南洲一族の縄墨

西季幽司

序章

 暗闇の中、一人の男がやってきた。

 吉祥寺にある雑居ビルの一階に、「コジョー」という看板を掲げた小さな会社があった。裏路地に面した壁は一面、ガラス張りになっているが、夜間とあって、ブラインドカーテンが降りていた。裏路地から奥に引っ込んだ場所に入口があり、壁にカードリーダーが備え付けられていた。

 ここにカードを翳すと、ガラス戸の鍵が開錠される仕組みになっている。外来用にはキーパッドと呼び出しボタンが設けられていた。

 男はキーパッドを入力すると、辺りを伺いながら反応を待った。直ぐに、「もしもし?」と返事があったので、「俺だ。遠藤だ。遠藤康臣えんどうやすおみ」と男はカードリーダーに顔を寄せて囁いた。

 男は遠藤という名前らしい。

 痩身で長身、削ぎ落したように頬がこけている。目付きが異様に鋭く、顔に小さな傷がたくさんあった。どう見てもその筋の人間にしか見えない。

 カチリと音がして扉が開く。遠藤はガラス戸を押し開けると、事務所に入った。そう広くはない。ちょっとした美容院程度の広さに、処せましと机が並んでおいる。机の上にはパソコンとモニターが林のように並んでいた。

 部屋は、妙に鼻につく、甘い香りで溢れていた。

 コジョーはIT企業の端に連なる中小企業だ。大手ゲーム会社の下請けの仕事をやっている。日頃は納期に追われ、会社に泊まり込む社員が多いのだが、ビッグ・プロジェクトの納入が終わったばかりの週末の深夜とあって、誰もいなかった。いや、厳密には人がいた。遠藤を招き入れた人間がいた。

 真っ暗な職場の隅に灯りが灯っていた。

 部屋の一角が仕切られ、社長室になっている。社長室に灯りが灯っていた。漏れ出る灯りで、職場がほのかに明るくなっていた。

 灯りを頼りに、遠藤は社長室へ向かった。そして、「入るぞ」と声をかけると、社長室へ消えた。

 静寂が訪れたのも束の間、直ぐに、遠藤が血相を変え、社長室を飛び出して来た。

 腰を落として身構えると、何度も辺りを見回した。周囲に人がいないことを確認すると、一目散に入口目指して駆け出した。

 会社から出るには、ガラス戸横にあるスイッチを押せばガラス戸を開錠することが出来る。だが、暗闇で分かりにくかったようで、遠藤は外に出ようと、何度も無理矢理、ガラス戸を引っ張った。

 ガタガタを激しい音がした。

「くそっ!どうなっている。ああ、これか!」

 やっと、スイッチの存在に気がついた。

 遠藤はスイッチを押してドアを開けると、外に飛び出した。


 そのまま駆けた。街を駆け抜ける遠藤は頭の中では、

――あんたは私の「陣内」よ。

 という言葉がこだましていた。

 まだ子供の頃に、聡美さとみがいった台詞だ。

(やっぱり、お前か⁉ お前に係わると、何時もこうだ)遠藤は思った。

 聡美は遠い親戚の子だ。同い年で、一時期、ひとつ屋根の下、兄妹、姉弟のようにして暮らしたことがあった。

 陣内は当時、子供達の間で流行っていた女子高校生刑事のエミを主人公としたテレビ・ドラマの登場人物だ。刑事仲間で、陣内紳一郎じんないしんいちろうという。女子高生として潜入捜査を行い、学園に蔓延る悪と戦うヒロイン、エミの唯一無二の味方だった。

 二人はこの子供向けテレビ・ドラマの大ファンだった。聡美は主人公のエミに成り切って、遠藤を陣内として連れ歩くのが大好きだった。

「うん、僕は聡美の陣内だよ」

 遠藤は頼もしくて恰好の良い陣内が大好きだった。聡美から陣内に指名されるのは光栄だった。

「あんたがうちに来ることができたのは、私のお陰よ」

 聡美は折に触れ、恩着せがましく、この言葉を繰り返した。この言葉が遠藤は大嫌いだった。だが、聡美の言う通りだ。遠藤が地獄から逃れることができたのは、一にも二にも聡美のお陰だった。

 遠藤の母、梨奈りなは男にだらしない女で、水商売を通して知り合った男を家に引っ張り込んでは、逃げられるということを繰り返していた。

 高校を卒業した後、父親の紹介により、近所で酒屋を営む遠藤酒店の一人息子と結婚し、子供をもうけた。それが康臣だ。

 梨奈は母性の薄い女で、赤子が泣いていても見向きもしないような女だった。夫の両親が孫を心配し、度々、家にやって来るようになると、それを鬱陶しがり、出歩くようになった。やがて浮気が発覚、梨奈は遠藤家を追い出される形で離縁されてしまった。

「あんな女の子供なんて――」

 遠藤家にとって、可愛い孫であったはずだが、梨奈のような女から生まれた子供に愛情を持てなかったのだろう。まだ若い息子の将来を考えてのことだったのかもしれない。康臣は梨奈と一緒に遠藤家を放り出されてしまった。

 梨奈の両親は当然のように娘の不行跡を激しく咎めた。梨奈はそれに反発し、実家とも縁を切ってしまった。

 孤立無援となった。

 高校を卒業してから、ろくに働いたことの無かった梨奈は、直ぐに水商売に手を染めた。水商売を始めてから、生活は荒れる一方だった。相変わらず子供に感心を示さず、康臣はほとんど母親の愛情らしい愛情を知らずに育った。

 康臣は育児放棄に遭っていた。

 小学校に上がる頃、梨奈の両親が相次いで世を去った。出来の悪い娘であったが、それでも両親にとっては可愛い娘であったのかもしれない。

 利奈と康臣は唯一といっていい庇護者を失った。

 梨奈の男漁りは、歯止めが効かなくなった。男を追いかけて家に帰らない日が続いた。康臣は面倒を見てくれる人がいなくなり、いつも飢えていた。母親が置いていったわずかばかりの金と食料で食いつなぎ、それも尽きると公園の雑草まで食べて飢えをしのいだ。

 梨奈が家に戻って来た時には、決まって男を連れていた。

 幼い康臣が邪魔になった。ありきたりの家庭内暴力だ。梨奈が家に連れ込んだ男たちから、康臣は虐待を受けるようになった。男の気持ちを繋ぎとめる為に、梨奈は康臣への虐待を見て見ぬ振りをした。

 痩せ細った康臣の体は、傷だらけになった。

 康臣と聡美は同じ小学校の同級生だった。二人は遠い姻戚関係にある。ある日、夕食の食卓で母の香澄かすみから康臣のことを聞かれた聡美は、「あの子、臭いから嫌い」と答えた。

「臭い? 何で康臣君が臭いの」

「知らない。お風呂に入らないからじゃないの」

「まあ、あなた、ちょっと様子を見に行った方が良いんじゃなくて?」

 香澄は食卓を囲んでいた夫の隆正たかまさに言った。

 隆正は香澄の言葉に顔をしかめた。遠い親戚とは言え、一族が近隣に寄せ集まるようにして住んでいる田舎のことだ。梨奈の身持ちの悪さは隆正も当然、知っていた。大体、梨奈に遠藤家との縁組を世話したのは隆正だったし、梨奈が浮気をして遠藤家を放り出されてから、隆正は遠藤家から、「とんでもない嫁を世話した」と憎まれ口を言われ、閉口した。

 梨奈のことだ。康臣が育児放棄に遭っているであろうことくらい、容易に想像がついた。梨奈にはもう二度と係りたくないという思いが強かった。

 だが、隆正は一族の長だ。知った以上、捨て置くことはできない。このまま放っておくと、一族の長としての威厳に傷がついてしまう。

 隆正は梨奈の家に乗り込むと、有無を言わさず康臣を取り上げ、自宅に連れ戻った。梨奈は抵抗しなかった。むしろ育児から解放されて喜んでいる様に見えた。

――あきれ果てた奴だ。

 隆正は吐き捨てるように言った。

「いいか、お前が一人で生きて行けるようになるまで家に置いてやる。そうだな、高校生になるまで置いてやる。高校生になれば、後は一人で生きて行けるだろう」隆正は幼い康臣にそう言って聞かせた。

 こうして康臣は聡美の家にやって来た。

 康臣が飢えずに、人並に生きて行くことができるのは、聡美の告げ口のお陰だった。厄介者だったが、康臣にとって、聡美の家での生活は快適だった。食事の心配をすることがなく、誰からも殴られることがなかった。毎日、安らかに眠ることができた。味わったことのない平穏な生活だった。

 聡美の下に和美かずみという妹がいた。最初、子供たちは何事にも雑な男の子がいることに戸惑っていた。だが、女の子ばかりの家に男の子がやって来たのだ。香澄は喜んだ。康臣に優しかった。

「ねえ、クラスの高橋君が私のこと虐めるの。懲らしめてやって頂戴」

 ある時、聡美にそう言われた。

 康臣は聡美と同級生だがクラスは違っていた。聡美のクラスの高橋という生徒から嫌がらせを受けていると言う。高橋は野球クラブに所属する活発で運動神経の良い男の子だ。小学生のことだ。好きな子の関心を引きたくて、虐めていただけのことだろう。

 康臣は勉強も運動も苦手で、高橋に敵うところなど何一つ無かった。だが、聡美の命令とあっては仕方がない。康臣は校庭に高橋を呼び出すと、聡美への嫌がらせを責めた。

「聡美ちゃんを虐めたら僕が許さない!」

 高橋は顔を真っ赤にして康臣の叱責に耐えていたが、この一言で堪忍袋の緒が切れた。これではまるで高橋が弱いもの虐めをしている悪者のようだ。高橋は聡美のことが気になってからかっていただけで、虐めたつもりなどなかった。

「ふざけるな!僕は聡美ちゃんを虐めてなんかいない――‼」

 高橋は康臣の胸倉を突いた。

 意外に力強い一撃に、康臣は尻もちを着いた。敵わぬと知りながら、康臣は高橋に組み付いた。

 こうして、したくもない喧嘩をさせられた。

 それでも康臣は人の役に立てることに喜びを感じた。聡美の為に戦っていることが、無性に誇らしかった。康臣は聡美の陣内になることができたと思った。

 聡美の家ですくすくと成長し、康臣は高校生となった。

 隆正は康臣が高校に入学すると直ぐに、梨奈のもとに戻したがった。だが、梨奈は相変わらずの荒れた生活を送っている。梨奈のもとに戻すことが躊躇われた。それに香澄が康臣を手放したがらなかった。

 ずるずると康臣を手元に置いていた。

「康臣には康臣の人生がある。これ以上、あいつをこの家に置いておけん!」

 康臣が高校二年生になると、隆正は宣言するように言った。

「学費くらいは援助しても構わないが、康臣は梨奈の家に戻す」

 聡美も和美も年頃となり、既に子供とは言えない年齢になっていた。声変わりして少年から青年へと変貌を遂げようとしている康臣を、これ以上、若い娘たちのいる家に置いておくことは出来なかった。そのことを香澄も感じていた。

 香澄は隆正の言葉に従った。

 康臣は梨奈のもとに送り返された。康臣に断る権利などなかった。ただ黙って、隆正と香澄に、「長い間お世話になりました」と頭を下げることしかできなかった。

 康臣の戦いの日々が始まった。

 梨奈のもとに戻ってからは、正体不明の男たちとの諍いが絶えなかった。康臣はもう無抵抗な子供ではない。大人の理不尽な暴力に対抗するだけの膂力を備えていた。康臣は梨奈が家に引き込んだ男たちと戦い、家から追い出し続けた。

 康臣は身も心もぼろぼろになった。折角、入学した高校も休みがちになり、悪い仲間と付き合うようになった。

 そんなある日、康臣のもとに聡美から電話があった。

 学校に出てこない康臣を心配して、時折、聡美は康臣に電話をかけて来る。香澄の指示だということは直ぐに分かった。聡美の説教が鬱陶しくて、最近は、「折り返し電話を頂戴」という留守番メッセージが残っていても、無視していた。

 ところがこの日のメッセージは違っていた。

「お母さんが亡くなったのよ。渡したいものがあるから家に来て」聡美は涙声でそう言っていた。

 康臣は聡美の家に飛んで行った。

「何で今まで連絡して来なかったのよ!」

 玄関先で、顔を見るなり、聡美は康臣を怒鳴りつけた。そして、康臣の前でわんわん泣いた。

 癌だった。病院に入院してからはあっという間の出来事だったと言う。

「これ、お母さんがあんたにって――」

 康臣は応接間に通され、聡美から毛糸の青いセーターを渡された。

 病院に入院してから、暇だと香澄は編み物を始めたそうだ。今まで編み物なんかしたことがなかったので、随分、苦労して編んだようだ。聡美や和美のではなく康臣のセーターを最初に編んだ。

 冬の空のように澄み渡った空を思わせる青色のセーターだった。

「あの子、きっと寒がっていると思う」

 香澄は病室のベッドの上で康臣のセーターを編みながら言った。

 お世辞にも良く編めたセーターとは言えなかった。それでも香澄の愛情の重みをずっしりと感じることが出来た。康臣にとっての母親は、産みの母ではなく、何時も優しかった香澄だった。

 遠藤康臣は香澄が編んでくれたセーターを胸に掻き抱くと、蹲って、吠えるように泣いた。康臣の咆哮はまるで聡美の家を倒壊させてしまうかのように激しかった。

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