第12話
次の日の朝、綾瀬は体調がよくなさそうだった。
いつもは背筋を伸ばしての着席なのだが、今日は背中を丸め、ときおり肘をついて額を押さえ、大きなため息をついている。隣の女子が心配していた。愛子担任も気にしていて、声をかけずにはいられなかった。
「綾瀬さん、風邪でも引いたのか。とりあえず保健室だな。おい誰か連れて行ってやれよ」
大丈夫です、一人で行けますと言った。原因は風邪ではないことを本人は承知していたし、だからこそ付添人には来てほしくなかったのだ。
綾瀬は教室を出ていった。朝のホームルームを終えたA組は、一時間目の授業を待っている。教科担任がやってくる隙をついて、教室を出ていく者がいた。
「おい十文字、どこ行くんだよ。授業が始まっちゃうじゃないか」
こっそりと出ていこうとする十文字を修二が呼び止めた。
「俺、朝から下痢してんだよ。便所に行ってくるよ」下腹を手で押さえて、いかにも腹を下している様子を演出していた。
「もう、早く行けよ」
友香子が、シッシと手を振った。ほかの生徒に気づかれぬように、十文字は忍び足で教室を出ていった。
綾瀬が保健室に行くと保健の先生はいなかったので、窓側のベッドに服を着たまま横になった。頭痛がしていたのだが、枕に頭を沈めると多少やわらいできた。彼女は、そのまま安静にしていた。
誰かが入ってきた。その訪問者は室内を探るように見回した後、窓とベッドの間に立った。
「綾瀬さん、具合はどうだい」
十文字だった。トイレに行くためというのは嘘で、じつは彼女の容態が気になっていたのだ。
「そんなに悪くない・・・、かな。ちょっと頭痛が痛いだけよ」
そばにきたのが十文字であると、声を聞く前から綾瀬にはわかっていた。ちなみに逆をむいて寝ているので、彼からは表情を見ることができない。
「薬は飲んだかい」
「ううん、そこまでひどくないから」
会話はそこで止まった。なんとなく気まずい雰囲気と時が流れていた。
二人が無言のままウダウダしていると、保健室に他の生徒が入ってきた。数名の女子生徒が、絆創膏はどこだとワイワイガヤガヤと騒がしかった。
十文字はとっさに綾瀬が寝ているベッドのすぐ傍に立ち、カーテンを引いた。彼女らはベッドのほうを、とくに気にしていなかった。目的の物を見つけたのか、一分ほどで出ていった。保健室は再び静かになった。くっ付くように接近した十文字が、ためらいながら口をひらいた。
「そ、そういえば昨日さ、あの駄菓子屋に綾瀬さん来ただろう。そのう、なんでかなって考えちゃってさあ」
「べつに」
返答は素っ気なかった。綾瀬は相変わらずあっちの方を向いている。十文字は辛抱強く待った。
「私、教室でちょっと大げさだったでしょう。クラスの皆も驚いていたし。だから、十文字君に悪いことしたかなと思って、それで放課後に探したけどいなかったから、たぶん、あの店にいるんじゃないかと思っただけよ」
十文字にとっては、充分満足のいく回答だった。綾瀬が自分を気にかけていたという事実が重要だった。
十文字の中には、生まれてからまだ一度も押されたことのないスイッチがあった。本人も意識したことはないが、なんとなく存在を感じていたそれが、いまこの瞬間に押されてしまった。ある種の感情が抑えきれずに、ほとんど衝動的な行動だった。
「俺、綾瀬さんが好きなんだ、好きすぎて、毎日好きすぎるんだ。ああ、なに言ってんだ俺、ちくしょう。だから好きで、だから綾瀬さんが、だからだから」
ベッドであっちを向いている女子生徒は沈黙していた。呼吸すらやめたのではないかと思えるほど、微動たりしなかった。
「俺、綾瀬さんが好きで」
「もういいっ」
突然だった。綾瀬がガバッと跳ね起きて、十文字を睨みつけた。
「そ、そういうことは、私の目を見て言うことじゃないの。どうして、あっち向いている時にいうのよ。卑怯よ、卑怯」
告白した十文字は当然のように動揺しているのだが、じつは彼女の方が彼以上に心をかき乱されていた。
十文字自身にはなんとなく告白する予感があったが、綾瀬にはまったくの根耳に水だ。しかも体調も良くなく、頭の中もどんよりと曇っている。
「だいたい、具合が悪くて寝ている女子にそんなことを言うって非常識じゃないの。どうせ本気じゃないんでしょう。なにかの冗談、それともドッキリ。そんなことして楽しいの。サイテイ」
それほど不機嫌ではなかったのだが、自分が吐きだした言葉に準じるように、徐々に怒りが大きくなっていた。
「俺は本気だよ」
突然の告白は衝動的な行動だったが、十文字の綾瀬に対する気持ちに嘘や偽りはなかった。相当な覚悟を持っていたのだ。
「ウソよ」
「ウソじゃない」
二人はお互いの目を見つめ合っていた。恋人同士の甘いアイコンタクトではない。それよりは、ライバル同士の火花散る対決といった様子だ。
「私を好きになる覚悟もないくせに、テキトーなこというな」
「テキトーなんかじゃない。綾瀬さんがその窓から飛び降りろと言うのなら、俺は喜んで飛び降りるよ」
保健室は二階にあった。下は駐車場のアスファルト地面である。飛び降りれば死にはしないまでも、大きな怪我が予想される。
「じゃあ飛び降りて」売り言葉に買い言葉の感覚で、彼女も衝動的に言ってしまった。
十文字はさっそく窓を開けた。冷えた外気が入ってくると同時に身をのり出して、飛び降りようとした。
「あ、バカッ」
綾瀬は、彼の腰のあたりにしがみ付いた。飛び降りようと多少の勢いをつけていたために、十文字の上半身はすでに保健室の範囲を超えていた。窓からだらりと垂れさがっている。下半身を抱きかかえるように押さえている彼女が手を離せば、そこはもう硬質の地面で、ひどく物理的な衝撃となるだろう。
「わたったわよ、わかったから戻ってきなさいって」
「い、いや、この体勢じゃ無理。綾瀬さん、引っぱってくれよ」自力では戻れない状態になってしまった。
言われなくても綾瀬は引っぱりあげようとした。しかし、非力な女子ではなかなか持ち上がらない。それどころかズボンが脱げてきた。しかもパンツまで一緒にずり下がってきた。
「あわわわ、落ちる落ちる」
またもや衝動のみで行動してしまったために、後先のことを考えていなかったのだ。恋は十文字を盲目にしていた。
ズボンとパンツは、すでに足首までずり下がっていた。高校二年生男子の若々しい臀部が露わになるが、綾瀬にそれを愛でる余裕はなかった。
「もうだめ、これ以上押さえられない」
キャッと短い悲鳴をあげた。スポッと抜けてしまい、綾瀬は後ろへとばされてしまった。ベッドの上の彼女の手には、ヨレヨレのズボンとパンツが残った。哀れな十文字は、下半身を晒したまま二階から落ちてしまった。
「プリティーなお尻、げえっーと」
とはならなかった。
「危機一髪だったね」
なんと、二人の女子生徒が下半身すっ裸になった十文字の両足を、左右それぞれからガッチリと掴んでいた。
「あはは、男の子のなんか見えてるね」
「ナオミ、見るんじゃないの」
「千早だって見てるじゃないの」
「見えちゃうのよ」
ナオミ・K・ブルベイカーと新妻千早だった。
「そろそろ引き上げてあげないと、落ちちゃうって」
「せーのーでいくよ、千早」
「はいよ」
「せーのー、それっ」
ナオミの掛け声で、二人は全体重を後ろに掛けた。頭に血が溜まり過ぎた十文字は、ちょうど手助けしようとした綾瀬に圧し掛かるように衝突した。ナオミと千早きはそれぞれ両脇に、ベッドの上には綾瀬を押し倒すような姿勢の十文字がいた。
「あらら、これは朝比南高校始まって以来の、おハレンチ事件ね」
「先生に見つかったら、大ごとだわ」
二人の三年生が見ているのは、ベッドの上で抱き合っている二人の男女だ。しかもあろうことか、男子のほうは下半身裸である。誰がどう見ても、いかがわしい行為に及ぼうとしている決定的な場面だった。
「ちょっと、十文字君、なにしてるの。離れなさいよ、いや、イヤー」
十文字は、とくに具体的なことをしてないのだが、下半身を丸出しにした男子に覆い被されている綾瀬は、本能的に拒絶した。
「うわあ、ご、ごめん」
爆ぜるように、十文字が跳び起きた。どうしたらいいのかわからず、ベッドわきにつっ立ったまま呆然としている。千早が彼のズボンを持って手渡した。
「とりあえず、ズボンを履こうね」
ハッと我にかえった十文字が、それをひったくるようして奪い取ると、急いで履いた。
「あーあ、ざんね~ん。もうちょっと観察したかったのにな」ナオミは、悔しそうだった。
綾瀬と十文字は、一度お互いの目を見たが、すぐに視線を逸らした。
「さあ、落ち着いたところで愛の告白、続けましょうか。さっきは隼人が一方的に言ったから、こんどはあなたの番よ。さあどうするどうする」と、ナオミはさも楽しそうにはしゃいでいる。
そんな先輩を見上げて、綾瀬は目が点になっていた。頭が痛いことも忘れて、自分が陥っている状況を整理しようとした。
生まれて初めて男の子に告白されて、しかもその彼が窓から飛び降りようとし、計らずしもその彼のズボンとパンツをはぎ取ってしまい、さらには下半身が裸状態なその彼にベッドへと押し倒されて、その一部始終を二人の先輩に見られてしまった。もう、なにがなんだかわからない状態だった。
「あ、あのう、どうしてブル姉さんと新妻さんがいるんですか」
十文字の疑問は当然だった。二人っきりになったからこそ、衝動的に綾瀬へ告白したのである。ギャラリーがいるとは、しかもそれらがよりによってナオミと千早だとは予想外過ぎた。
「私たちはさっききたところ。ナオミが眠くてしょうがないっていうから、隣のベッドでちょっと休んでいたんだよ」
「そうしたら、いきなり好き好きが始まっちゃうんだもん。もう、寝ていられないじゃないの」
さっき保健室へと来た集団の中に、この二人もいたのだ。ほかの女子は帰ってしまったが、ナオミは隣のベッドで昼寝をキメこみ、千早が付き合っていた。
綾瀬と十文字はバツが悪そうにうつむいたり、あっちを向いたりしていた。
「私たちがいたら邪魔よね。ナオミ、行くわよ」
千早が親友の腕を掴んで引っぱった。そうしないと、ナオミは動かないだろうと判断したためだ。
「ええ、どうしてよー。これから面白くなるのに。千早一人で帰ればいいのよ。わたしはね、ちゃんと見とどけるから」
「いいから行くの」
ぐずる駄犬を飼い主が叱咤しながら引きずっていった。ナオミは、キャンキャン吠えながら退場した。
「ブル姉さんは、にぎやかだね」
「そうね」
素っ気なく返すが、綾瀬にはなにかを待っているような雰囲気があった。うつむき加減な表情がとても可愛らしく見えた。十文字の恋愛スイッチが再びオンになる。
「綾瀬さん、俺と付き合ってくれ。そのう、そうしてほしいんだ」
再度のアタックとなった。社長に前借する平社員のように、十文字は深々と頭をさげた。
「ダメ」
「え」
「ダメよ」
綾瀬の返答を聞いて、十文字はゆっくりと頭をあげた。その顔からは血の気が引いている。彼の心の中のガラスの塔が、ガシャガシャと派手な音をたてながら無残に砕け落ちていた。
「いきなり付き合うのはダメ。だって、十文字君はヘンタイさんだから。少しずつなら、考えてもいいかなって」
彼の心の中では、砕け散ったガラスを管理人の爺さんが掃き集めている最中だった。綾瀬が意図していることが分からず、恥じらうようにうつむく綾瀬を、十文字はただ呆然と見ていた。
「パンパカパ~ン」
昭和時代のファンファーレを叫びながら乱入してくる、いかにも外国人女子と、外国人っぽいハーフ女子がいた。
「ちょっと、ナオミ。いまは入っちゃダメだって」
ナオミと千早だった。二人は教室に帰ると見せかけて、じつは保健室のドアの向こうで盗み聞きしていたのだ。首輪をつけたはずの千早が逆に引きずられている。ナオミが満面の笑顔で二人のもとへ来た。
「いまの綾瀬のセリフは、ちょっと物足りないけど、とりあえずは前進ね」
綾瀬は恥ずかしさで身がすくむおもいだった。
「やったね、隼人」
ハイタッチしようと、ナオミの手があげられたが、十文字は腐った魚の目をしていた。当然、手があげられることはなかった。
「え、だって俺はフラれたのに、ブル姉さんの言っている意味がわからないよ」鈍感男の十文字は、綾瀬に断られたと思っていた。
ハハハと、ナオミは笑顔のまま彼のとぼけた顔を見ていたが、つぎの瞬間、クワッと新宿ヤクザな恐ろしい表情となって胸ぐらを掴んだ。
「なにとぼけたことぬかしてんだ、ワレー。おんどれの耳はロバの耳か、タコ耳かー。鈍感男の俺カワイイとか思ってんじゃねえぞ、ボケーっ。ケツの穴から手え突っこんで、内臓全部掻きだしたろうか」
校内一の鉄壁アイドルから、極悪アウトローなセリフが吐き出された。十文字の目は、白や黒に激しく点滅していた。
「なーんてね。あんまし鈍感なのはダメだよ。女の子だって恥ずかしいんだから」
ナオミがウインクした。それがヴィクトリーのサインであると、十文字はようやく理解した。すなわち、告白成功ということだ。
「そ、そうなのか」
十文字は信じられないといった顔をして綾瀬を見た。一瞬目と目が合い、彼はニッコリと笑った。彼女はちょっと不機嫌そうにうつむくと、早口にしゃべりだした。
「だから、付き合うのはいいとしても少しずつだって。いきなりじゃないの。どうしてこんな騒ぎになるのよ、もう。私、教室に帰る」と言って保健室を出ていってしまった。
ナオミと千早は後輩男子の健闘をたたえると、じゃあねと言いながら保健室を後にした。一人残された十文字は、綾瀬と彼氏彼女になったことを素直に喜んだ。
同時に、自分のような男が彼女とつり合うのかと不安になり、そのプレッシャーに押しつぶされないように何度も気合を入れていた。十文字にとっては綾瀬穏香が世界最高の女であり、ほかはまったく眼中になかった。
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