魔王と勇者 運命の二重螺旋
@tasogareahyaui
第1話 旅の終わり
大河に沿ってどこまでも続く大草原、反対側には丘陵地帯が広がり悠然とした自然を形成していた。鳥のさえずり、川の流れ、風が草原をなでる音がそれぞれ一体となり、素晴らしい景色と相まって道行く人々の心を和ませるのが普段のその場所だった。しかしその日、大草原は紅く染まり大河には溺死体が浮かび腐臭を漂わせ、丘陵地帯には死体の山が築かれていた。
魔王率いる王軍と勇者率いる人民軍がその場所で最期の決戦を行った。王軍は数でこそ劣るが百戦錬磨であり、装備も充実していた。しかし兵士たちには生気がなく、何かにとりつかれたような面持ちをしており王からの命令を忠実にこなす機械のような動きをしていた。対して人民軍は数が多かったが、兵士のほとんどが武具など持たず、思い思いの武器で初めての戦闘に参加していた。人民軍が占領していた丘陵地帯は王軍が多大な犠牲を払って奪い返した。大草原に展開する人民軍は王軍の正面突破を狙ったが魔王が率いる王軍本陣は突破困難だった。そんな中で丘陵地帯を落とした王軍の別動隊に側面を突かれればその時点で勝敗は決する。そのため人民軍は何としても王軍中央を破らねばならなかった。つまり両軍の対峙するまさにその真ん中で切り結んでいる二人の戦いの行く末がこの決戦の勝敗の分かれ目になるということだった。
魔王は長身で黒色のプレートアーマーに身を包みロングソードを武器としていた。アーマーは要所を主に防御するように作られており、そのため動きは素早く軽やかであるにもかかわらずほとんどスキがなかった。ロングソードも威力はすさまじく直撃を受ければ鎧はいともたやすく断ち切られるほどだった。対する勇者は鎧らしい防具を身に着けず革製の戦闘服を着ているだけだった。武器は片手で扱える一般的な剣であり、左手には円形の盾を持っていた。勇者の年齢は若く青年といっても通じるほど幼さを残していた。
「俺はお前なんかに負けるわけにはいかない。みんなのためにも」勇者エルドは魔王へと切りかかった。魔王はその攻撃をいなすと同時に勇者の右腹部をロングソードで薙ぎ払った。勇者はそれを盾で受けたが、あまりの強打に一瞬身動きが止まった。その隙を魔王は見逃さず体の勢いを利用して強力な蹴りを入れた。エルドは受け身をとることもできず吹っ飛ばされて野原に転がった。
痛みに悶え、ぼやけた意識の中でエルドは起き上がった。すぐそばには首を切り落とされた人民軍の兵士が倒れていた。あたりを見渡すとあちこちで悲鳴とも気合いともとれる叫びが聞こえ、鎧のこすれる音、剣で切り結ぶ音などで騒がしく汗と血の生臭さが漂っていた。人民軍の兵士たちは皆エルドを守るために命を犠牲にして壁となっていた。今殺されている兵士たちはこれまでの苦難を共に乗り越えてきた仲間であることを改めてエルドは認識した。このままでは彼らの命の灯は消えていくばかりだ。
彼は盾を落とし、そばにあった剣を拾った。魔王には隙が無い。ロングソードの間合いで戦っていては勝ち目がない。ならば決死の覚悟で接近戦に持ち込むしかない。
ゆっくりと近づいて来る魔王にエルドは叫びながら突進した。ロングソードの強打を双剣で受け、そのまま魔王の懐近くへと入る。勇者の武器に有利な接近戦となったが、魔王は間合いを詰めてくる相手への対処にも手馴れていた。ロングソードとプレートアーマーで勇者の斬撃を受けると軽い足さばきで難なく距離をとった。
「やはり接近戦は得意ではないようだな」エルドは笑みを浮かべて魔王を挑発した。決死の覚悟で間合いを詰めたつもりだったが、いとも簡単に対処されたことに動揺し足がすくむのを隠すので精いっぱいだった。
「お前に一つ聞きたいことがある」魔王は低い声でゆっくり話すと面鎧を上げた。無機質で感情の起伏が全く感じられない顔がそこにあった。瞳は底知れぬ闇をたたえていた。
「勇者よ、お前は一体何のために戦う?」
「何のためにだと?そんなの決まっている、仲間のためだ。みんなのためだ」
エルドはその目で見た惨状を思い起こす。魔王が課した重税で自分の食い扶持まで持っていかれ、なすすべなく路上で物乞いをしていた老女。寒波が来た翌日に物乞いをした姿勢のまま老女は凍死していた。農村はひどい状態で餓死した母親に寄り添い、死をただ待つばかりのガリガリにやせ細った少年と少女。税を納めなかったというだけで王軍に襲われた村は住人全員が一つの小屋に押し込められ、火をつけられて蒸し焼きとなり阿鼻叫喚の地獄絵図を展開した。そして彼の家族の顔も脳裏に浮かぶ。
「お前こそ一体何のために戦っているのだ。無抵抗の人々をなんの理由もなく自分の満足のために殺すお前のようなやつを俺は絶対に許さない。今までどれだけの人間がお前のせいで苦しんだと思っている。この国が荒廃したのもこんな馬鹿げた戦いをしなければならなくなったのもすべてお前のせいだ。お前を殺して、僕の理想とする平和な国を作るのだ、かけがえのない仲間とともに」エルドの心から恐怖は消え去り、憤怒が支配した。
「エルド!」後方から彼の名前が叫ばれた。そこには年配の老人と青年、そして巫女がいた。
「あれがお前のいう仲間かね」
「そうだ」三人と勇者はずっと行動を共にしてきた仲間だった。それぞれ別の場所で指揮を執っていた彼らから合図があったということはすでに人民軍の戦線は崩壊寸前であることを意味していた。
「仲間、か」魔王は呟いた。
エルドは呆気にとられた。数万人が眼前で死んでも表情一つ変えない魔王が苦しみに満ちた顔をしていたからだ。仲間たちのほうを眺めながら悲しみと後悔が入り混じった表情をエルドではなく魔王がしていた。
「おしゃべりはこれまでだ」エルドは魔王の隙をついて再び距離を詰めた。双剣で絶え間ない攻撃を繰り出していく。しかしすべての攻撃は魔王に軽くいなされてしまう。それでもエルドは力の限り攻撃した。
武芸に通じたものであればこの二人の立ち合いを見てその力量差が歴然であることは容易にわかることだった。魔王は勇者エルドに対していつでも致命的な一撃を加えることができる動きをしていたがどういうわけかそれをしなかった。そこには明らかな躊躇いがあった。
「俺は、俺は。でもどうすれば。一体何のために。みんなはどこに」魔王はエルドと打ち合いながらうわごとを言っていた。その瞳はエルドを通して何か別なものを見ていた。
やがて魔王の剣からは力がなくなっていき、エルドにも押し負けるようになった。体力が低下したせいではない。魔王は気力をなくしかけていた。
エルドの斬撃も魔王の体に軽い切り傷をつけるほどになり、もう少しで致命傷を与えることができそうだった。
しかし突如として魔王は叫んだ。
「うおぉぉぉぉぉぉぉ、なぜ皆死んだ。殺す、俺たちに歯向かうやつらを全員殺してやるんだ」魔王は涙を流しながら天を仰いだ。瞳孔は完全に開き、手には力が戻っていた。そしてエルドへ容赦ない攻撃を繰り出していく。数合の打ち合いでエルドの剣は片方が折れた。そして左わき腹めがけてロングソードが振り下ろされ、受けた剣ごと薙ぎ払われた。刃は剣で受けることができたが衝撃は止められず吹き飛ばされエルドの肋骨は叩き折られた。何とか立ち上がろうと試みたが力は入らず、エルドは喀血した。折れた肋骨が肺に突き刺さり、戦闘継続は困難な状態だった。
「がぁぁぁぁぁぁ!」魔王は明らかに心身喪失、狂気にとらわれているようであり意味不明な叫びをあげていた。先ほど致命傷を与えたエルドのことなどすでに眼中になかった。
「呪ってやる。生きとし生けるものすべて。殺殺殺殺、すべてを殺して皆の供物にするのだ。この国は俺のものだ、俺たちの物だ。俺たちはすべてを手に入れたはずだった。なのになぜ俺は何も持っていない。みなどこへ行った」
エルドは仰向けになり青空を眺めた。空の色は昨日と何ひとつ変わらず、イヌワシとおぼしき鳥が翼を広げて優雅に空を舞っていた。喧騒の音は消え去り、草が擦れあう音のみが耳に入る。長いこと忘れていた土のにおいがエルドを過去へと誘った。
エルドは小さな村の村長の長男として産まれた。貧しく、農耕でなんとか日々を食いつないでいるようなどこにでもある村だった。住民は数十人で皆優しく、貧しいながらも平和を維持しながら協力しあって過ごしていた。だがそんな平和も破られる時が来る。魔王は民に重税を課した。それも一度ではなく何度も何度も繰り返し、徐々に額も上がっていった。最終的に村には税を納めるだけの蓄えが無くなった。それでもなお新しい税が次々と作られ、村長であるエルドの父の下へ催促を促す書状が複数届いていたのだった。
「僕が官吏にお願いしてみるよ。いくら何でも餓死してまで税をおさめよ、なんて言わないさ」都に住む人が見れば豚の餌と見間違えるほど粗末な食事をエルドたちは取っていた。
「……そうだな。もうそれしか手は残されていなそうだ。お前には本当に苦労をかけるな」険しい表情をたたえながらエルドの父であるグランは言った。グランは筋骨隆々とした男で眉間には深いしわが寄り、黒髪には白髪が混じっていた。
「えー、じゃあお兄ちゃんは街へ出かけるんだね。いいなぁ、私も行ってみたいなぁ」エルドの妹であるドリーが駄々をこね始めた。
「お兄ちゃんはね、遊びに行くんじゃないのよ。偉い人と大事なことを話し合いに行くんだから、邪魔しちゃダメでしょ」エルドの母ローザがドリーをたしなめる。ローザとドリーは二人とも赤髪であり、ローザは村人には珍しく背が高かった。
「じゃあ、明日には出発するよ。一人だと心細いけど今は刈り入れ時でみんな忙しいからひとまず僕だけで行くよ。いいよね、父さん」
「あぁ、そうだな。ひとまず村の現状を報告だけでもしてきてくれ。とてもじゃないが追加の税は納められそうにないってな。もし必要なら私も後日に伺うと官吏に伝えておいてくれ。最近はいろいろと物騒だから道中は気をつけるんだぞ」
「それにしてもなんでこんなに税が必要なんだろう。風のうわさじゃ、王は何かにとり憑かれて魔王になったとかいう話も聞くし。ほんと、王も少しは民草の生活を気に留めてほしいものだね」エルドはため息をついた。
「さ、エルドは食事を済ませたら旅の準備をして早く寝なさい。明日は早くなるだろう」
ローザに促されるままにエルドは旅支度を済ませると早々に床についた。
エルドの家は辛うじて木造であったが、広くはなく家族4人で横になって寝ていた。エルドも物心がつき、背丈も大人と遜色ないほど成長してからは別の場所に寝たかったが、まだ9歳ほどのドリーがみんな一緒の場所で寝ることを頑としてゆずらなかったため仕方なく一緒に寝ていた。その日、珍しくドリーはエルドにくっついて離れずに寝ていた。
翌朝、硬パン一切れと水だけの粗末な朝食をすませると見送るローザを振り返りながら日が上るころにエルドは家を後にした。
納税を司る官吏がいる街までは村から歩いて二週間はかかる距離にあった。だがエルドは近道であるけもの道を知っており、野宿もしながら一週間ほどでたどり着いた。
その町はケランといい、街の周囲が版築という土壁で守られていた。王国でも比較的大きな街だ。中には官吏が仕事をする公舎や飲食街、繁華街そして住宅がひしめいている。納税官はレンガ造りの洒落た公舎で仕事をしており、面会時間も限られていた。エルドは日が落ちるころに街へ入ったため翌日に公舎を訪ねることにして、その日は街を散策した。
エルドは小さいころにケランを訪れたことがあり、その時の記憶では商店が軒を連ね、人々は活気にあふれていた。まるで毎日がお祭りをしているような印象だった。しかし今や街は以前の活気を失い、行き交う人々は目に生気がなかった。主だった道には失業者と思しき人たちが地べたに座り込み、路上で生活していた。道の端には信じられぬ量のごみが集められ、生ごみが腐ったにおいが充満していた。吐き気を催したエルドは念のために持たされた貴重なお金を使って宿を取ろうとした。
「へい、いらっしゃい」町はずれにあるぼろ長屋の民宿にエルドは足を運んだ。
「一泊したいんだけど、いくらになりますか」
「十ペソだね」受付兼管理人をしている髪がぼさぼさで来ている服もところどころ穴が開いている初老の男はぶっきらぼうにそう言った。
「十ペソ?吹っ掛けるにしてもさすがに高すぎないか?」エルドはムッとして答えた。
「お前、一体どこから来たんだ?うちはこの街では一番安い宿屋だよ。嘘だと思うなら他を当たりな。こっちだって精いっぱいやってるんだからこれ以上は安くできないよ」
「なんだって?十ペソで一番安い?」エルドは衝撃を受けた。十ペソはエルドたち村人にとって一か月の稼ぎとほぼ同額だったからだ。
「一つ聞いてもいいですか」エルドは街に入ってからずっと思っていたことを尋ねることにした。
「いきなり何を聞こうってんだ?」受付の男は眉をひそめた。
「街中にいる浮浪者みたいな人たちはどこから来たんですか?以前にこの街を訪れた時はもっと活気があったと思うんです。ところが今や店は閉まっているのが多いくらいだし、一体この街に何があったんですか」
「何ってお前、あれは税を払えなかった店主たちだよ。王が重税を課しているのはお前も知っているだろ?あれを払えなかったから店と家を取られちまってどこにも行く当てもなくてああなっているんだよ。俺も多額の税を払わなきゃいけないから宿の値を高くせざるを得ないのさ。そしてそれはどこも同じだよ。さ、泊まるのか泊まらないのかはっきりしてくれ」ため息をついて男は言った。
エルドは重い足取りで長屋を後にした。決定的な間違いをしていたのではないかという不安と嫌な予感が胸をよぎった。この街の店主たちですら税を支払えず路上で生活するような状況に追い込まれているのだとしたら税の免除なんて夢のまた夢じゃないか、重苦しい徒労感と閉塞感がエルドを襲った。
「難しいとしてもとりあえず話だけでも聞いてもらうしかないか」エルドは浮浪者たちに混じって道端に座り込み一夜を過ごした。コバエがあたりを舞い、浮浪者たちの糞尿交じりの臭いは最悪でとても寝れたものではなかった。
翌日にエルドは税吏を訪ねた。毛皮の絨毯が敷かれ、作りの良い本棚に囲まれた書斎へとエルドは通された。そこにでっぷりと太った男が質のいい机に座り山と積まれた銀貨とその中に混じる金貨を数えていた。金貨一枚は人が一年暮らすのに必要な穀物と同価値であり、それだけで街にいる浮浪者たちを救うことができるのは明らかだった。さらに税吏はよく仕立てられた正装に身を包み、金でできたネックレスをつけていた。指には宝石を冠した金の指輪もしていた。
部屋に通されても税吏はだれもいないかのように金勘定に夢中でしばらく時間が経ってからようやくエルドに声をかけた。
「私は王への納税の計算で忙しい。君はどこの村から、なんの用件でここまで来たんだ?」エルドには目もくれず、やや不機嫌そうにいった。
「はい、ここから徒歩で二週間ほどの距離にあるポーア村から来たエルドと申します。税の相談のためここまで来ました」
「ポーア村?」税吏はペンを落として顔を上げ、驚いた。
「はい、そうです」エルドは緊張した面持ちで答えた。
「そうか、ポーア村か。ふふふふ、君は幸運な男だな」合点がいったようにうなづきながら不気味な笑みを税吏は浮かべた。
「ポーア村は税を滞納しすぎた。それは王への侮辱行為だ。その報いはもうすでに与えられた。無駄足だったな、税の話はもういい。そんなことよりも君は今後の身の振り方を考えるべきだね。じゃないと彼らの仲間入りをするぞ」そう言って税吏は街中を指さした。
「おっしゃる意味がよく分かりません。報いとはなんのことですか?」脂汗をかき、動悸がしてくるのを抑えながらエルドは聞かずにはいられなかった。
「君も鈍感な男だな。脱税に対する刑罰はなんだかよく考えてみることだ。本来なら君もその罪に服するべきだ。だが私は慈悲深い男だ。感謝するがいい。君のことは目をつむってやる、どこへなりと行くがいい」そう言うと出ていけという手ぶりとともに税吏は仕事に戻った。
脱税の罪は絞首刑だ。
エルドは公舎から早歩きで出ると街の出口へと一直線にかけていった。嫌な予感は的中した。街を出てもエルドはひた走りに走った。昼夜を問わない強行軍で村を目指してかけていった。だがすべては遅すぎた。
村に着いたのはケランを出てから数日後だった。
エルドの家のみならず村のすべてが灰と化していた。焼け落ちた家の残骸をどけながらエルドは必死に家族を探した。だがどこにもいなかった。村の他の家も探したがどこにも誰もいなかった。途方に暮れたエルドは道にへたり込んだ。そうしていると空で何匹もの鳥がある一か所の上空で舞っているのに気が付いた。そこには穀物の貯蔵や加工を行ったりする空き地があった。エルドははやる気持ちを抑えきれずにそこへ走った。
グランもローザもドリーも村人たちもそこに全員いた。
一人残らず首がなかった。
グランはおそらく激しく抵抗したのだろう。いつも頼りにされていたその太い両腕は乱雑に切り落とされていた。体幹には複数の剣が突き刺さり座ったまま絶命していた。首と両腕を落とされ、まるで切り株が三つあるかのようだった。
ローザはドリーを護ろうと覆いかぶさっていたが背後から串刺しにされて死んだ。
他の村人たちも似たような状況で死んでいた。そして黒を背景に大剣が描かれた旗が槍に結ばれて地に突き立てられていた。それはまごうことなき王と王軍の紋章だった。
「そんな……」エルドはその場に崩れ落ちた。静かな嗚咽をすると涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらエルドは家族の下へ歩み寄った。
「父さん、母さん、ドリー、こんな姿になってしまって。僕が、僕が付いていれば」
三人の遺体を抱き寄せるとエルドはひとしきり泣いた。
しばらくそうしていると背後で誰かが歩みよってくるのをエルドは感じた。王軍が戻ってきたのかもしれない、そう思うとエルドは自分の中に明確な殺意が沸き起こるのを感じた。その足音は静かにしかし確実にエルドに近づいてきた。そして背後で歩みを止めたのを感じ取るとその瞬間にエルドは振り返りそこに立っていた人を押し倒して馬乗りになった。拳を固く握りこみエルドは思い切り振り上げて相手を殴り殺そうとした。
「落ち着いてください。私は王軍ではありません」白い修道服に身を包んだ栗毛の若い女が真っ直ぐで慈愛に満ちた瞳をエルドに向けていた。首からはロザリオを下げ、ベールを目深くかぶっているため素顔ははっきりしないが目鼻立ちは整っていた。そのためエルドは拳を振り上げた状態で固まりしばらく動けなかった。
「お前は一体誰だ?なぜここにいる?」怒りで震えた声だった。
「私は正教徒です。ここで殺戮があったと小耳に挟んだので弔いに訪れたのです」修道女は淡々と答えた。しばらくエルドは固まったままだったが、自分の気持ちを落ち着かせるとゆっくりと拳を下した。
「すみません。てっきり王軍の連中がもどってきたものと思いまして。殺気立ってしまいました」エルドは立ち上がり、修道女を引き起こした。
「無理もありません。知人が無惨に殺されれば誰だって動揺します」土汚れを払い落しながら修道女は言った。気が付けば樫の木で作られた杖をもち、小綺麗な灰色のマントを羽織る男も側にいた。その男の髪は白く口ひげ、あごひげは短めに整えられており背が高かった。エルドを冷徹な目で見通していた。
「私はマリアと申します。彼はチョウといって私と共に旅をしております」
「すまないが、今は誰かとおしゃべりしたい気分じゃないし説教を聞く気も起きない。悪いがどこかへ行ってくれないか。今は誰にも邪魔されずに家族のそばにいたいんだ」涙を拭きながらエルドは言った。
「わかります。しかしもうすでに死体は腐敗が始まっていて早く埋葬しないとウジ虫や野犬、猛禽が遺体に群がり始めます。ご家族以外の村人だけでも早く荼毘に付さなければなりません」澄んだ声だった。
「わかったよ」エルドは渋々うなづいた。
その後、三人は村人たちを一か所に集めて火葬した。
グランとローザ、ドリーにはエルドが自ら火をつけた。三人は佇みながら何も話さず燃え盛る火をじっと見つめていた。その炎はエルドの網膜に焼き付き、瞳の奥の何かにも火を灯した。
「これからあなたはどうするんですか」日が落ちるころに埋葬は終わり、焼け跡に三人で焚火を囲んだ。しばらくしてマリアが口火を切った。
「この村を襲った王軍はまだ近くにいるんだろう。そいつらに追いついたらできるだけ多く殺して俺も死ぬ。俺は絶対に浮浪者になんてならない」強い決意が滲んだ声だった。
「おぬしはおろかものじゃな」これまで一言も発さなかったチョウが静かに言った。
「おろかでもいい。それでも俺の家族と大事な人たちをこんなにしたやつらに思い知らせてやるんだ」エルドはチョウを睨みつけた。
「せっかく助かった命をそう無駄にしては死んでいった家族も浮かばれまい」
「お前に何がわかるんだ」エルドは殺気を帯びた怒鳴り声をあげた。
「王軍の兵士たちは税を納めない反逆者を殺せという命令を受けて実行に移しただけだ。本質的に彼らに罪はない。憎むべきはもっと大きなものだ。それはお主も薄々わかっているだろう。ただその望みは自分には叶えられそうにないと分かっているから、自分にでもできそうなことで気を紛らわそうとしているだけだよ。たとえこの村を襲撃した王軍部隊を全滅させても何も変わりはしない」チョウの冷徹な瞳がエルドを貫いた。
「すべての元凶はやはり王様なのか。もしかしてこんなことが王国各地で起こっているのか」エルドは震える声で尋ねるとマリアとチョウは同時にうなづいた。
焚火を見ながらエルドは思い出していた。村での平和な日々を。厳しかったが常に家族と村のことを第一に考えていたグランを。我が家だって食べるものに満ち足りてはいないのに村の貧しい人に事あるごとに食べ物を分け与えて食事を我慢していたローザを。お転婆な癖にいざとなるとすぐにエルドを頼るドリーを。もう失われてしまったが彼らと同じ笑顔を護るためならなんでもできる気がした。
「わかったよ。僕が王を倒すよ。たとえこの命に代えても」エルドは真剣な面持ちでそういった。
「は?」マリアとチョウは同時にそう言うと顔を見合わせ改めてエルドを見た。
「気に入った、気に入ったぞ、小僧。やはり若い者は、男とはそうでなければならぬ」チョウは笑っていた。マリアも口に手を当てていたが笑いをこらえきれていなかった。
「なんだよ、二人して。こっちはいたって本気だぞ」エルドの口角もわずかだが緩んだ。
「じゃあ、あなたも旅の仲間入りですね」マリアが途切れ途切れにそう言った。
「え?じゃあふたりはまさか……。反逆者の一味ってこと?」
「というよりも旅をして王国で起きていることを確かめているのです。こう見えてもチョウは巷では賢者といわれている頭の切れる男なんですよ」
「そしてマリアは未洗礼の聖女と言われ、一部の人民の心の拠り所となっている」
「私はそんな大層な人ではありません」マリアは謙遜するとつづけた。
「改めてエルド、私たちの旅の仲間になりませんか。王国で何が起きているのか、そしてどうすればいいのか、それを知る旅をしませんか」
「見ての通り僕にはもう帰る場所はない。仲間に入れてくれるならそんなにありがたいことはないです。よろしくお願いします」
こうしてエルドは賢者と聖女の旅の仲間となった。
そして実はそこにはもう一人、聞き耳を立てていた男がいた。反逆の騎士シド、暴虐な親衛隊長を自ら殺し王軍に追われていた彼は野に隠れながらそこにたどり着いた。草原で大の字になり、星のきらめく夜空を眺めながら三人の語らいに耳を傾けていた。
翌朝、エルドと三人は村を後にした。これまでの人生のほとんどすべてを過ごした村と家を最後に眺めると自然とエルドの頬を涙が濡らした。村人全員の遺灰を埋めて大きな石を置いた簡素な墓を前にエルドは両手を合わせて黙とうした。
「今までありがとう。僕は旅に出るよ。みんな、見守っていてくれ」小さくつぶやくとエルドは立ち上がり、その場から立ち去った。その瞳はすでに遠くの何かを捉えていた。
数か月後、新しく仲間となったシドを含めた四人は辺境の街、エンデで人民軍を組織し王に対する反乱を起こした。その町の小さな酒屋で四人はそれぞれに杯をもち互いに誓い合った。
「正義に」賢者チョウは言った。
「神に」聖女マリアは言った。
「国に」騎士シドは言った。
「みんなに」エルドはそう言うと皆で乾杯した。
エルドはこの時にひそかに決意した。このパーティーで最初に死ぬ人がいるならばそれは自分でなければならないと。仲間の三人の誰かが死ぬのを見守るくらいなら自分が最初に見送られるようにするつもりだった。それ故に彼は常に先頭に立ち、危険なことも進んで引き受けた。その悲痛な決意とは裏腹に常に先頭に立つその雄姿からいつしか彼は勇者と呼ばれるようになった。
そして時を同じくして悪逆非道な王もまた魔王と呼ばれるようになった。
気が付けばエルドは戦場で横になり、口から血を吐き出していた。
近くでは錯乱状態の魔王が独りで叫び声を天に上げていた。しばらくすると魔王はようやくいくらか正気を取り戻したのかエルドを見て、ゆっくりと歩いてきた。瀕死のエルドの胸倉を片手でつかみ持ち上げる。エルドは持ち上げられる際に一目で仲間の姿を確認できた。皆、エルドを救出すべく突進してきていたが王軍に阻まれて前進できないでいた。エルドは笑みを浮かべると同時に涙を流した。右手には腰からひそかに抜き取った短剣を隠しながら。誓いが果たされる時が来たのだ。魔王と勇者の視線が同じ高さとなり両者は一瞥した。どういうわけか魔王も涙を流しながら哀願するような表情をしていた。
「なぁ、勇者よ。お前は俺の敵か、それとも仲間か」
「敵だよ」エルドはそう言うと叫びながら最後の力を振り絞って短剣を魔王の首筋に突き刺した。
「うぐっ」魔王の首からは血が噴き出した。右手のロングソードはエルドに向けて突き立てられていたがその手は震えて動かなかった。魔王は最後の最後まで逡巡しついにエルドにとどめを刺さなかった。魔王はロングソードを落とし、エルドの胸倉をつかんだまま崩れ落ちた。
「ははっ、こういうことだったか」魔王は息も絶え絶えにうなづきながら言った。瞳にはもう狂気と底なしの闇は消えていた。
「すまなかった、ありがとう」魔王はエルドを見つめるとまるで息子に謝るかのように優しい表情で笑みを浮かべた。そうしてエルドを抱きかかえるとまるで鼓舞するかのようにエルドの背中を三度叩いてそのまま力尽きた。
勇者は魔王を倒した。
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