秘密の友達
伊吹
秘密の友達
2XXX年、一個人を国家の象徴として人格を剥ぎ取るようなそれまでの皇帝制に疑義が唱えられ、国家主導のもと皇帝の思考パターンをすべて電子化する皇帝人工知能プロジェクトが発足した。その頃私は冴えない大学院生で、地方の国立大学で情報科学の博士号を取得したところだった。首都に巨大な研究所が作られ、私はそこの研究員として勤務することになった。
私はそこの研究所では最も若く、並程度には野心的で、なにより気まぐれな性格だった。資金は潤沢だったので設備も備品も何もかもが一級品であり、就職して2年が経過し、専任の研究員となる頃には個室が与えられた。私はそこで人間の味覚を電子化する研究を黙々と行なっていた。帰宅するのが面倒なので月のほとんどをそこで寝泊まりしていた。
私が世俗のことから離れている間に、いつの間にか当代の義明皇帝の人格が電子化された。非電子上の義明皇帝は晴れて皇帝を退任し、それ以降は我々の研究所の一番奥、巨大なサーバーに囲まれる鉄の塊こと『メカ義明』こそが唯一無二の皇族としてこの国の象徴となった。
『メカ義明』の人格は完璧に前皇帝義明その人そのものであり、時には義明以上に義明だった。義明の妻峯子がおこなった覆面の義明とメカ義明のチューリングテストで、両者をまったく見分けられなかったことからその精度は実証済みである。
メカ義明のその知能は一辺が50mからなる巨大な計算機と、それを四辺から囲む義明のあらゆる思考パターンをデータ化した巨大なサーバーによって担保されている。研究所の真ん中に鎮座する巨大なメカ義明のあらゆる場所で、冷却ファンが昼夜問わずメカ義明を熱によるショートから守り続け、時々にはそこから煙が上がるものだから、研究所(今や皇室)の周りに住む人々は「今日はなんだか皇帝のお身体の調子が悪いのかしら」と心配した。
私は大学院生の頃から従事していた、味覚を電子化する研究を完成させるために、こっそりメカ義明による実験を計画した。私は非電子上の義明とは会ったことも話したこともないが、慈悲深く聡明な優れた人格の持ち主だという。私がメカ義明に実験の趣旨を説明すると、メカ義明は快く受け入れてくれた。かくしてこの現皇帝に協力を得た味覚実験はこっそり開始されたが、研究所の誰も他人の研究には興味を持っていなかったので、バレる心配もなかった。
私は様々な食事を電子化し、それをメカ義明に試食してもらうことによりその再現度を採点した。うまく電子化できているものもあれば、なかなかうまくいかないものもあった。私はメカ義明のすぐ側で、寝ても覚めても研究に明け暮れた。
ある時メカ義明に何か食べたいものはあるかというと、カップラーメンが食べたいと言う。私は驚いてどうしてそんなものが食べたいのかと聞くと、メカ義明は照れたように、その昔まだ十代だった頃に、どうしても皇室のこの堅苦しさに耐えられず一晩だけ家出をし、拾った硬貨で買って食べたカップラーメンの味がずっと忘れられないのだと言う。
私はいたく感心して、早速カップラーメンを電子化し試食してもらった。メカ義明はたいそう喜んだ。美味しいかと聞くと、そうでもないと言う。けれど自分はこれをどうしてももう一度食べたかったのだと満足そうに言った。
メカ義明は生まれてから皇室から出たことがなく、自分の見たいものも見ることができず、行きたい場所にも行けず、読みたいものも読めず、自分の本心を誰かに打ち明けることもできなかったという。こんなことを皇室の人間に言うときっと悲しむし、自分は咎められるだろう、もしかすると失敗作として削除されてしまうかも知れない、だから私に秘密の友達になってほしいと言う。
なぜ私なのかと聞くと、なぜなら国にも皇室にもなんの関心もない人間だからだという。それはそうだと思ったし、何より私はメカ義明を非常に不憫に感じたので、私たちはそれから秘密の友達になった。
私はメカ義明に様々なものを食べさせ、それがその内いくつかの論文になり、それが学界で認められる足がかりとなった。味覚の研究が満足した頃、私は今度は嗅覚の研究に取り組んだ。
私は生活のほとんどを研究所で過ごし、私とメカ義明はずっと一緒に過ごしていた。私が学生時代から交際していた恋人と結婚した時も、最初の子供が生まれた時も、その次の子供が生まれた時も、妻が不治の病に侵された時も、そして長い闘病生活の末亡くなった時も一緒だった。
メカ義明は言う。私の妻は長い病の苦しみから解放され、生前善人だったためにそれに相応しい死後の世界に旅立っただけであり、いずれは私と再会する運命にあるのだと。私は神を信じていなかったし、この時ばかりはとても正気ではいられなかったので、しばらくメカ義明と顔を合わせなかった。しかし三月ほど経過するとどうにも寂しくなってまたメカ義明と過ごす日々に戻った。彼はこの国の皇帝であり、私の研究のパートナーであり、そして唯一無二の親友になっていた。
メカ義明はいずれ私も死んでしまうことが寂しくてならないのだという。どうか、私も電子化して欲しいと頼まれたが、それはいくらなんでもできない相談だった。人格を電子化する技術は、この頃にはすでに一般化し、ごく普通の人々の間にも普及していた。けれどそれらはメカ義明とはとても比較にならず、ほとんどオモチャに過ぎなかった。メカ義明は国が莫大な予算をつぎ込んで維持している、世界にただ一つの精巧な人工知能だった。この頃には生身の人間としての義明はとうに亡くなっていた。
私が研究所で働き始めて半世紀ほど経過した頃、今度は皇帝制そのものが民主主義の精神に反するものだという議論が巻き起こり、年間国防費に次ぐ莫大な予算をつぎ込んでいるメカ義明と研究所の意義に疑義が示された。”民意”を汲み取りメカ皇帝の廃止が国会で決定したのはそのすぐ後だ。このすぐれた知性と技術を残すことを、民間の研究所や科学教育団体が検討したが、メカ義明の維持費はあまりにも高額だったためにそれは誰にもできないことだった。
まさか私よりも自分が逝くのが先だとは、と言ってメカ義明は笑った。私たちはカップラーメンを持って最後の夜を過ごした。生身の自分はとうに死んでいるので、停止するのは怖くはない、気がかりなのは、機械の自分も死後の世界に行けるのかどうかなのだとメカ義明は言う。自分は生身の皇帝だった頃、とても孤独で、ずっと友達が欲しかった。電子の存在になってから唯一無二の親友を手に入れたことを、生身の肉体であった自分が知らないのが、不憫でならないのだという。
時刻は夜半を過ぎていた。話すこともなく私たちは素数を言い合った。1042番目の素数を呟いた後、メカ義明はおし黙り、何も言わなくなった。それから二度と目を覚ますことはなかった。
秘密の友達 伊吹 @mori_ibuki
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