉しくて、私は朝陽さんに優しくされるたびに、泣いてしまって、それでも朝陽さんは怒らなくて、大丈夫ですよって言いながら抱きしめてくれるのだった。
私はようやく天野の言っていた幸せという物が少しわかった様な気がした。
でも、天野は奇跡には代償があるって言っていた。
それを思い出すと、何だか怖くて、私はこの幸せがいつか壊れてしまうかもしれないと怯えていた。
お母さんがいつかこの家に来て、全部壊してしまうんじゃないかって。想像すると怖かった。
でも、そんな私を安心させる為に朝陽さんは家に電話をしてくれて、お母さんと話をさせてくれた。
お母さんはそのまま帰ってこなくていい。そっちの家の子になれば良いって言ってくれたのだ。
嬉しかった。
ずっとここに居ても良いって言ってくれたことが。
ここには佐々木が来る。
ここには朝陽さんがいる。
ここには暖かい人たちがいる。
それがとても幸せだった。
私は、嬉しくて、この気持ちを返したくて、朝陽さんがお風呂に入ると聞き、背中を流したいとお願いした。
私でも出来そうな事だったのだが、少し図々しかったかなと心配になる。
でも朝陽さんはいつもと変わらない笑顔で、お願いします。って笑ってくれた。
そして、私は先に朝陽さんに中に入って貰って、脱衣所で服を脱いでから中に入った。
後から入ったのは、背中を見られたくなかったからだ。
背中を見ると、みんな辛そうな顔をするから、朝陽さんにはそんな顔をして欲しくないと思った。
「……失礼します」
「いらっしゃい。そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」
「あ、はい」
朝陽さんは一瞬私の手とか体を見て、目を細めた。
辛そうな顔をしている。
やっぱりタオルとかで隠した方が良かったかな。
「ご、ごめんなさい。汚いもの、見せちゃって」
「いいえ。紗理奈さん。貴女の体に汚い物なんて何もありませんよ。そこにあるのは、貴女の強さと優しさの痕だけ。これが汚いと言うのなら、貴女にこんな痛みを背負わせた私達大人の心。貴女は何も悪くない」
朝陽さんの言葉はちょっと難しくて、でも私の事を想ってくれているのは分かった。
だから私は頷いて、それから朝陽さんの背中を流す準備をした。
朝陽さんの後ろに座って、その綺麗な肌を綺麗にしてゆく。
ただ、人の体を洗ったのは初めてだったので、あんまり力は入れないようにしながら、それでも何度か擦って綺麗にする。
元々凄く綺麗だから、あんまり役に立てた気がしなかったけれど、朝陽さんがありがとうございます。って笑ってくれて、私は嬉しかった。
達成感もあったと思う。
だから、ちょっと油断してしまった。
「じゃあお礼に私も紗理奈さんのお背中流させて下さい」
「……うん」
調子に乗って、朝陽さんと場所を入れ替えた私は、私の背中を見て硬直している朝陽さんを見て、失敗を悟った。
あぁ、私はなんてグズなんだろう。
朝陽さんを傷つけてしまった。
失敗した。
もう家を出て行かないといけないかもしれない。
「あ、あの。これは、違うの。その、転んじゃって、でもすぐに治るから、だから」
「……あぁ、私は、貴女になんと言って謝ればいいのか分かりません。どう償えば良いのか」
「え?」
「あの時、貴女の事は知っていたというのに。あの家に一人残す事に何の疑問も持たなかった。なんて愚かな事をしてしまったのでしょう。結局は残された貴女を傷つけるだけだった」
「あ、朝陽さん、泣かないで」
「申し訳ありません。辛いのは貴女なのに。私は、本当に、どうしようもない」
「あの、あのね。私は大丈夫だよ。だって、もう痛くないから。最初はね。痛かったけど、我慢出来る様になったの」
「……っ」
「それにね! 最初は泣いてばっかりだったけど、ちゃんとごめんなさいも言える様になったんだよ。あとね!」
私は泣いている朝陽さんがいつもの様に笑ってくれるようにと、いっぱい頑張った事を喋った。
でも朝陽さんは次から次へと涙を流していて、どうしても泣き止んではくれなかった。
これは、もう本当に駄目かもしれない。
すぐにこの家から追い出されてしまうだろう。
お母さんはずっと私の事を我慢してくれていたけど、他の人はそんなに優しくないのだから。
「……紗理奈さん!」
「は、はい」
「何か、して欲しい事はありませんか?」
「してほしい事?」
「はい。何でも。私に出来る事でなくても、その願いを叶えたい」
「なら……」
私はずっと言いたかったけど、言えなかった事を折角だから言ってみる事にした。
だって、どうせ出て行かなきゃいけないなら、最後くらい。良いよね?
「あの、ね。ぎゅって、して欲しい」
「……」
「いや、あのね。無理なら全然良いの。最後だからって私、凄い我儘言っちゃって……わぷ」
「こんな、こんな事。無理なものですか。いくらでも言ってください!」
「わ、ぁ……あたたかいなぁ」
朝陽さんに抱きしめられて、手を握っているよりもずっと、ずっと安心出来た。
ここに居ても良いんだって思えた。
心の奥が溶ける様で、痛くも辛くもないのに、涙がこぼれる。
「他には、何かありませんか?」
「わたし、ここに、いたい。もう痛いのは、やだ」
「紗理奈さん。ずっと、ずっとここに居て下さい。私が居る限り、もう二度と紗理奈さんに痛い想いなんてさせません。だから」
「いいの?」
「えぇ、もちろんです」
「そっか……ゆめみたい、だ」
私は、こんな幸せな夢がずっと続けば良いのにと願って目を閉じるのだった。
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