第5話 黄昏の帝国(中編)

 2人の少女は林の中で静かに待った。


 時折離れた道の方から、馬の蹄の音や行き交う人々の喧騒が聞こえる。


「ねえ、ギルネラ」狭い荷台の中、なるべく小さな声でセーラツィカは言った。


「私小さい頃に、クヒーチャを泣かせた事があったわよね?」

「私の母をですか?」


「ほら、いつだったか──」

「セルラルシェナ様が泥に突っ込んで洗い立ての服を台無しにした時ですか?」


「違う違う…そうじゃなくて──」

「晩のおかずにと大量の虫を取ってきた時ですか?」


「ち、違う…! 思い出した! クヒーチャが火を炊いたら、そこに私が大事にしてた石が転がり込んだ時よ」

「ああ、石を取るためにセルラルシェナ様が火の中に腕をお入れになった時の話ですね。母は死ぬまで、そのことを気にしておりました」


「そ、そうなの。でもちょっと痒くて熱かったぐらいで、火傷すらなかったわ。あの火は確かクヒーチャの魔術よね?」

「はい。私達親子は火だけ出せます」


「やっぱり…」


 セーラツィカは膝を抱える。あの青年、バルナレクは皇帝の血統を持つものには必ず異能があると言っていた。


 だが今日まで自分に異能らしき異能が出た試しはない。異能、異能…。


 けどそれがもし、気づいていないだけだったならば?


「もしかして」考えた末に少女は1つの推測を出す。「私の身体は、魔術を弾くのかもしれない」


 セーラツィカは荷台から飛び降りる。


「ギルネラ、来て。試したいことがあるの」


 主人の頼みにギルネラは素直に従う。セーラツィカはギルネラから少し離れた場所に立つ。


「私に魔術を使って」という主人の言葉に、ギルネラは「へぁ?」と裏返った声で答えた。


「火球を出すの。それを私に投げつけて」

「嫌です。絶対に嫌」


「いいからやって。これはただの実験だから」

「実験だろうと何だろうと、私はセルラルシェナ様に火を打ちたくありません」


「何でもいいからやって!」


 地団駄を踏むセーラツィカにギルネラは渋々手のひらを主人に向けると、モゴモゴと口の中で呪文を言った。


 手のひらに魔力が集まり、小さな石ころ程の火球が出来る。


 ギルネラが「えいっ」と言うと火球は手を離れ、シャボン玉のようにふわりふわりと飛んで行く。


 だがシュウ…と、相手に当たる前に火球は消えた。


「真面目にやれ!」


 誰かが林の中に入ってくる可能性などお構いなしに、少女は声を荒げる。


「嫌です! 何と言われようとも、こればかりは嫌!」


 ギルネラも負けずに訴える。目は早くも濡れ始めていた。


「私は母と神々に誓いました。命懸けであなたをお守りすると。なのになのに、こんな仕打ちはあんまりです! もし私のせいでセルラルシェナ様が傷つくようなことがあれば、天上の母は地獄へと落ち、私は神々の雷によって灰となるでしょう。どうか、どうかご勘弁ください!」


「ギルネラ」相手をまっすぐに見据えて、セーラツィカは言う。


「ずっと悩んできたの。クヒーチャもバルナレクも、私が皇帝の血統だと疑わない。ギルネラ、あなたもそう。でも私は信じられない。だって、だって何もないから。特別な能力なんて何もない。怖かった。いつか無力であることがバレて、周りから見放されるんじゃないかって。


 私は、何者かになりたかった。皇帝の血統だと言うなら、それに相応しい者になりたかった。諦めていたけど、もしかしたらなれるのかもしれない。何か特別な力があれば、誰かの役にも立てるのかもしれない。ギルネラ、お願い。私を愛しているのなら、射って。お願い、お願いだから…」


 自分に向かって頭を下げる主人の姿に、ギルネラは思わず目を逸らす。セーラツィカの心の痛みは、自分の痛みでもあった。


 大粒の涙を流して顔を歪ませながら、ギルネラは再び手のひらに火球を作り始めた。今度は途中で止まらずに、どんどん火球は大きくなった。


 ギルネラは最後に大きく息を吸って吐くと、火球を振りかぶって投げる。


「ぐぎゃっ!?」という悲鳴と共に、セーラツィカの全身が業火に包まれた。よろめき、少女はそのまま背中から倒れる。


「セ…ーラツィカ様!」


 ギルネラは急いで主人の側まで駆け寄ると、地面に両膝をついた。


 炎の勢いが激してセーラツィカの状態はよくわからない。火炎から飛び出した両手両足は、ピクピクと震えている。


「ああ、神々よ!」ギルネラは絶叫する。


「私は今、あなた方の血統を殺しました! どうか私の身体と魂を、その雷で燃やしください! ああ、セーラツィカ様のいない世界なんて…!」


 泣き崩れるギルネラの腕を誰かが掴んだ。驚きの余り、獣人の少女は後ろに飛び退く。気がつけば、あれだけセーラツィカを包んでいた炎が消えてなくなっている。


 少女は火傷1つない綺麗な顔を、ニッコリと笑いながらギルネラに向けていた。


「セ…ルラルシェナ様!」


 殆ど四つん這いでギルネラは主人に駆け寄る。


 身体の節々を直に触って確認するが、どこにも傷はなかった。獣人の少女の涙が、帝国人の少女の顔に雨のように落ちる。


「ねえ、ギルネラ」セーラツィカは言った。


「大丈夫でしょ? 何ともないでしょ?」


「はい…はい…!」相手の胸元に顔を埋めてギルネラは答える。


「服はどんな感じ?」

「少し汚れてはいますが、大丈夫そうです」


「と言うことは、衣服も含めて不可知の薄い膜みたいなものが全身を覆っていて、それが魔術を無効化する、と」

「はい?」


「でも衝撃は来たわ。なんだ少し熱いし。これってどのくらい体力を消耗するのかな? 1日に何回まで使える? 範囲を増やせたりしない?」

「な、何を言って…」


「ギルネラ」相手の腕を掴みながら、セーラツィカは目を輝かせて言った。


「もっともっと実験しないと。私の力について、知らないといけないことがたくさんあるわ」


「い、嫌…」ギルネラは弱々しく横に首を振る。

「ダメ」主人は言った。


「私を愛しているなら、私を燃やして」


 しばらくして帰ってきたスュルデは、全身が薄黒く汚れてはいるものの、どこかスッキリしたような面持ちのセーラツィカと、そんな主人の身体を泣きながら拭くギルネラの姿を見た。


(…何なの一体)森人の少女は思う。


(面倒くさそうだから、聞かないでおこう)


   ◇


「道を変える?」


 ガタゴトと凸凹道に揺れる荷台から顔を出してセーラツィカは言った。


「念のためですが」馬を操りながらスュルデは答える。


「今はまだありませんでしたが、私達の手配書が貼られる可能性があるので」

「でも、まだ丸1日も経ってないのに」


「軍の人馬を使えば可能です。あの商人が目を覚まして、助けを呼んで、手配書を作って、それを兵隊が近場の街や村に配る。ギリギリだけど間に合う」


「嘘…」セーラツィカは眉を顰める。


「どうして来訪教徒に帝国軍が協力するの?」

「賄賂、おこぼれに預かりたい。後はマトモな兵士でも、自分や家族の命は惜しいでしょうし」


「どういう意味?」

「摂政に目を付けられたくない、ということです。来訪教徒と親しい摂政は、連中の言うことなら何でも聞くそうです。減給や左遷で済むなら、その兵士は幸運でしょう。同様に領主や役人も滅多に来訪教徒には口出しない」


「ああ…」セーラツィカは頭を抱える。


(まさか、ここまでとは…)


 バルナレクの言ったことは本当だった。


 帝国領に入ってまだ2日ということは、帝都まであと5日はかかる。それだけ中心から離れた周縁部でさえ、ここまで来訪者の影響が大きいとは。


「どうしてスュルデはそんなに詳しいの?」

「一度捕まったことがあるので」


「ええっ…」

「訳は聞かないで」


「は、はい」


「それで、新しいルートですが」スュルデは続ける。


「これからは主要な道路も避けることにします。見れば分かる通り、今通っているのは人通りの少ない道です。警備は殆どないに等しいですが、その分他の危険がある」

「それはなに?」


「野盗です」

「て、帝国領内に、しかもこんな平地に野盗が…?」


「しばらくは荒廃した土地が続きます。休憩は最小限で、急いで抜けましょう」

「土地の持ち主は一体なにをしているの?」


「理由は色々です。ずっと帝都に住んでいるとか、相続に揉めているとか、単に継ぐ人間がいないとか」


「も、もしかして」セーラツィカは声を震わせる。「これも、来訪教徒の…?」


「どうでしょう。無関係じゃないかもしれないけど、私には何とも。荒れ果てるに任せて人がすっかりいなくなった土地を、来訪教徒達に売るのが摂政の思惑。なんて噂してる連中はいますが」


「帝国の土地を、来訪教徒達に与える…」


 目に見えてショックを受けているセーラツィカを、スュルデはチラと振り返る。


(このお嬢様、本当に無知なのね)


 馬に飲食を与える以外、馬車は停まらなかった。陽が沈む前にもっとも危険な土地を抜けなければならない。


 窮屈な荷台、セーラツィカとギルネラはその柔らかい尻を長時間硬い木材に置きながらも、文句一つ言わず黙っていた。


 ある時、馬車がさらに速度を早めた。


 前方から人の気配と話し声とがした。数十人はいる。何事かと、セーラツィカは恐る恐る御者台へと顔を出す。


「隠れてください」抑えた声でスュルデは言った。


「どうしたの? 何事?」

「家を追い出された民達です。囲まれる前に切り抜けます。危ないので隠れて」


 気になりはしたが、取り敢えずセーラツィカは首を引っ込める。スュルデはさらに馬に鞭を打った。


「助けてくれ! 食べ物を分けてくれ!」という民達の声に、「退いて! 轢いてしまうぞ!」と森人の女は怒鳴り返す。


 道の両端に座り込んだ人々のスレスレを、馬車は土埃をあげて去って行く。セーラツィカは四つん這いで荷台の後ろに移動すると、幕の隙間から外を見た。


「お願いします!」


 赤ん坊を抱いた1人の若い女が、去り行く馬車に向かって叫んでいた。


「子供が病気なんです! このままだと、この子は死んでしまう…」


 馬車があっという間に去ったので、女の言葉は最後まで聞き取れなかった。


 その姿が小さな点になっても、女は道の真ん中に立ってこちらをみている。


 セーラツィカは荷台の幌の端を強く掴み、唇を噛みながら、瞬きもせずにその光景を目に焼き付けた。


   ◇


「あと少し」それからしばらくして、御者台のスュルデは言った。


「あの丘を越えれば最も危険な場所は抜けます。陽が沈むまで余裕もある」


 油断は出来ない。と思いつつも森人の女は安堵した。一度も野盗に出会すことなく切り抜けられそうだ。


 隣の土地に行けば最悪野宿もできる。でも今日ぐらいはちゃんとした寝床に入りたい。丘は目前…。


 道の左端で火炎が噴き上がり、スュルデは木や小石の破片に半身を叩かれた。


(やられた!)片目を瞑りつつ、森人の女は懸命に手綱を引く。


 2回目の火炎。今度は右。


「馬車から降りて!」


 スュルデは荷台に怒鳴りながら、馬車を停めて自身も地面に飛び降りる。


 道の左側にある小さな土手のような窪みに転がり込み、こちら側に敵がいないことを確認すると、慌てふためく2人の少女を呼び寄せた。


「馬車と窪みを盾にして絶対に顔を出さないこと。わかりました?」


 セーラツィカとギルネラは黙って頷く。スュルデは身を低くして、馬の輓具を外す。


 馬を解放して走らせる間にも火球は降って来た。間違いなく、向こうには魔術師がいる。


 森人の女は素早く荷台に戻り、すぐさま弩弓と数本の矢を携えて帰ってきた。


 道の右側、少し離れた所に大きな廃屋があった。野盗はそこに潜んでいるらしい。


「おーい」その廃屋から、酒焼けをしたような声がした。


「金目の物を置いて出て行け。そうすれば命だけは助けやる」


「嘘だ」矢をつがえながら、スュルデは言った。


「油断したところを襲うつもりです。別の場所に仲間がいるかもしれない。皆殺しにしないと、こちらがやられる」


 スュルデは弩弓を土手の高くなった部分に置き、馬車の車輪越しに廃屋を睨んだ。


「やっぱり、森人は弓の扱いが上手いの?」セーラツィカが言う。


 平静を装ってはいたが、少女の体は震えていた。


「残念ながら、私は近接向きです」森人の女はそう言って苦笑した。


「マズいな、そうこうしてる内に陽が暮れる。暗くなったら近づかれても分からない。矢も足りない。魔術師がどこにいるかも分からないし…」


 緊張しているのか、ブツブツとスュルデは思ったことを口に出す。


「魔術師」


 セーラツィカはそう言って、慎重に廃屋を眺めた。建物には窓が5つ。魔術師は恐らく、そのどこからか攻撃してくる。


「敵がどこにいるか分かれば、スュルデなら倒せる?」

「恐らく。いや、多分。あるいは…」


「分かった」そう言って、セーラツィカは立ち上がる。


「私が囮になるから、ちゃんと相手を見てるのよ」


 スュルデとギルネラが止める暇もなく、少女は道路へと走り出した。即座に火球が降ってきて、セーラツィカが走っていた辺りが火に包まれる。


「セルラルシェナ様!」そう言って飛び出そうとするギルネラの足を、慌ててスュルデが掴む。


 獣人の少女はバランスを失い「がはっ!」と地面に突っ伏した。


 道路では火が消え、土埃を被った以外は平気なセーラツィカがむくりと起き出す。


「スュルデ!」


 セーラツィカは廃屋を指差し、後ろを振り返って叫んだ。


「魔術師を射って! 早く!」


 スュルデは慌てて馬車の下の隙間から弩弓を構える。セーラツィカは再び立ち上がり、いい的になるように歩き出す。


 森人の女は廃屋に目を凝らした。


(どれ、どの窓…!?)


 だがどの窓にも人影はない。丁度その時、視界の隅で何かが動いた。屋根の上だった。


 狙いを定め、引き金を引く。矢は望み通りに飛び、哀れな悲鳴と共に敵を地面に追い落とした。


 だがその悲鳴を合図にするように、別の人影が廃屋から飛び出す。人影は真っ直ぐに、道に立つセーラツィカへと向かって行く。


 スュルデは弩弓を捨てると即座に道へと飛び出した。だが今度は火球の代わりに矢が足元に飛んでくる。森人の女は転がり込むようにして土手の下に戻った。


「林へ、林の中へ走ってください!」


 廃屋の横手に小さな林があった。スュルデの声に、セーラツィカは慌ててそこへと駆け出す。


「次から次へと…」スュルデはそう言いながら、弩弓に新たな矢を込める。


「せ、セルラルシェナ様はどこに…?」土埃のついた顔をあげて、ギルネラは言った。


「そこの林の中!」指を差しながら、スュルデは口早に答える。


「敵が1人、あなたの主人を追ってる。行きたいけど、廃屋に弓兵がいて近づけない」

「そ、そんな。セルラルシェナ様…」


「私が突っ走って助けるから、あなたは援護を──」


「そうだ、囮…」そう言って、ギルネラは立ち上がる。


「私が囮になります! スュルデ様は弓兵を撃ち殺してください!」


 スュルデが止める間もなく、獣人の少女は道の真ん中へと駆けていく。


「ああっ…クソがっ!」


 森人の女はそう言って廃屋へと弩弓を構えた。


「精霊達よ、クソッタレ! 私はなんでこうも運がないの!?」


 

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