遺作

雪乃 雪

プロローグ

小さい頃、父と一緒に映画を観る時間がとても大好きだった。

母が亡くなった後、僕の為に毎日必死に働いてくれる父と、唯一ゆっくりと家族として時間を共有出来ていた、僕にとっても父にとっても貴重で、とても大切な時間だった。

普段は無愛想な父が、映画を見ている間は子供のような無邪気な表情をしていたのを、今でも鮮明に覚えている。

きっとその頃からだろう。僕が映画監督になりたいと明確な夢を持ったのは。いつか僕が作った映画を父に見てもらって、毎日頑張ってくれていた父を喜ばす。

そう思った次の日から、僕は毎日カメラで様々な映像を撮り続けてきた。

風景、友人達と過ごすなんてことの無い日常。

どこに行くにもビデオカメラを持ち歩き、常にカメラを回す。そんなある日、ふと思ったことがあった。


『僕が撮りたい映画ってなんなんだろう』


父はジャンルを問わず様々な映画を見ていた。そんな父が一番に喜んでくれる映画。

まだ小学生だった僕は、ある日父に聞いた。


『お父さんが好きな映画ってどんな映画?』


人差し指と中指でタバコを挟んだ父は、少し考えた後、優しい笑みを浮かべ僕の頭に手を置いて答えた。


『お前が幸せになる映画』


ただ一言。父はそう答えると、タバコの火を消して自室へ戻って行った。

僕が幸せになる映画、それは一体どういうことなんだろう。もう寝ただろうし、明日にも聞いてみよう。そう思った僕は、その日は眠りについた。

その明日が永遠に来ないことを知らずに。

あれから数年。高校三年生になった僕は、今でもその答えを探し続けている。


※※※※※※※※※※※※※※※

「銀河鉄道は死者を乗せる列車。星の海を渡るそれは、ジョバンニとカンパネルラを繋ぐ最後の糸になった」


自宅から徒歩十分から十五分ほどの距離にある小学校。

僕が通っていたこの学校も、少子化の影響でついこの間閉校となった。地元民の相違で校舎は取り残されることとなり、昼間には食堂が経営されている。

深夜、僕は鍵が壊れた体育館の小窓から侵入すると、屋上へ行き夜空を撮っていた。

街灯や建物の明かりがほとんどない田舎では、雲が出ていない夜には星が良く見える。都会では見ることの出来ない、満天の星空を綺麗に見ることができるのは田舎の特権だろう。

今日のテーマは『銀河鉄道の夜』

僕が好きな作家である宮沢賢治の代表作のひとつだ。

作者が亡くなったことにより、未定稿のまま残されたことにより、この作品は今でも様々な解釈がされている。そもそも、宮沢賢治の作品はその多くが人によって解釈が分かれる。そんな答えがどこにもない作品が、僕はとても好きだった。

一度目を閉じ、僕は『彼』になる。


「……カンパネルラ」


手に握られたカメラに、僕の声が入ったのをしっかりと確認すると、僕はカメラの電源を切った。

その場に寝転がり、僕は頭の後ろで手を組み星空を見上げる。

空では天の川が綺麗に流れており、見ているだけでその美しさに引き込まれそうになる。あの星の集合体を川と表現した昔の人は天才だろう。その発想力には脱帽だ。

一度ため息をつき、僕は先程撮った映像を確認した。我ながら良く撮れていると思う。ただ黙って見ていると、綺麗な星空の中を列車がゆっくりと通る。そう錯覚させるほど、無駄のない映像だった。今回のテーマは上手くいったと言っても良いだろう。


「さて」


最後、僕の声が聞こえた瞬間に映像を止め、それを削除した。

確かに上手く撮れていたかもしれないが、僕の本当に撮らなくちゃいけないものはこれじゃない。少しでもそう思ったら、僕はどれだけ上手く撮れていようが映像を削除している。

あの日、父が言った言葉。


『僕が幸せになる映画』


それだけを撮るために、いらないものは全て消している。

その答えはなんなのかわからない。もしかしたら今まで消してきた映像の中にその答えがあったのかもしれない。それでも僕は、自分の直感を信じてただ映像を撮り続けた。

三百六十五日、毎日休むことなくただひたすらにカメラを回した。それでも、未だにこれだと思えるものに出会えたことがない。

今僕が撮っているのは、物語の冒頭。

この部分がしっくりこないことには、映画を撮るなんてのは夢のまた夢だ。


「幸せ、ってなんなんだろうな……」


幸せの形は人それぞれとは良く言ったものだ。

僕にとっての幸せ。ここ数年、ずっと一人で生きてきた中でそんなものを感じることも無くなっていた。

僕が今まで幸せと感じていたもの…それはただ一つだけだった。なら、父が言っていた僕が幸せになる映画は二度と撮ることが出来ないのかもしれない。

そう思ったことも何度もあった。

それでも毎日カメラを回しているのは、きっと探し続けているから。

僕が幸せと思っていたあの時間を。あの感情を、あの気持ちを。

そして、撮り続けることが僕にとっての銀河鉄道だから……


「………っ」


突然、強い風が吹いた。

そういえば、台風が近づいていると今朝のニュースでやっていた。天気が悪くなる前に帰ろう。

そう思った僕は、ついでに自分が通った学校の深夜の姿を撮ってから帰ろうとカメラを回し校内へ戻った。

明かりなんてひとつも無い校舎の中は、真っ暗だった。カメラ越しに見ても、ただ真っ暗な世界が広がるだけ。これじゃ何も意味が無い。

そう思い、カメラの電源を切ろうとした瞬間だった。

僕の心臓が大きく飛び跳ねた瞬間、僕は真っ暗な廊下を全力で走った。

廊下は走ってはいけないなんてルールは関係ない。カメラを回しながら、僕は全力で廊下を駆け抜け、その声が聞こえる体育館へと向かった。


「これだ!」


思わず大きな声を出してしまう。

小さな校舎。僕しか居ないはずのその場所に響き渡った、透き通った歌声。

それが僕の鼓膜を震わせた瞬間、僕の本能が確かに告げた。


『これを逃すな』


と。

体育館の思い扉を勢いよく開け、僕は足を踏み入れる。

一瞬、ピタリと歌声が止むが、ステージ上に立つ彼女は僕の姿を確認すると、すぐに再開させた。

ここにもあかりはない。だから誰かが居ることということはわかるが、その表情を捉えることは出来ない。

しかし僕はカメラを回し続ける。ただ黙ってカメラを回し続ける。

一体どれだけの時間が経ったのかわからない。一分だったかもしれないし、五分だったかもしれないし、三十分だったかもしれない。

彼女の歌が終わると同時に、窓から射し込んだスポットライトが、壇上に立つ彼女の姿を映し出した。


「…………!」


息を飲んだ。

触れれば溶けてしまいそうな、腰まで伸びた艶のある真っ白な雪のような髪。まだ子供っぽさを含んでいるものの、どこかミステリアスさを覚えさせるまるで彫刻のように整った顔立ち。彼女の小さな身体を包み込む白のワンピースから覗かせるスラッと伸びた手足。その全てのバランスが調和し、まるで絵画の天使を思わせる出で立ち。

そして、そんな彼女が先程まで発していた全ての音色は、この世界を彼女の色に染め上げていた。

ふわりと、宙に浮かぶようにステージから降りると、彼女は僕の前に立つ。カメラ越しにその姿を確認している僕は、彼女の顔を映そうとするが、身体が言うことを聞いてくれることは無かった。

月のスポットライトは彼女の姿だけを照らす。

そんなわずかの光に照らされた彼女の口元が、僅かに綻んだのがカメラ越しに確認出来た。

そして彼女は、言葉を紡ぐ。その声色は聞いているだけで惹き付けられる、そんなものだった。


「君が作者なら、この出会いをどう表現する?」


唐突な問いかけに、僕は一瞬言葉を失うが不思議とその答えは直ぐに浮かんできた。

震える口を何とか開き、僕はその問いに答える。


「…銀河鉄道が汽笛を鳴らしたそんな夜、僕は天使を捕まえた」


僕がそう答えると、二人だけの体育館に沈黙が流れる。

そして、次にその沈黙を破ったのは彼女の大きな笑い声だった。


「ははっ、あははははは!いいね、そういう臭い書き出し、私は嫌いじゃないよ」


そう言って、彼女は僕に手を差し出す。


「じゃあ、その続きは君に紡いでもらおうかな」


真っ直ぐにこちらを見つめる、彼女の藍色の瞳に吸い込まれた僕は、差し出された彼女の手を握る。

ひんやりとした彼女の体温が、繋がれた手を通して僕の全身に広がった。


「白石 旭。映像を撮るのが趣味の、ただの田舎の高校三年生」


「やっぱり、運命の出会いってのはいつも唐突のものなのかもしれないね。フィクションでも、現実でも…黒沢 蛍。歌を歌うことが趣味の、"元"都会の高校三年生。多分ずっと探してたの、君のことを」


高校三年生の七月。


『銀河鉄道が汽笛を鳴らしたそんな夜、僕は天使を捕まえた。』


運命の物語は、唐突に幕を開ける。

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