第一章

第7話

翌朝の目覚めは素晴らしかった。


雲一つ無い空 ――― 太陽が空気を暖めて心地よい風が吹く日になりそうだ。

そんな日は影獣が活動しやすく、影獣騎士達の出番にもなりかねないが、それでもルシオスは晴れた日が好きだった。

『はぐれ』の影獣が活発化するように、自分の影に潜んでいるフェールやイルシュたちも機嫌がよくなるようだから、そのせいもあるのだろう。


着替えを済ませて食事を終えると、ウィルディムに手伝ってもらいながらいくつかの書類に署名をする。

そして準備ができたものはくるくると丸めて、少し押しつぶして封蝋を垂らし、印を押す。

アッシーネ家当主代理としての1日のデスクワークはこんなもので終了。

そう多くはない。


昼食前までの残りの時間は武芸・剣技の鍛錬をすることになっている。

その相手にして指南役は執事のウィルディム ――― 「執事」なのに。

曰く、「その点も先代に見込まれて務めさせていただいております」。

全く持って非の打ちどころがない従者である。

それどころか、思わず「何でこんな処にいるの?」と尋ねたくなる逸材とも言える。


しかし残念ながらこの万能執事は聖人ではない。

優しいひとかというとそうではないし、特に、稽古の時は「鬼だ」とルシオスは思っている。

無愛嬌・鉄仮面等の形容に加えて慈悲無し執事だとか鉄血執事と言った表現が加わるほど、ウィルディムの稽古はとても厳しい。

しかも、今回は罠のことがバレた後だった。

・・・案の定、昨日は寝不足明けの気怠さも容認してもらえず、こってりと絞られた。

いつもの反復準備運動を3倍にされ、剣技もやたら力が入っていた。

・・・そんなあとでの公子ガーラントへの謁見だったのだ。

欠伸だって零れ落ちる。

オリヴィエに付き合い耐えた自分を褒めて欲しい。


とにもかくにも、この稽古の時間とその間のスパルタ執事とのやりとりを苦手とするルシオス。

どうやって誤魔化そうか、もしくは逃げ出そうか、考えあぐねては実践し、そして逃走に失敗してはウィルディムに捕まるのが日課である。

今日も、出来上がった書簡の送付を手配しようとウィルディムが部屋を出た隙に窓から飛び出して。

苦笑する女中頭のスナメリアに手伝ってもらい、干された洗濯物の影に隠れてこっそり逃げ出そうとしていたところを、風がぶわっとシーツを煽りあげた瞬間に見つかってしまった。


首根っこを引っ掴まれてそのまま庭に連れ出されそうになっていると、アッシーネ古参の、本来の執事であるエルギンが来客の旨を告げに来た。


「お客様とあっては稽古している場合じゃないですよね!」

打ち合わせた両手をこすり合わせ、満面の笑みを浮かべたルシオスは、対照的に不機嫌な無表情を張り付けたウィルディムを従えて主賓室に待たせている客のもとへ向かった。


「ミリアルさん、いらっしゃい!」

「ルシオス、息災そうで何より」

部屋で待っていたのは、長い、輝くような金髪をうなじの位置で結んだ青年だった。

それがルシオスの声に振り返り、金の縁取りと釦の似合う、深緋色の上衣が立ち上がるが早いか否か。

膝下までの深い革靴の足下、影が一瞬うねった。

そして黒い大きな塊が持ち上がったかと思うと、青年の腰の長剣を揺らして跳び上がり、ルシオスへと飛びついた。


「ええ。ぅわ、ヴァオークも元気そうですね」

黒々とした大きな塊は、被膜の翼を揺らす異様な ――― 蜥蜴とも、昆虫とも言える異形の影獣。

熊ほどの大きさのそれが、宙に浮かんでルシオスの赤毛に鼻先をこすりつけるようにすり寄って。

すり寄られたルシオスは押し負けそうになるのに耐えながら、鋭い牙を隠している頭蓋の、鼻面を撫でてやる。


背中側面から脇にかけては氷柱のような ――― まるで、生え損ねた翼のような刺がいくつもゆらゆらと蠢いているので、フェールやイルシュのように体当たりで撫で誉めてやることはできないが、翼を持った黒い、首の長い獣は満足したようだ。

現在の使役者である影獣騎士の一人 ――― ミリアルと呼ばれた金髪の青年の、足元の影へと滑り込み戻った。


「あぁ、もちろん。・・・で。お前はそこの仏頂面した鬼執事にはいじめられたりしてないか?」

「それがもう、実はたった今まさにとっちめられそうに」

「憎まれ口をたたきに来たのが要件ですか?でしたら主人は忙しくておりますので、本日はお引き取りください」

大凡執事とは思えない、不遜な科白。

不機嫌を隠そうともしない冷たい声を背後に聞き、ぎしり、と油が必要そうな音を立ててルシオスの表情筋が固まった。


割り込んだウィルディムの声に強引に押しのけられて、笑顔のまま固まったルシオスは思う。

鬼なのは事実だ・・・・。

いや、そうじゃなくて、今のは軽いあいさつ代わりの冗談というやつで・・・。

客人の今の問いかけは冗談だった。

冗談だったはずだ。

だから冗談で返そうとしただけなのに・・・。


慣れた自分でなくとも明らかにわかるだろう機嫌の悪さ、それを隠そうともしない声の主。

振り返って諌める勇気もなく、ルシオスは内心頭を抱える。

・・・あぁもぅ、いつものアレが始まるよ。

引き攣った顔のまま、ルシオスは思わず一歩後ずさった。


一方、第一声から嫌悪の塊をまともにぶつけられた青年はというと、

「いや何、何処ぞの執事などを介するわけにはいかないほど重要な要件でね。アッシーネの当主代理に直接伝えにやって来たんだよ。しかしまぁ」

こちらもいきなりの臨戦態勢のようだ。

「それだけで済むだろうと思っていたのだが・・・どうもそういうわけにもいかなさそうだな。スパルタと形容される理不尽な傲岸執事から、影獣騎士の大事な要であるアッシーネの若旦那を守った方がよさそうだ。安心しろルシオス、稽古がまだなら今日は私が指南する」

お前如きじゃ相手にならん。どっかへ行っていろ。

腕を組み、薄笑いを浮かべてウィルディムへと言い放つ。

それに対し、

「余計な世話にもほどがある。担当する区域の巡察もありましょうに、部下の騎士に油を売る閑も理由も、差し上げるほどアッシーネは寛容ではありませんよ」

サボってないでさっさと仕事しろ。

眼鏡のレンズに光を反射させ、冷たい無表情でミリアルに言い返す。

その二人に挟まれて、ルシオスは張り付けた笑顔が痙攣し始めるのを感じる。

そんなルシオスの心境など我知らず、金髪碧眼の青年は鼻を一つ鳴らしてさらに言い募る。


「あんたのやり方は強引すぎるんだ。レベルに合わない稽古は本人の成長を妨げるぞ」

「負荷の無い鍛錬を行ったところで技能のセンスも伸びません。ましてそれが敵相手を想定するならば。命取りになってからでは遅すぎます」

「良く言う。忘れたか、手加減知らずでやってルシオスを気絶させたことがあるのはどこのどいつだ。稽古で人事不省にでもなってみろ、それは本末転倒っていうんだ」


挨拶もそこそこに始まってしまった喧嘩上等なやりとりを頭上に聞きながら、ルシオスは身動きがとれず固まり続ける。

・・・まぁ、なんとなく、ミリアルが来客だと聞いたときから、こんなことになるんじゃないかという気は何処かでしていたけれど。

そして、もし止めようと割って入っていったところで、矛先がこちらへ向けられるだろうことも分かっている。

今、下手に動けば双方の口撃で挟撃されることになるのは自分だ。

そう分かってしまっているほど年がら年中こんな感じなのだ、ウィルディムの傲岸な物言いも、ミリアルの挑発も。


「手加減してばかりではいざと言うときに役立ちません。実戦では怪我も脳震盪もつきものです。それを察知し回避する方法、そうなった場合の処置方法についても知らなければ取り返しのつかぬ事態になりかねません。」

「その取り返しのつかぬ事態を従者が作ってどーすると言っているんだ。あんた、よほど自信があるようだが、そう言った慢心がいずれ大事を引き起こすぞ。そうなる前に・・・」


ルシオスは思う。

自分はウィルディムとは違う。そろそろ表情筋が限界だ。

思い切ってわざとらしく大きくため息をついてみた。

しかし気付いてもらえず、口喧嘩は続くようだ。

ちょっとだけ寂しくなって、聞くのを辞めてルシオスは一人思案に耽ることにする。

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