不撓不屈《ふとうふくつ》

 瞼の向こう側が暗くなって目を開くと、そこには闇が広がっていた。驚いて辺りを見渡しても、誰もいない。そこでやっと、紫苑は理解した。

(ここが、三途の川への道…気を引き締めないと。今は弱いけど光が背後にあるってことは、俺はまっすぐ歩けばいいのか?)

恐る恐る一歩踏み出して、柔らかいような、硬いような、なんとも言えない不思議な感触に一瞬ためらう。

(駄目だろ、怯えてちゃ。死ぬわけじゃ、ないんだから。)

一度大きく息を吸って、吐く。そして紫苑は足の感覚を頼りに歩き出した。

 歩いても歩いても、何も変わらず闇が広がるばかりだ。本当に歩いているのかも怪しい。と、急に足の裏の感触が変わり、紫苑は足を止めた。小さな蝋燭の火だろうか。足元には、薄い影が揺れている。視覚はほぼ頼りにならないので、耳をすませた。

(この感触は、おそらく砂利だ。この音は…だいぶ違うけど、川のせせらぎに似てる気がする。ってことは、三途の川?)

瞼を開いてよく目を凝らすと、何か、立っている獣の影が見えた。そしてその奥には、何かが揺れている。形からして、船だろうか。

「何故生者がここにいる。疾く去れ。」

突如として現れたピリピリとした雰囲気に、紫苑は息を呑んだ。ふっと息を吐き出して気持ちを落ち着ける。

「俺の友達に会いにきました。理不尽なことで亡者の国へと行ってしまった、橡という女の子に会わせてください。」

番人はふむ、と呟いた。次の瞬間、川の傍にあったらしい松明に火がついた。辺りが明るくなり、番人が見えるようになる。番人の姿に、紫苑は眉を顰めた。

(なんだ?番人、だったか?…雅客じゃないけど、獣に近い?妖に近い奴ってのはみんな獣がちょっと変わったみたいな姿なのかよ。)

番人は、熊のようだった。熊が立っており、ゆったりとした服を着ている。さらに、額にはなぜか二本の角が生えている。しかも、とても短い。

「この姿を見ても怯えぬとは、なかなかに肝の座った男よ。昔の男とは、訳が違うようだな…うむ、少し待っておれ。橡とやらを探して参ろう。」

紫苑はほっとして笑顔を見せた。番人はぴくりと反応し、さっさと船に乗ってどこかへ行ってしまった。

 しばらくして櫂が水を掻く音が聞こえ、紫苑は顔をあげた。目を凝らして、音が聞こえた方を見る。小さな影が、揺れながらだんだん大きくなってきている。意外と速く、船はすぐに岸に寄せられた。

「連れてきた。思う存分に話せ。」

番人の言葉に、紫苑は橡の瞳を見た。菫色の瞳が、紫苑をまっすぐに射抜いている。

「なぜ来たのですか?ここに来るなど、死ににくるも当然のことです。今すぐに帰ってください。」

紫苑は、すっと目を細めた。そして少し口の端を上げる。その顔が笑っているにも関わらず、瞳は全くもって笑っていなかった。

「橡。なんで俺が来たって?俺に頼っていいのか、と聞いて笑ったのは誰だ?どの口が、なぜと言っている?」

橡が一歩下がったのが分かった。しかし、紫苑の怒りは収まらない。

「何勝手に死んでんだよ。馬鹿じゃないのか⁉︎」

「でも!」

被せるようにして、橡が叫ぶ。紫苑ははっと息を呑んだ。橡の瞳に涙が溜まっていた。

「私は死ぬしかなかった!私の罪は死ぬことでしか消えない!それはとうの昔にわかっていたから!頼れ、と言われても!死ぬことでしか消えない罪が、それの邪魔をした!死ぬと言ったらあそこに行かせてもらえないってわかってたから!頼ろうとしても、頼れなかった…」

紫苑は目を見開いた。頼れ、と言ったことが、橡に重圧を与えていたのだ。それがわかっていなかった。

「一瞬でも頼りたかったから、一緒にあそこまで行って、一緒に戦ってもらったんです。でも、あなたでは雅客の相手にもならないってわかっていたんです。だから、無理矢理にでも止めたんです。ごめんなさい。」

紫苑は、すっと息を吸った。俯いた橡の肩がぴくりと揺れた。松明の炎が揺れ、橡の表情を隠す。

「橡。お前は、死ななくてもよかった。いや、死んじゃ駄目なんだ。何が、死ぬことでしか罪が消えない、だ。生きることで、罪は償える。月読命に妖気を送ってしまっていたのならば、この後月読命に尽くせばいい。闇を司らないように祀って、神楽を舞えばいいだろう。」

橡はでも、と口の中でつぶやいた。聞き取れず、紫苑が聞き返そうとした時、橡の拳が震えているのがわかった。

「でも…!神楽は、私の神楽は、舞えば舞うほど妖気を送ってしまう…私の意思も、雅客がいるかどうかも関係ない。私の力から妖気を作り出して、月へ送ってしまう!だから、舞うことはできないんです。」

紫苑は苦笑した。今の状況での笑いに、橡は眉を顰めて紫苑の瞳を覗き込む。

「何がおかしいのですか。」

紫苑はため息をついた。そして橡の瞳を見つめ返す。

(お前はそんな奴だったよな。過去に囚われてんのかねぇ。)

「だってさ、お前が今まで舞っていた神楽が、妖力を届けるんだろ?じゃあ、新しい神楽を作り出せばいいじゃないか。」

橡は、はっとした。彼女も雅客と一線交える前はそんなことを考えていたのだった。新月の日に、と考えていて結局実行できなかったが。

「俺には神楽のことは全くわかんねぇけど、いくつか武術の動きを取り入れてみるってのもいいかもしんねぇな。今までのやつは武術じゃなくて完全に舞だったろ。だから、全く逆にすればいいだろ。武術の動きを再現するとか、戦う時の動きを再現するとかさ。妖気を送るんじゃなくて、お前の力を少し送る、みたいな感じで。」

橡は目を見開いた。さっきから驚いてばかりだ。紫苑はその表情を見ても驚かない。

(ま、驚くだろうな。歩いてる時に色々と考えてたし、多分こんなこと言うだろうとは思ってた。想像を裏切らないやつだよな、普段は。)

紫黄の頭を撫でて、紫苑は近くにいた番人に話しかけた。番人はずっと二人を見ていたらしい。

「番人さん。俺たちを現世に返してください。俺は月読命の依頼と俺の意思のもと、橡を連れ戻すために来ました。」

番人は一瞬迷ったように黙った。しかし、すぐに口を開く。

「わかった。ただし、ただで帰れぬとは思わぬように。お主らには試練を与える。紫苑といったか。お主は、決して振り返らぬように。橡、お主は決して声を出してはならぬ。どちらか一方でも試練に耐えれなかった時、橡は黄泉国へ、紫苑は現世へ戻れ。二度と同じことは繰り返せぬ。」

二人は頷いた。どちらの瞳にも、強い光が灯っている。番人の口元がわずかに緩んだ気がした。

「行け。決して振り返るな。決して口を開くな。」

その声にわずかに期待が混じっているのを感じとり、二人は頷きあって歩き出した。光のある方へと。

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