克己復礼《こっきふくれい》
しばらく歩いていると、母の声がした。歩き続けながら、紫苑は首を傾げる。
「待って、しーちゃん。そっちじゃないわ、逆方向よ。あなたは今、黄泉国に行こうとしているのよ!」
紫苑はふんっと鼻を鳴らして笑った。あまりにも簡易な誘惑だ。拍子抜けしそうだ。
(母さんは俺がここにきてること知らねぇよ。)
颯爽と歩き続ける。一つ目の誘惑から、二つ目の誘惑はすぐだった。
「待て。なぜ見間違える。それは橡じゃない。雅客が作り出した幻影だ。」
紫苑は聞こえるはずのない月読命の声に、ピクリと反応した。思わず立ち止まる。
(橡じゃない?…いや、違うだろ。そもそも月読命は基本的には橡のことを名前で呼ばない。それに、雅客は地獄にでも行ってるはずだ。だから、ありえない。ってか、これ、昔もやったネタだろ。なんで繰り返すんだ?)
紫苑は再び歩き出した。後ろを振り返らない、と再び心に誓って。後ろからの足音はいつの間にか聞こえなくなっていた。
次に声をかけられたのは、光がもうだいぶ近くなってきた頃だった。紫苑は昔の話を聞いていたので、まだ気を抜いていなかった。
「ごめんなさい、紫苑さん…やっぱり私、現世には戻れません。ごめんなさい。」
真後ろから聞こえてきた声に、紫苑ははっと息を呑んで足を止めた。服の、心臓に近いところを掴む。どくどくと大きな音を立てているのがわかる。
(嘘だろ…今になってかよ。いや待て、こいつは橡か?もしそうだとしたら、橡は…いやでも、あいつは大丈夫なはずだ。やっぱりなんて言わない、はずだ。)
パタパタと、足音が聞こえた。それは、だんだんと小さくなっていく。紫苑は振り返ろうとした。しかし、その次の瞬間に瞼の裏を映像がよぎった。橡の、覚悟を決めた顔。紫苑は首を振って前を確かめるように向いた。スッと横に手を伸ばす。
一方、橡には様々な人が話しかけていた。前には紫苑は見えず、ただ小さな光が見えるだけだ。
『橡、お前どこにいくつもりだ?』
『お前、なんで黄泉国へ行こうとした?弁明は今だけなら聞く。』
『橡ちゃんは、ずっと頑張ってたのよね。私の前では、全部吐き出していいのよ。全部私に背負わせて。』
『紫苑を誑かそうとするなら、許さないぞ。ただ、それ以外の理由なら…今だけなら聞いてやる。なぜ紫苑と共にいる?』
橡はその声を無視して歩き続けた。みんながそんなことは言わないだろう、と強く思っていた。
(紫苑さんは、あんなに冷たい声をしていないし、月読命はここには来れない。紫苑さんのお母様は、全部背負わせて、なんてきっと言わない。一緒に背負わせて、と言う。紫苑さんのお父様も、言っている内容は基本的には冷たいけど、あんなに冷たい声はしていない。)
ずっと歩き続けた。不安になる程、歩き続けた。それでも歩き続けることができたのは、月読命と紫苑への信頼故だ。
「瑠璃、とまれ!」
聞き慣れた声が聞こえ、橡は思わず立ち止まった。動いてはいけない、と脳が命令している。
「お前、よくも俺を裏切ったな…!お前のせいで俺は、地獄の鬼に痛ぶられることになったんだぞ!」
ぐっと握られた橡の拳が震え、息が荒くなる。しきりに瞬きを繰り返し、首を振る。
「よく今も生きたいと思えるなぁ。着黄泉命に妖気を送り続けたくせによぉ。俺だって、そんなに強情じゃなかったぜ?」
橡は座り込んだ。荒っぽく耳を塞ぎ、嫌だ、と繰り返すように首を振る。瞳は見開かれ、絶望に染まりかけていた。
「…返事をしたらどうなんだ!瑠璃!」
橡は思わず息を大きく吸って叫ぼうとした。なんと叫ぼうとしたのかは、本人にもわからない。ごめんなさい、なのか、もうしゃべらないで、なのか。しかし、それらを止めたのは歩き始める直前の紫苑の顔だった。
(駄目だ。話したら、声を出したら、駄目だ。よく考えて。雅客は今はここにいない。それを身にしみて知っているのは、私。大丈夫、いない。大丈夫、そう、大丈夫。紫苑と一緒に、現世へ向かわなくては。)
立ち上がりすっと一歩前にでて、橡は右へと手を伸ばした。
二人の手が触れ合った。次の瞬間に、その手は、お互いの存在を確かめるように強く繋がれる。二人は同時に歩き出した。出口はもう目の前だ。眩い光に、二人は思わず目を覆った。
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