第4話 それぞれの名前

 脱衣所で、あまりのバスタオルの吸水力にボクは驚いてしまい、声を出してしまったばっかりに、背後に視線を感じている。それは、キミがいるお風呂場の方を向いて、身体を拭き始めていたから、脱衣所の出入口を背にしている格好だ。


 「あら?春花ちゃん、帰ってたのね?」


 はるか…?一体、誰のことだ?しかも、その声はどうしてだろう、何故か懐かしさを感じさせる声だったのだ。そうだ…この声は…。


 「え…?母さま?」


 そう、まるで…ボクの亡くなった母親の声に似た感じの声だったのだ。思わずボクは、視線を感じた方へと振り向いてしまった。


 「え…っ。春花ちゃん…?私のこと、母さまって呼んでくれるの!?」


 振り向くとそこには、灰色の髪に、薄いピンク系の白い肌、灰色の目をした大人の女性が立っていた。顔は、ボクの母親の面影もあるように感じたが、どちらかと言えば本来の姿のボクに似た雰囲気を持っていた。


 「すみません…。ボクの母親の声と聞き間違えました。あの…芙由香さん、ですか?」


 「あーやっぱりー!!そっちだったのねー?残念!!もう…春花ちゃん?何、言ってるのよー?貴女は、真登まさとくんと同じで、私の養子でしょ?」


 初めて出会った芙由香さんから、突然そんなことを言われたボクは、全く意味が分からなかった。この時、キミの名前が真登と言うことを、ボクは初めて知ったのだ。それに、ボクの名前が春花と名付けられてしまっている事にも困惑していた。


 「さっきから、騒がしいけどどうしたんだ?」


 ──ガタンッ…ガタンッ…


 お風呂場の引き戸が少し開いて、そこからキミが顔を覗かせた。


 「あれ?芙由香さん、帰ってたのかよ!?そうだ…。」


 「えへへー?それで、真登くん!!春花ちゃんの事でしょ?」


 ──ポンッ…ポンッ…


 ウインクしながら芙由香さんは、さも当然の如くキミに対して春花と言う名前を口にして、手で私の頭を二度タッチするように触れた。


 「春花って…。芙由香さん…?その子の名前なのか…?」


 さっきキミがボクを連れてきた筈なのに、何故名前を知っているんだと、キミは驚きを隠せない様子だったのを覚えている。


 「何言ってるのよー?真登くんと、春花ちゃんは私の可愛い養子なんだから!!もう、真登くんたら…寝ぼけてるのかしら?」


 いや…何を寝ぼけたこと言っているのと、この時ボクは芙由香さんに言いたかった。


 ──ピリリリリッ…


 凄いタイミングで、玄関の呼び鈴が鳴ったのだ。


 「あら?誰か来たみたい?私、出てくるからねー?」


 ──ガタンッ…

 ──トントントントントントンッ…


 芙由香さんは、脱衣所の引き戸を閉めると、慌てた様子で行ってしまった。


 「なぁ…?春花って言うのか?君の名前。」


 勝手に名前が決まってしまった事には、先程からモヤモヤしているが、この世界で使える名前が欲しかった事には違いなかった。


 「うん…。そうだよ?名前、真登って…言うんだね?…お兄ちゃん。」


 「ちょっと待て!!お兄ちゃんって…どういう事だよ?」


 この家で、キミの親代わりの芙由香さんが言うんだから、ボクはキミの義妹なんだ。この時のボクは、年下の男の子をちょっと揶揄ってみるのも、良いかなと思ってしまった。


 「さっき芙由香さんが、ボクとお兄ちゃんのこと、『私の可愛い養子』って言ってたでしょ?だから、真登くんは…ボクの義兄だよね?」


 「いや、だって…。さっき…俺が春花ちゃん連れて来たばかりなんだぞ?そんなに早く養子縁組出来る訳ないだろ?!」


 ──パサッ…


 「ねぇ…お兄ちゃん?」


 キミのみている前で、ボクはわざと身体に巻いていたタオルを解けさせた。


 「おい!!早く身体を拭けよ!!俺は、風呂場で身体拭くから、タオル取ってくれないか?」


 キミは慌ててお風呂場に顔を引っ込めると、お風呂場の中から手だけ出してタオルを求めた。


 「これかなぁ?はいっ!!お兄ちゃん?」


 「ありがとう。どこにあるんだ…。」


 ──ギュッ…


 「ん?なんだ…手か?」


 「うん!!これから、ボクのこと宜しくお願いしますね?お兄ちゃん?」


 ──ギュウッ…


 「ああ、宜しくな?本当に、後悔しても知らないからな?」


 「大丈夫だよ?お兄ちゃんの方こそ、ボクをお嫁に貰う約束したこと、後悔しても知らないからね?」


 ボクが、別の世界から来た“災厄”と呼ばれた魔族で、キミより年上のお姉さんで…もうこれだけでも、後悔に足るだろう。


 「ん?これ以上、何の秘密もないだろ?」


 「どうだろうねー?無いと良いよねー?」


 秘密を秘密のままで、キミと共に過ごせることを切に祈るまでだ。


 「お兄ちゃん…手、もう良いかな?タオル渡したいんだけど…。」


 「芙由香さんの件もあるしな?俺は結構寛容だと自分でも思ってるから、何か秘密があるなら早めに言ってくれよ?秘密抱えて生活するのも辛いだろ?って…な?」


 また、芙由香さんに関して気になる事を聞いてしまったボクは、またモヤモヤした気持ちになってきてしまった。


 「春花ちゃーん?タオル…渡してくれるか?」


 「あっ…?!お兄ちゃん…ごめんね?はい…。」


 慌ててタオルをキミの手の上に乗せると、餌を待っていた魔物のような勢いで、タオルがお風呂場の中へと引き込まれた。

 義妹なのに、春花ちゃんは何か気持ち悪い感じがしてしまい、尚更ボクの頭の中はモヤモヤしていった。


 「春花ちゃん?居るか?」


 「うん…。今、ボク…ね?服を着ているところだよ?」


 「ゴメンな?服を着終わったら、廊下に出てて貰えるかな?」


 丁度、大きめな上着を着終わったところだった。これはキミが普段お風呂上がりに着ている、部屋着の替えだったんだよね。


 「じゃあ、ボク…出てるね?」


 ──ガラッ…

 ──バタンッ…


 脱衣所を出ると、玄関の方から聞いたことのある声が聞こえてきた。ふと、脱衣所を出て左手の先にある玄関の方をに顔を向けると、土間の所に見たことのある顔をした女性が、芙由香さんと仲良さそうに話していた。


 「え…。」


 思わず声が漏れてしまったが、その女性から漏れ出てくる気配は、まさしくあの女神そのものだった。いつの間にか、ボクが芙由香さんの養子になっている件も、これで説明がつく。あの女神が能力でも使って、芙由香さんがボクを養子縁組したことにして、記憶改竄でもしてしまっているのだろう。

 でも、キミが記憶改竄されていない事で、おかしな事にならないと良いのだが…。


 ──ガラッ…


 「ん?春花ちゃん、俺のこと…。ん…?!」


 「しっ!!お兄ちゃん…。知らない人が来てる…。」


 急に脱衣所の引き戸が開いて、キミが喋りながら出てこようとするから、ボクは思わずキミの口に手を当てて遮ってしまった。


 「んんー!!やめろ!!あれは、お隣の愛上めがみさんだ。」


 「は?!」


 女神が“めがみ”を名乗るとは、大胆にも程がある。この世界に来てまで、ボクに対する当てつけだろうか。


 「春花ちゃーん?愛上さん来てるわよー?」


 ──ガシッ…


 「おい…。何で…芙由香さん、愛上さんに春花ちゃんのこと紹介しようとしてんだ…?まだダメだろ…?」


 慌てた様子のキミは、ボクが玄関に行かないように手を掴んで離そうとしない。


 「お、お兄ちゃん?で、でも…芙由香さん、呼んでるから…。」


 「何してるのー?春花ちゃーん?早くー!!」


 ボクの母親もそうだったのだが、芙由香さんもイライラしてくると、徐々に言葉がキツくなるタイプらしい。


 「お兄ちゃん…。お願い…。芙由香さん、怒っちゃうから…。ね…?」


 「ああ…。守ってやれなくて、ゴメンな?せめて、一緒に行くくらい良いよな?」


 ──ギュッ…


 玄関に行けばきっと、あの女神の筋書き通りに話が進むのは目に見えている。どんな非現実的な話を、あの女神が展開してくるのかボクは逆に楽しみだった。

 それにしても、キミの手は大きくて冷たいな。

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