第4話 黄昏の帝国(前編)

「申し訳ありません。今晩はもう空きがありませんで…」


 恐らくスュルデのものと思われる、背中を押されたカエルのような「ぐがあっ!?」という呻き声に、外にいたセーラツィカは振り向いた。


 用心のために、帝都に着くまでは大きな町には寄れない。


 少女が初めて見る祖国の小さな村は、貧相なことも含めて獣人の国と大差なかった。


 沈みゆく夕日に照らされた民家に背を向けて、セーラツィカは宿屋へ入った。受付では、スュルデと主人とが話し合っている。


「村長の家とかは? お金は払うからさ」

「生憎そちらも来客がありまして…。厩なら空間はあります。当然、代金はいりません」


「私1人ならそれでいいけど、うーん…」


 丁度その時、低く響くような集団の笑い声が奥の部屋から聞こえてきた。セーラツィカは何の気なしに、部屋を覗き込む。


 食堂らしく、5、6人の男女が卓に乗った食事を囲み、酒の入っているであろうカップを片手に、赤ら顔を揺らしていた。


 その内の1人がセーラツィカに気がつく。


 頭の禿げかかった、肥えたその男は舐めるように少女の体を見ると、声を顰めて、隣に座っている男に何かを話しかけた。


 途端、その場に座っていた全員がセーラツィカを振り返ったと思うと、魔物のような下卑た笑い声を一斉に上げた。


 全身を悪寒に襲われたセーラツィカは慌てて顔を引っ込めると、未だ受付に粘っているスュルデの服の裾を引っ張った。


「ねえ、ねえスュルデ」

「ん? なんですか?」


「行きましょう。私、野宿でも全然いいから」

「えっ、ええっ!? でも…」


 スュルデは少女の顔と、申し訳なさそうにしている宿の主人との顔を交互に見比べる。


「ん?」その甲斐あってか、スュルデはあることを思いついた。


「ねえ、この近くに神殿はある?」


   ◇


 それから少して、セーラツィカ達は街から少し離れた寂れた神殿にいた。


 建物自体は立派な石造で雨風も容易に防げそうではあったが、もう長い間使われていないらしく、建材は黒ずみ、隙間からは草が顔を出し、中は土や泥が散乱していた。


 その光景に絶句する2人の少女を横目に、スュルデは淡々と作業をする。


 燭台に火を灯し、簡単ながらも女神像を布で拭き、奉献台に置かれた椀に水を入れ、秋口には少なくなってきた花を外から取ってきて、辺りにまいた。


「…信じられない」ようやくセーラツィカは口を開いた。


「ここは神殿でしょう? 神々の家でしょう? どうしてそんな場所が、こんな風に荒れているの?」


「維持出来ないんですよ」作業の手を止めずに、スュルデは答える。


「昔はこのぐらいの神殿がそこら中にあったけど、今はだいぶ減りました。別に、神々を信じてない訳じゃないですよ。どこか別の場所に、もっと小さい祠みたいなのがあるはず。森人の国でも似たようなものです。まあうちは貧しいというより、単純に人が減ってるからですが。今時、信仰に大金をはたけるのなんて来訪教徒ぐらいです。いずれ神々を祀る神殿も、来訪者を祀るソレにとって変わられるでしょうね」


「そ、そんな…」


「皇帝が死んでからというもの、堰を切ったように王国から来訪教徒がやって来てます。摂政が便宜を図ってるとかで、連中は他国でもお構いなしの大威張り。そう言えば宿屋が一杯だったのも、来訪者の一団を泊めるためらしいです。まあ、ラェーンィェークの低い連中らしいですが」


「ラ、ラーンク? ランク? それは何?」


「なんというか、人がそれぞれに持っている位階らしいです。来訪者の目にはその位階とやらが見えていて、それで上下を判断するそうで」

「ふうん」


「来訪者は他にも色んな人の特性が見れるらしいです。スゥェーティータァアーィスとか言って、その人の体力とか賢さとか、魔力とか弱点とかが数字になって分かるとか。相手の性癖とか、性感帯とかも」

「バ、バカみたい!」


「最後の2つは嘘です。まあ、それだけ来訪者は奇妙な連中だということで。奇妙な用語は他にも沢山ありますよ。スィイキイイルとか、ザァッマーハィエとか、オッレィェツィイエーイィとか」

「発音の問題のような気もするけど…」


 宿屋で聞いたあの魔物のような笑い声は、来訪者の一団によるものだった。セーラツィカの身体にまた悪寒が走る。


 少女の中で、未だ理解の及ばない来訪者が、魔物のよう憎むべき存在として結論付けられそうになった。


(でも、それだと短絡的過ぎる…)


 少女は理性で持って必死に感情に抗う。だがそれにしても、あのおぞましい笑い方は…。


「それはさておき」


 準備を終えたスュルデは、両手を広げながら神像の前で直立した。慌てて2人の少女もそれに倣う。


「異邦の神よ、あなたの聖なる家に一晩邪魔する事をお許しください。代わりに私達はあなたに捧げ物をし、感謝の祈りをします。私達はあなたに敬意を表し、決して蔑ろにはしません…」


 祈りが終わるとスュルデは外に出て、晩御飯の準備を始めた。


「食材は買えたので、まあそこで座って待っててください。これでもチビ達には評判がいいんでね!」


 スュルデとギルネラが支度をしている間、セーラツィカは1人祭壇へと戻り、神像を眺める。


 素朴だか、悪くはない石像。所々色が禿げていても眼が赤いのは分かったし、口元がほんのり桃色であることも分かった。


 セーラツィカには、光に照らされた神像がどこか嬉しそうに見えた。


   ◇


 夜中、神殿の入り口付近で眠っていたセーラツィカは不意に目を覚ました。何か目に見えない空気のようなものが、自分の身体に触れたような気がする。


 隣からはスュルデとギルネラの寝息が聞こえた。


(気のせいね)


 少女はそう思って、再び瞼を閉じようとする。丁度その時、真隣で人の動く気配がした。


(…ギルネラ?)


 隣を見遣った少女は大いに驚いた。


 眠っているギルネラの上に、大きな人影が被さっている。顔はよく見えなかったが、人影は慎重にギルネラの寝息を確かめているようだった


 起きあがろうとしたが、恐怖のせいか少女の身体は思うように動かなかった。いや、恐怖のせいというより、まるで石になったかのように体が重い。


 代わりにセーラツィカは大声を上げようとする。だが口までもが重くなって、容易には動かなかった。


 人影は手の先をギルネラの胸元へ差し入れようとしていた。セーラツィカと同様に、ギルネラやスュルデも身動きが取れないらしい。


(ふざけないで…)少女は目を見開き、口元に力を込めた。


(お、お前なんかに…)少しずつだが、口が動くようになってくる。


(お前なんかに、好き勝手はさせない…!)ついに、口がパクパクと動き出す。


「唾棄すべき魔物よ! その穢らわしい手を離せ!!!」


 ギルネラに跨った人影がハッと振り返る。


 人影が慌てて立ちあがろうとしたその時、突如として起き上がったスュルデが相手の足を掴んだ。


 森人の女は倒れた相手に馬乗りになると、目につく場所全てに拳を見舞った。


 ようやく動けるようになったセーラツィカは跳ね起き、ギルネラへと駆け寄る。


「ギルネラ、大丈夫? ギルネラ! ギルネラ!」

「耳が痛いです、セルラルシェナ様」


 ギルネラは横になったまま、目だけを開けて主人に答えた。


「身体が動きません。なんでしょうか、これ」


「束縛の魔術です」セーラツィカの代わりに、スュルデが答える。


「あと、墜眠も。この野郎、一丁前に魔術を齧っていたらしい」


 スュルデはそう言って、気を失った相手から離れる。


 犯人の顔を見てセーラツィカはギョッとした。宿屋の食堂で眼の合った、あの魔物のような肥えた男だった。


「ら、来訪者の一団…」


 少女の呟きに、スュルデは「やっぱり」と驚きもせずに答える。


「来訪者に付き従って、おこぼれに預かりたい商人あたりでしょう。奴隷にでも売りに出す前に、自分で味見したくなったってところか。反吐が出る」


 セーラツィカの顔は青ざめ、今頃になって身体が震え出した。


 本で読むのと現実で遭遇するのとは訳が違う。もしこの世に善悪があるなら、生まれて初めて少女は悪人というものに出会ったのだ。


「ギ、ギルネラ!」セーラツィカは再びギルネラに縋る。


「何もされてない? 痛いところは?」

「大丈夫です、ぐっすり寝ていたので。生暖かい風は感じましたが」


「い、急いで洗わないと。消毒しないと!」

「吐息だけで人を殺せるなら、それはもう魔物です」


「ま、魔物? ど、どうしよう! 早くしないと毒が回ってギルネラが魔物になっちゃう…!」

「フフフ。笑わせないでください」


「お取り込み中の所、申し訳ないんですが」寝床や調理器具を片付けながらスュルデは言った。


「出来るだけ早くここを立たなければならなくなりました。ギルネラさんが動けるようになったら直ぐに出発しますので、準備をお願いします」


   ◇


 危険な闇夜の道を、馬車は風のように駆けていく。それを見送るものは木々に隠れた鳥や獣しかいない。


 数時間そうやって走ると、道が二又に分かれた地点に辿り着いた。スュルデは道に挟まれた街には入らず、少し離れた小さな森の中に馬車を停める。


 セーラツィカとギルネラは荷台で改めて眠り、それをスュルデが不眠で見守った。


 やがて陽が昇ると、スュルデはほんの少しの仮眠を取った後で起き上がった。同じタイミングで、2人の少女も目を覚ます。


「スュルデ、どこに行くの?」目を擦りながら、セーラツィカは森人の女に尋ねる。


「少し街まで。ここで待っていてください」


 腰元の手斧をマントで、派手な髪色の頭をフードで隠しながら、スュルデは答えた。


「そうだ、忘れない内に言っておかないと。昨日はありがとうございます。お陰で助かりました」

「どっちの話?」


「え? どっち?」

「関所の話? それとも神殿の話?」


「あー、そっか…」スュルデは恥ずかしそうに頬を染めると、まずはギルネラの方を向いた。


「関所では大変に助かりました。あの獣人の怯えた顔は、これからいい酒の肴になります」


 小さく頭を下げるスュルデに、ギルネラはニッコリと笑って答える。


「それでセルラルシェナ様、神殿では助かりました。一応魔防具を身につけていたのですが、そろそろ効きが悪いのか、セルラルシェナ様が声を上げてくれなければ対処出来ない所でした。ありがとうございます。それと、申し訳ありません。あの、このことは、出来れば雇い主には内密に…」


「魔防具? 魔防具ってなに?」話の末はよく聞かずに、少女は相手に尋ねた。


「魔術を防ぐための防具です。防具と言っても、装身具みたいなものですけど。それがないと普通の人間は魔術には対抗出来ません。ほら」


 そう言って、スュルデは首元からネックレスのようなものを取り出した。小さな鉱石の切れ端みたいなものに、びっしりと小さな文字で何かが刻まれている。


「高かったです」森人の女はそう言いながらネックレスを仕舞う。


「ご存知なかったんですか? てっきり、私のなんかよりよっぽど性能の良い魔防具をつけてるんだとばかり」

「へ?」


「だからこそ、セルラルシェナ様が一早くあの商人に対応出来たんでしょう? 先程も言いましたが、魔防具がなければ人は魔術には無防備ですから」


(知らなかった。だって本に書いてなかったし…)


 セーラツィカはギルネラと顔を合わせる。何となくだが、少女は相手に話を合わせた方が良いように思えた。


「そ、そうよ」セーラツィカは答える。


「あ、ああ、忘れてたわ! し、下着が魔防具なの。頭が3つの熊の毛皮を使って、歌う植物から採れた糸でそれを縫い、最後に頭と尻が逆さになった猿の血で染めるの。効果はテキメンよ」


「へ、へえ…」


 引き攣った顔でそう返事をすると、スュルデは足早に去っていった。


 

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