第10話 繋いできた!
「高校生の時の話だ」
桜庭は突然の身の上話に少し驚いた様子を見せていた。
「昔の俺は、今の桜庭と同じだった」
「えっ……」
考えればわかること。数学の難問をたかだか理系の人間が解けるわけがない。
それに、文系が習わないような部分なんて、
「地方の国公立を目指してたんだよ。そんで、その勉強をしてる中で出会ったのが――――昔の恋人だ」
俺は親からの期待と、学校の先生からの後押しもありながら、当時の俺は順当な道を歩もうとしていた。彼女はいなかったが、友人に恵まれていて、なんてことのない生活をしていたんだ。あの時までは。
『君、いつもこの自習室使ってるよね』
『…………? はい?』
『あぁ、ごめんごめん。あたし
『は、はぁ……』
高校三年の春――――その時の俺は誰も使わない自習室を間借りして大学受験の勉強をしていた。誰もいないから羽を伸ばしたい放題だった。
谷口千秋の第一印象は『奔放』だった。初対面なら話す順番を間違えているだろうとは指摘できなかったが、その時の状況は今でも覚えている。朗らかで、笑顔が綺麗な女子高生だなと思った。
思えばその瞬間から、どこか惹かれる要素があったのかもしれない。
「それから俺は昔の恋人を追うようにして志望大学を変えてついていった。結論から言えば、幸いなことにその志望校には合格して、晴れて付き合ったんだが」
その後のことは、想像に任せる。
今俺のことを好いてくれてる人の前で言うべきことか、はさておきながら。
「それまでの苦労は人並みじゃなかった。両親と学校の教師を説得するのに死ぬほど苦労した。勿論それだけじゃない。並みの文系に張り合うなら相当の勉強量を補わないといけない。遊びじゃないんだ。口を開けてハイOKなんてことはない」
「っ…………」
桜庭は俺のことをじっと見つめる。不安な様相を作り、手が震えていた。
娯楽の時間なんて与えられない。それこそ、どこかの店にウインドウショッピングなんて
「もう一度言っておく。俺の大学は無理だ。可能性なんてない。桜庭なら、理系のどこかの大学なら射程圏内だ。大人しくそっちに行ってくれ」
そしてこれ以上俺に付き纏うのも、控えるべきだ。
「わかってくれ。これが俺の思う、『桜庭のため』なんだ」
どの口で。どの態度で。どのツラして。なんて今更の話だ。
友人に何回も言われた。教師に何十回も言われた。両親に何百回も言われた。
だけどそれでも、その時の俺はそれが全てだったのだ。
今後悔しているかと問われれば――――分からない。
けれど、明らかな正解を前にして、道を
桜庭は終始、黙りこくっていた。俺の話を聞いたうえで、桜庭がどう出るかは分からない。だが、願うならば――――。
「先生は、さ。
「…………あぁ」
「それで、私にはするなって言いたいんでしょ。普通に進んで欲しいって、ことでしょ」
「そうだ」
強い口調で肯定を示すと、震えていた口が再度きゅっと絞られる。
何を考えているのかは分からない。
高校三年生にこんな難しいことを決めさせるのは間違っているとは思う。
まだ子供だ。間違いを犯す小さな子だ。責任も、将来も、そんなことまだ数年先でいい。
「――――先生は、私のことどう思ってるの?」
「っ? なんで急に」
「答えてよ」
上目遣いで、歪んだ目で俺を見る。こんな、間違いばかりの俺を見る。
「――――答えられない」
「なんでっ」
「感情の問題じゃない。立場の問題だ」
「――――そうやって。すぐに誤魔化すんだ」
その言葉を皮切りに、より一層嫌な表情を見せる。
俺だって自ら望んで口にしたい訳じゃない。だが、こうでもしないと無為に時間を過ごしてしまうだけだ。桜庭の不機嫌な表情はだんだんと形となって表れてくる。
棘のように鋭い発言が、暗いトーンとともに飛んできた。
「本当はただ来てほしくないだけじゃないの?」
「それは違う」
「私には先生よりいい人がいるからって、結局子供扱いしてるのもそういうのの所為なんでしょ」
「っ……」
「私は本気なの!! 後悔なんてしないもん!」
「だからそんなのどうせ子供の駄々で――――」
「だったら、今本気なのを示せばいいんでしょ?」
そう告げた桜庭は制服のボタンに手をかけて、震える手で外しだす。
両目を
「ちょっ――――何を」
「今ここですれば、本気だって言えるでしょ」
「馬鹿っ。そんなことで」
「私にとってはそんなことじゃない!!!!!!」
強い語気に圧倒されて、進んだ手により下着が見える。俺は思わずその手を掴んで、泣き出す彼女を制止させた。
「なんで止めるの!? 私は本気なのに!!!」
「本気かどうかをこんな形で表すのは間違ってる」
「じゃあどうすれば信じてくれるのっ!!?!」
甲高い泣き声が耳に響く。
ドロドロした空気が部屋を覆う。
この娘は本気だ。それは痛いほど伝わってくる。
俺のために、俺なんかのために。こうして躍起になって行動を起こしてくれている。それが酷く胸に刺さる。
ここで許せば、彼女は辛い経験をするだろう。
ここで見過ごせば、彼女は俺に、より一層甘えてしまうのだろう。
俺はそれをするのが正解なのか。彼女を目を見て口を噤んだ。
「…………」
泣き腫れた瞼が、色々な感情をないまぜにして訴えかけてくる。
絶対に後悔はしないと、そう言いかけてくる。
思えばそれは、俺が昔の恋人に向けていたものと同じものだった。
「…………はぁ」
間違っている。間違った選択だ。
だがそれを俺が止めるのも、烏滸がましいことだったのだろう。
ならば――――することは一つしかない。
「本気なんだな?」
「……うん」
「後悔しねぇんだな?」
「うんっ」
「なら。どんな終わりになっても、文句は言うなよ」
「――――――っ!」
桜庭は、少しぽかんとした表情をしていたが、理解したのか驚きと歓喜の表情を作りだした。
花のように笑う彼女に、つい緩んだ表情を見せてしまう。
「先生、好き!」
「って、待て待て。抱き着くな抱き着くな」
「えへへぇ〜♪」
こちらから抱き締めることはまだできないが、それでも構わず桜庭は力強く俺を抱き締めた。
「桜庭、強い強い」
「だって先生が酷いこと言ったんだもん。ちゃんと充電してくれなきゃダメ」
「いや、それは申し訳ないんだが……その。なんというか」
「…………?」
自覚のない様子に、つい天を仰ぐ。
「当たってる」
「…………? ――――っっ!!!?!?」
ようやく気付いたのか、桜庭は自身の身体に視線を落とす。落した先にあったのは、ブラウスから見えかけている下着だった。
それに気付いた瞬間、みるみるうちに頬を赤くさせていった。本当に、自覚がないのは恐ろしい。
「みっ、見ちゃダメ!」
「見てないっ。見てないから」
「…………む」
まるで、(それはそれで不本意)と言うような表情をしていた桜庭だったが、いそいそとボタンを留めて身だしなみを整えた。
そして再度、俺を抱き締める。
「この先、やることが多くなるなぁ」
「?」
「親御さんと学校と、塾の方でも対応が変わってくる」
「え゛っ。塾って……担当変わっちゃう?」
「それは多分ないな。文系科目なら教えられる」
「やった♪ じゃあまだまだ先生と一緒だぁっ♪」
生徒にここまで信頼を置かれているのは嬉しい限りだ。
さて、これからどうしようか。
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塾講師と生徒 私情大橋 @betahobby
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