第9話
「どういうことだ?」
「何がです・・・って、ああ、ウィルディムさんが言ってた商工会からの苦情ですか?」
緊張が解けて緩みきった表情で。
だらしなくソファの背に寄りかかったままでいたいと思うがそうもいかぬ。
居住まいを正してミリアルに着席を勧めるルシオスは、先達て処理した書簡を思い出す。
「えーっと、1か月ほど前でしたか。ミリアルさん、製紙商工会長の屋敷に闖入した影獣を狩ったことがあったじゃないですか。」
「ああ、あったな。だが感謝こそされても苦情を言われる覚えは無いぞ。確かにいくつか調度品は壊してしまったし、物的損害は少なくなかったが・・・」
「いえ、書面こそその損害についての苦情を申し出てはいますけど、問題はそこじゃないと思いますよ。」
ひらひらと手を振りながら、苦笑する。
「ペンネさんが教えてくれてたんですけどね、使い物にならなくなってしまった在庫はすべて古いもので、そのまま商品として使う予定のものではなかったんだそうです。調度品だとかについてもおっしゃってた通り損害費用は補填されているわけですし・・・」
特別思い入れがあったものでもなかったようですよ、とルシオスは付け足す。
「じゃあ何だと言うんだ」
「うーん・・・それがですね、」
ルシオスは、言いにくいな、と頬を掻く。
「ミリアルさんが影獣を狩った時にその場に居合わせた奥方様と、御息女が、夜会を開け、ミリアルさんを呼べ、ミリアルさんにダンスを一曲相手してもらえるよう申し込め、さもなくば次のどこかの夜会に行く時ミリアルさんにエスコートを頼め、と五月蠅くて、会長殿たちが悋気を起こしかけているんだそうです」
苦情の書簡が届くと同日に、情報の早い、市井・市街を担当している影獣騎士から届いた書簡。
それに書いてあった内容を思い出しながら、ルシオスは指折り数えて説明し、目の前の青年が顔を顰めるのを見て微苦笑する。
長身、混じりっ気の無い美しい金髪、騎士然とした佇まい。
血統の良さを如何なく象る端正な顔つき。
意志の強さを主張してやまない藍玉の瞳を持つ眦は、戦闘時には鋭くなり、相手を射止めるかのような眼光を放つが、騎乗して街を闊歩する時や野を駆ける時には至極穏やかで、女性に手を差し伸べたり子供たちに笑顔を振りまくことも厭わない。
少年時代は隣国で育ったこともあって話題も豊富。
必然的に身に付いた外国語が箔をつけているため、社交の場においても引く手数多。
ルシオスが統括する影獣騎士の一人として、自邸周辺の森だけでなく一部城下町を担当して普段から見回っている。
端的に述べて、女子供の憧れの的の好青年。
しかも未だ独身。浮いた話は聞いたことが無い。
それがこのミリアル・ハリファクスである。
その騎士であり剣士の鏡と呼ばれる、ここ最近の台覧試合での常勝者の美男子が、目の前で長い脚を組んで苦い顔を作って言う。
「それはとばっちりだな」
「そうですね」
一番とばっちりなのは
言えばまた面倒な舌戦が始まりかねない。
湯を持って執事が、ルシオスが思う以上に早いこと帰ってきた。
ざっと茶葉をポットに入れる、そのいつもより粗雑な作法を見れば、彼が未だ臨戦態勢であることは明らかだ。
どうやら部屋を出て早々、湧き上がったお湯を届けに来たという言い訳で、ミリアル目当てにやってきた若い女中からポットや茶葉など一式を受け取ったらしい。
ルシオスはその緊張感をあえて無視してミリアルに向き合う。
今ミリアルに伝えた件について、情報を流してくれた影獣騎士、彼の情報の確度は高い。
ミリアルが「とばっちり」だと判じたとおり。
大した懸念でもないだろう。
ただ少し。
どうにもミリアルはその容姿ゆえに、「この手」のトラブルには気を付けた方がよさそうだ、と言う感慨を覚えつつ。
とはいえ、ミリアルも特にそれ以上言いたいことも無いようなので、ルシオスは話題を切り替える。
「それで、ミリアルさんも。僕の稽古に付き合ってくださるためだけにいらっしゃったのではないですよね?」
「まぁな。」
がしゃん、と
ウィルディムが、湯気立つカップとソーサーを、荒々しくローテーブルに置くのを舌打ちでもしかねない目で見ながら、
「預かっていた狩りの件についてだが、経過報告と支援要請を願い出に来た」
ミリアルは言った。
「あれ、それって先週お願いした件ですよね?うちとハリファクスの森のはざまの集落での。何か問題でもありましたか?」
応えながら、ひぇぇ、と鳴る喉で唾を飲み込んで、ルシオスはウィルディムの腕に下がった布を奪い取って。
テーブルに散った紅茶の雫を素早く拭きながら聞き返した。
「単独の『はぐれ』だという話だったよな。違う、あれは群れだ。しかも狼か野犬の類だ。加えて15頭もいる。あれだけの数で犬の素早さで走り回られてはヴァオークでは手に負えない。うち2頭は狩ったんだが、残りを狩りきるにも時間ばかりがかかりそうだ」
ミリアルはソファの背凭れに背中を預けて、後頭部で腕を組みながらため息をついた。
「狼、ですか。・・・もっと大きいやつ、熊とか虎とかじゃないかって聞いてたんですけど」
「目が慣れていないやつらには概して大きく見えるからな、影獣は。まして襲われた恐怖で証言にも多少誇張が入るだろ」
ウィルディムがルシオスの前に、音も立てずにカップとソーサーを置く。
「それにしても、15、残り13頭ですか。それはまたずいぶんと大きな群れですね」
すっごく飲みたいんです、と言った手前、これは飲まねばならぬだろうと、ルシオスは置かれたカップに手を伸ばす。
「ああ。とりあえず集落の者たちには、言うまでもなく天候に気を付けるよう指示してきたが・・・狼だからな。機敏に動ける分、ちょっとした隙も命取りになりかねん。だからできれば早急に、そうだな、ヨンヌの爺さんかペンネあたり、誰か手が空いている奴がいれば回してもらいたいのだが」
淹れたての茶は少し舌に熱い。
が・・・それでも、世辞はさておき燻る仄かな苦味が美味い。
ウィルディムが煎れるから美味いのか、もともとの茶葉が良いものなのかは知らない。
甘味は加えずにルシオスはその香りごと啜る。
「ヨンヌさんはダメですよ。大公陛下のそばから離れてもらうわけにはいきませんし。・・・でもペンネさんもアリシアさんも突然対応してもらうには距離がありますし・・・ちょうど手が空いたところなので僕が応援に入りますよ」
「そうか、それは助かる」
「今から行った方がいいですか?それとも夜間活発になる影獣?」
「昼も動いているんだろうが・・・少なくとも私は見ていない。恐らく夜の方が確実に補足できるだろう。犬だか狼だか・・・まぁいい、いずれにせよなかなか敏いやつらだ」
「でも確か、最初の目撃証言、猟師は昼間に襲われたんですよね?」
「ああ」
「なら今から行きましょう。もしかしたら遭遇するかもしれませんし。できれば念の為、事前に地形や森の様子を明るいうちに見ておきたいです」
ミリアルと遭遇したことにより、影獣たちも脅威が身近に存在するのを認識したはずだ。
結果、警戒して遭遇する確率は減ったかもしれない。
だが、影獣に対してなんら対抗手段を持たない人々は、野生の犬、あるいは狼のような影獣とあらばさぞ不安であろう。
できれば早く、昼の間に発見して狩ってしまいたい。
それに、また徹夜になるのは避けたい ――― これは、もちろんルシオスの個人的な希望でもある。
ルシオスには若さゆえの回復力もあるし、体力的には大した問題ではない。
・・・・眠くなるし、ウィルディムに締められるのが嫌だけど。
問題は ――― 家長の生活リズムの変調に家内の者たちをも巻き込むのはあまりよろしくないという自覚もあるのだ。
亡き父からもそう言いつかっている。
――― 昼間見えない影獣だろうと、潜んでいるだけで消えたわけじゃない。
――― 昼夜を問わず、人に仇なす影獣たちを見つけて、早急に脅威を狩りとってこそ、アッシーネの長だ。
亡き父の声はいつ思い出しても優しくて、そして少し厳しい。
・・・しかし、過ぎ去った日々に思いを馳せている刻(とき)ではない。
外の陽気も良い、晴れている。
「というわけでウィルディムさん、ちょっと下調べも兼ねて出かけてきますね」
「お供します」
執事の即答にルシオスは渋面を作りかける。
が、咄嗟に取り繕って
「ちょっとハリファクスとの境の森を見てくるだけですし、ミリアルさんも一緒なので家にいていただいてても大丈夫ですよ?」
「だそうだ、大人しく留守番してろ、執事殿」
勝ち誇ったように言うミリアルを無視して、ウィルディムがルシオスだけに見えるよう、ぺらりと紙を一枚突きつけた。
「これは・・・」
「例の地図です」
折り目のついた紙片に、ところどころ赤いインクでばってんがいくつもつけられている。
のみならず。
アッシーネ、ハリファクスのそれぞれの屋敷、一帯で一番大きな樹、中心市街地へとつながる街道がそれぞれ描かれていて・・・・。
――― 猟師が仕掛けた罠の地図!
気づいたルシオスはそれに飛びつく。
「く、くださいそれっ!!」
「失くされては困りますので」
ひょい、とウィルディムが高く手を挙げると、紙片はルシオスの頭上でひらひらと揺れる。
こうしてしまうと、身長が高くないルシオスは文字通りお手上げ状態。
背伸びしてジャンプしても上背のあるウィルディムの手には届かない。
「なくさないっ、絶対なくしたりしないですからっ!」
「何をふざけあっているんだ、行くぞ、ルシオス」
声をかけられ、はっとしたルシオスが「その地図を取ってくれ」とミリアルに頼もうと口を開けたその時、
「知られたら恥ずかしいですよね。」
獣用の罠に引っ掛かって宙づりになったことを。
「――――――っ!!」
「お供します」
「ハイ・・・・」
出かける前からどっと疲れが出たような気がして。
空になった自分のカップを見、全く手をつけられないままのミリアルのカップを見て。
せめてもの慰めに、とルシオスは手を伸ばして一気に啜って飲み込んだ。
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