いっことよしくん物語 ~おでん屋台編~

がんぶり

第1話 おでん屋台

 夕方、神戸電鉄粟生線の緑が丘駅のロータリーの隅をゆっくりと屋台を引く初老の女性がいます。

年季の入った屋台には赤い提灯が揺れています。

『おでん』と、墨で書かれた文字も一緒に揺れます。

その反対側に『いっこ』と、同じように墨で書かれています。

この女性の名前なのでしょうか?

その女性は、身ぎれいにしているものの還暦を過ぎた年齢にも見えます。

ただし、その可愛らしい顔とぽっちゃりとした体つきは、か弱いという感じでは無く、どちらかと言うと明るい性格と逞しさを印象付けます。

おでん屋台は、リヤカーの上に屋台が乗っているリヤカー屋台です。

でも、おでんの四角くて大きい鍋とおでんの重さは、けっこうあります。

いっこは、全身の力で屋台を引きます。

緑が丘駅のロータリーのいつもの場所まで来ると、いっこは一休みします。

いっこは、丸椅子に座って水筒のお茶を飲みます。

額の汗を手ぬぐいで拭いています。

お化粧をしていませんが、化粧したらかなりの美人になりそうです。

いっこは、お客さん用の丸椅子を並べます。

小さなプロパンガスのボンベを地面に置き、小型発電機のエンジンを始動します。

ブルルルル、ルーンッ、ル、ル、ルー。

赤提灯の中の電球や屋台の中の電球が点灯しました。


 近くの小学校の下校時間のようです。

小学生達が屋台の前を歩いて行きます。

 「やーいっ。 ネズミ肉おでんっ。 蛙が鳴くから、かーえろっ」

そんなことありません。

いっこのおでんは、上等な和牛のすじ肉を使っているのです。

大根、竹輪、じゃがいも、厚揚げ、ゆで卵、糸こんにゃく、明石の蛸の足だって入っています。

いっこは、何と言われようが平気です。

いつも、にこにこしておでんのお汁を気遣っています。


 若い母親と幼稚園の子供が電車から降りて来ました。

 「お母さん、 僕、おでん食べたいよう」

と、言っていっこの屋台を指さします。

 「汚いからダメよ。 コンビニのおでんを買ってあげるからね」

若いお母さんは、子供の手をどんどん引いて行きます。

 「やだよっ。 僕は、あれが食べたいようっ」

いっこは、平気です。

にこにこしておでんのお汁を気遣っています。

次第に、あたりは暗くなって来ました。

帰宅の会社員や作業員やOLが次々と屋台の前を通り過ぎて行きます。

誰一人として、いっこの屋台を覗く人はいません。


 今日も終電となり屋台を閉める時間です。

結局、お客さんは、一人も来ませんでした。

おでんは、一つも売れませんでした。

やっと、寂しそうないっこが四角のおでん鍋の向こうに見えました。

毎日、この繰り返しを、いっこは何年続けてきたのでしょうか?

いっこは、これが自分の人生だと思い『おでん いっこ』を続けているのです。

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