7
数日後のランチタイムに、またしてもそいつは現れた。
いつものフレーバープリントのナノミールを乗せたトレイをテーブルに置くやいなや、アシュ・レンベルクは向かいの席にどかりと座り開口一番、
「昨日夜なべしてシミュレーションルームの利用申請システムをハッキングしたんだけどさ、」
何よりもまずは口を塞ぐ必要があった。『利用申請システム』で体が反応し、『ハッキング』でテーブルの上のナプキンホルダーに手が伸びて、続きの言葉を吐く前にその口の中へ紙ナプキンの束を突っ込む。プロボクサーも感心するレベルの反射神経だったはずだ。
「もがもが」
「いいから来なさい」
紙ナプキンをもそもそと咀嚼するアシュ・レンベルクの腕を強引に引っ張りながら、私は半ば走るように食堂を後にした。嫌な注目を浴びているのを感じる。有名人ふたりが連れ添って歩いている様子なんて、ソーシャルネットのインタラクションに飢えた連中にとっては格好の餌食だ。怒りと羞恥で顔がどんどん熱くなっていく。どうして私はこんなおかしなやつに目をつけられてしまったのだろう。何がいけなかった? 一度夢を諦めたやつが色気を出したらダメだったの?
私より背が高いくせにいやにゆったりと歩くアシュに苛立ちを覚えながら、廊下をいくつか曲がって校舎を出る。中庭を突っ切って、蜘蛛の巣みたいに絡んでくる視線を振り切るようにキャンパスの端まで早足で抜けて行く。敷地を覆うように植えられた雑木林まで進み、ようやく人気のない場所を見つけたと思い気が緩んだのか、左のつま先が足元に落ちてる石か草かに引っかかり身体のバランスを崩してそのまま地面が目の前に、
「きゃっ」
────予想していた衝撃は来なかった。
気付いたときには身体は地面に水平で、頭はなにか柔らかいものに突っ込んでいた。
「もがが……」
慌てて身体を起こす。私の顔の下、すぐ目の前に、アシュ・レンベルクの顔がある。つなぎの上からではわからなかったがずいぶんと華奢な彼の腰に馬乗りになって、私はアシュの顔を見下ろしていた。どうやら転倒する際に彼をクッションにしてしまっていたらしい。咄嗟に助けてくれた、というよりは、私が腕を放さなかったせいで巻き込んでしまった、という方が正しいのだろう。
……これ、あんまり良くない絵面な気がする。
「ごめんなさい。今どくわ」
立ち上がろうとすると、アシュの方から「ごくん」とあり得ない嚥下音がして、思わず身体が固まった。
「飲み込んだの、紙ナプキン」
「食用セルロース繊維でできてるから、食べても平気だよ?」
私の下で無邪気に笑うつなぎ姿の少年。やっぱりこいつおかしいんじゃないの。
「……(ドン引き)」
「いや引かないでよ。先に口に突っ込んできたのはそっちだからね?」
「それは、あなたがあんなに人がいる場所で……」
文句を言いかけて口ごもる。それを言ってしまってはもう、認めたことになるんじゃなかろうか。
アシュは申し訳なさそうな顔をして、
「あれはごめん。諸々の配慮が足りてなかった。徹夜のお供に飲んでたエナジーシェイクのせいでハイになってたんだ」
私は彼の目をじっとりと睨む。
「ハッキングって聞こえたけど」
「うん。校内ポータルの管理者アクセス権を拝借して、ここ数ヶ月分のシミュレーションルームの利用申請履歴を落としてきたんだ」
「バカなの? 校則違反どころか犯罪よ?」
「大丈夫だよ、痕跡は偽装済みだもん。情報系の教員ならともかく、教務課の一般職員が気付くわけない。それにセキュリティレベルが高いところには一切
「…………そう」
ホッと胸を撫で下ろす。──いや、なんでこいつのために安心してるんだ。私は緩みかけていた眉間に力を込め直した。
私のそんな様子を見上げていたアシュが、話を続ける。
「で、一晩かけて履歴データを復号してたら、その中にカレン・カザミの名前があった」
「へえ偶然。同姓同名なんていたのね」
「いくら名前が同じでも、学籍番号まで同じってことはないでしょ」
「…………」
誤魔化しきれなかった。
「ここ三ヶ月で四十二回。これが、あなたの名前が出た回数。週に三回以上はシミュレーションルームを利用していることになる。そこら辺のストライダー志望よりも高頻度なんじゃないかな──極めつけに、申請履歴のタイムスタンプは例のゲストアカウントのバトルログと合致してると来た」
言い逃れはできそうになかった。
諦観のため息をついて、私は頷く。
「確かに、私はゲストアカウントで何度かハイスコアを取ったことがあるわ」
「何度も、の間違いじゃない?」
「認識の相違ね」
「ともかく、じゃああのスコアを出したのは、あなたなんだ」
ダークグリーンの瞳が、こちらをまっすぐに見つめる。
「……ええ。そうなるわね」
「…………そっか」
アシュは、何故か少しだけ、感極まったような、泣きそうな顔をした。
それから元の柔和な笑みを取り戻して、
「あなたに
言った。
「あなたに、アーコスに乗ってほしい」
私は。
「──────」
すぐには言葉が出てこなかった。
断るつもりでいた。脳のブローカ野は確かに彼の頼みを拒絶するための簡潔で無機質なフレーズを構築していたはずだった。
だけど、揺らいでしまった。
魂の隅っこでにわかに勢いを取り戻そうとしている余燼が、胸から気道へ伝導するその熱が、私の喉の奥を焦がす。
──ダメだ。冷静になれ。
私は必死に呼吸をする。
──思い出せ。たった四年前だ。あの四次試験で、私は理解したはずだ。
落ち着いてきた。知らぬ間に上昇していた心拍数が、正常値付近に戻る。
私はアシュ・レンベルクの顔を睨みつけて、言う。
「断るわ」
「……どうして?」
「私はストライダーになるつもりはない。それだけ」
「アーコスには乗りたいのに?」
血が昇る。
「あんたは何も知らないでしょっ!」
目の前の少年は動じない。笑みを消した真剣な表情でじっとこちらを見つめて、
「知ってるよ。少なくともアカデミーにいる学生の中で、ストライダー適性が一番高いのは間違いなくあなただ。シミュレーションの結果は、あなたがプロのストライダーにも引けを取らない戦術的スキルを持つことを証明している」
「そんなの、シミュレータの数値上だけの話じゃない」
「数値上の空論を現実の地平に下ろすのがアーキニアの仕事だよ」
「……優秀なストライダー候補なら他にもいるでしょ」
「本当はそれなりにスキルの高いストライダー志望なら誰でもいいって思ってたんだけどね。だけどカレン・カザミにストライダーとしてのスキルがあると分かった以上、あなたにしか頼みたくない」
──ああ、イライラする。
アシュ・レンベルクの意図のわからない私への執着にも、彼の言葉を嬉しく感じてしまう自分自身にも。
半ば投げやりになって、私は吐き捨てた。
「そんなに言うなら、あんた自身が乗ればいいのよ」
「それができれば良かったんだけどね」
急に、言葉の温度が下がった気がした。
私は虚をつかれたような気分になって、目の前の少年の顔を見下ろす。アシュは視線を少し伏せて、
「──ところで、そろそろどいてくれないかな」
と言った。
「…………」
忘れてた。
「ご、ごめんなさい」
私は慌てて彼の上から退いた。アシュは上体を起こし、体育座りをするみたいに膝を立てたかと思えば、いきなりズボンの裾に手を伸ばしてまくり上げた。
「見て」
見た。何の変哲もないふくらはぎがそこにある。ムカつくくらいに綺麗だ。ムダ毛は完璧に処理されているし、適切な保湿ケアの賜物か、触らなくてもつるすべ肌なのが分かる。
「……美意識が高いのね」
「ごめん、見ただけじゃわからないか。触ってみて」
「えっ、さ、さわっ、!?」
「動揺しすぎでしょ、変な意味じゃないって。あなたならそれで分かるはず」
恐る恐る手を伸ばしてみる。指先が触れる。予想していた通りの柔らかな弾力と、予想していた通りの温感。しかし違和感が一つ──ほんのかすかに、表面が振動している。脈動ではない──アシュの言葉が腑に落ちた。私はこれが何なのか知っている。この振動は、触覚をシミュレートするためのセンサーの動きだ。
「義足……?」
「そう。バイオインプラント技術を適用した最新式の制肢義足。一般流通前のものを
「……私なら分かるって、そういうことね」
入学してから一年と少しの間だけとはいえ、この義足の開発には私も関わっている。モニタである彼には
「まさか、私に研究を手伝ってもらいたいのって……」
「いやいや、探していたのはあくまでストライダーだから。あなたの研究は関係ないよ。まあでも、興味を持った理由の一つではあるかも」
アシュはズボンの裾を戻すと、立ち上がる。
「授業が始まるまでまだ時間あるよね。もう少し話せないかな?」
「……話すだけなら」
近くにあった塗装の剥がれかけたベンチに、少し離れて並んで座る。
しばらく沈黙があった。その間、私はじっと、自分のつま先を見つめていた。──アシュは両足とも義足だった。歩くのがいやにゆっくりだったのはそのせいなのかもしれない。けれど普通に歩いている分には違和感がなかったから、リハビリはほぼ完了しているはずだ。
『フライトロック症候群』という。
義肢技術が発達し、生身の手足と同等の機能を持つようになってから生じた、比較的新しい症例だ。
主に幼少期に義足利用者になった子供に見られる、身体の急激な成長に合わせた適応的な運動学習を行うことができず、リハビリが完了し日常生活に復帰した後も特定の身体動作が困難になる症状。アーコスの神経リンク操作は生身の運動能力の影響を大きく受ける。もしもアシュが義足で走ることができないというのなら、素早い機動を必要とするアーコスの操縦も難しいだろう。
「十年前」アシュがぽつりと言った。「当時住んでいた移動型キャンプがネミスの襲撃を受けたんだ。家族はみんなそこで死んだ。自分は生き残ったけど、両脚を失った」
私はそっと、アシュの表情を伺う。アシュはこちらに気づいて小さく笑い、
「大丈夫。ちっちゃい頃だったからね。心的外傷はほとんど残ってない」
「……それは、だけど……」
「いいんだよ。今、こうして生きてるから。そしてそのとき命を助けてくれたのが、伝説的ストライダーの【スレッド】。つまりサクラ・カザミ大佐だった」
心臓が高鳴る。
「この学校に来たのは彼女に憧れたから。本当はストライダーになりたかったけど、この身体だからね。アーキニアを目指すことにしたんだ。いつかアーコスを作って、【スレッド】みたいな人に乗ってもらうために」
「……でも、」
「そうだね。【スレッド】はもう亡くなってる。だけど彼女に繋いでもらった命の一つとして、諦めるのは違うって思った。だから猛勉強してUDFアカデミーに入学した。運良く
「……私は、」
私はストライダーになるつもりはないと、もう一度言おうとした。
だけど。
──彼女に繋いでもらった命の一つとして、諦めるのは違うって思った。
目の前のこいつの言葉が、胸の奥で引っかかっている。
私は一度諦めた。何も生半可な覚悟で諦めたわけじゃない。四年前のあの試験を経てから、何日も何ヶ月も自分と向き合い続けてようやく出した結論だ。私はもう、アーコスには乗らない。
だけど。
ストライダーのことは頭の隅にずっと残っていた。アカデミーに入学してからもストライダー養成コースの学生たちのことは常に目の端で追い続けていた。二年になって、施設案内を熟読したのは偶然でもなんでもない。自分でもシミュレーションルームを使いたくなったから。自分の中の熱が抑えきれなくなっていたからだ。もしも本当にアーコスに乗る気がこれっぽっちもなかったのだとしたら、目の前の少年の話なんてこんなに長々と聞いてはいなかった。適当に冷たい言葉であしらって、今頃私はひとり黙々とナノミールを口に運ぶ、いつものランチタイムを過ごしていたはずだ。
──だったら!
自分の意志と向き合え。魂の声に耳を傾けろ。
最初っから答えはそこにある。
「──日時と場所は?」
私は訊いた。
「え?」
「だから、私はいつどこに行けばいいの」
「……じゃあ、」
アシュが顔をぱっと輝かせる。
「アーコスに乗ってあげるわ──超特別だからね」
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