第1章

第1話 森に住む少女(前編)

「…ふがっ!」


 目を覚ましたセーラツィカは、ゆっくりと腕枕から頭を上げた。あまり気持ちのよくない夢を見ていた気がする。


 少女は瞼と口を小さく開けて、呆けたように窓の外を見つめた。もう1時間半もすれば空に星が登るだろう。


 よろよろと椅子から立ち上がる。途端、ビキビキと身体の節々が鳴った。


「いたた…」


 そんな独り言を呟きながら、首や、肩や、腕や、腰を回したり伸ばしたりする。


 身体を動かしたお陰か、少しずつ頭がハッキリとして来た。少女は口元のよだれを拭い取り、散らかった机の上を掃除しようかと考える。


 ん? 口元のよだれ…?


 セーラツィカは急いで机の上を振り返った。


「うぎゃっ!」


 少女は慌てて口を手で覆ったが、悲鳴の殆どはもう出てしまっていた。


 手遅れとは思いつつ、セーラツィカは聞き耳を立てて、身動きせずに静かに待った。


 廊下の向こうで扉を開ける音がしたと思うと、今度は足音がどんどん近づいてくる。


 足音はセーラツィカの部屋の前で止まり、扉を叩く音に続いて声がした。


「セーラツィカ様。もうお目覚めになりましたか?」

「起きてる起きてる。なんなら朝からずっと」


「入ってもよろしいですか?」

「いつでも勝手に入りなさいよ、ギルネラ」


 セーラツィカはそう言いながら、片面がよだれで濡れた本を、ページ同士が貼り付かないよう開いたまま、ベッドの布団の下に隠した。


 扉が開き、セーラツィカと余り年の離れない少女が入ってくる。


 ギルネラと呼ばれた少女は、先端が尖った幅広で垂れた山羊のような耳を持ち、額の左右両端からは白い角が生えていた。


 美しい赤色の髪をぐしゃぐしゃにし、猫のように背を曲げたセーラツィカを見て、ギルネラは困ったように眉をハの字にする。


「昼に寝過ぎると、夜眠れなくなります」

「寝てない…」


「毛布は掛けていましたか? 風邪を引きますよ」

「寝てない…!」


 セーラツィカは両の拳を握ると、抗議の為に細い腕をブンブンと振り回した。


「机の上を片付けましょうか?」ギルネラは気にせず続ける。


「読み終わった分を書庫に戻しておきましょう」

「自分でやる! 自分でやるから!」


「よろしいのですか?」

「よろしいよろしい。ギルネラは晩御飯の準備があるんでしょう? 手を煩わせるのは忍びないから」


「ああ、そうでした。今日はエビの炒め物です。手の長いヤツです」

「ギルネラの大好物ね」


「そうです。フフフ」

「いつも美味しい料理をありがとう。愛してるわ。こっちは自分で出来るから本当に大丈夫」


「分かりました。これから外に水を汲んで来ますので、何かあったら鈴でお呼び下さい」


 少しして、セーラツィカは書庫にいた。


「居眠りしたからって、私が悪いんじゃない」


 そんな独り言を呟きながら、少女は持ってきた本を棚に戻していく。


「注釈がバカみたいにつまらないせいよ。原本が台無し。注釈者の個人的な気持ちの表明なんて聞きたくもない。何が『著者の見解とは異なり、頭が3つの熊など本当は実在しない』よ。絶対にいるわ。頭が3つの熊は絶対にいるから!」


 外で、何かが落ちる音がした。


 セーラツィカは一瞬窓の方を向いた後、すぐに視線を本棚に戻した。だが本を触る手を一旦止め、耳を澄ます。なんの音もしない。


 少女は音を立てずに書庫を出ると、なるべく駆け足で自室へと向かった。異変が起こった時の選択肢は2つあった。


 1つは速やかに裏口から外に出て森へと入り、まっすぐ東に向かって、最寄りの駐屯地に駆け寄る。2つ目は…。


 セーラツィカはベッドの下から大きな木製の箱を引き摺り出すと、そこから小型の弩級と矢を取り上げた。


 慣れた手付きで矢をつがえ、少女は正面玄関へと駆け出す。2つ目の行動とは、自分の手でギルネラを助けること。


 弩弓を構えたまま足で扉を開けると、セーラツィカは急いで標的を探す。敵は直ぐに見つかった。


 玄関から正門へと続く道の丁度真ん中の辺りで、ギルネラは口を塞がれ、拘束されていた。


 目につく敵は1人。相手はフードを被り、顔はよく分からなかった。


「その者を離せ!」


 矢のひっ先を向けながら、少女は敵に向かって叫んだ。


 相手は視線をセーラツィカへと向ける。フードの下の目が大きく見開かれ、瞬きすることなく、弩弓を構えた少女へと釘付けになった。


 咄嗟にギルネラは相手のみぞおちに一撃を入れると、怯んで手元が緩んだ隙に拘束を離れ、セーラツィカの許へと駆け寄った。


「お逃げ下さい!」


 叫びながらギルネラは両手を広げて、自分が肉壁となるべく主人の前に立つ。


「逃げない」セーラツィカは答えた。


「あなたを置いてはね」


 ギルネラは唇を噛み、広げた両手に一層の力を入れた。


「今ならまだ間に合う!」


 ギルネラの肩越しに矢の切っ先を覗かせながら、セーラツィカは敵へと言った。


「今すぐに立ち去れば、多少は追手との距離が稼げよう。だがもし躊躇するならば、遠くない内にお前の首は草原に晒される。ここは獣人達の偉大なる大王が所有する邸宅。そこに無断で立ち入った以上、決して無事では返さぬぞ!」


「兵は来ません」


 敵は言った。ギルネラの一撃のせいか苦しそうではあったが、快活な若い男の声のようだった。


「ここにくる前に眠らせましたので」


 男はそう言ってフードを脱いだ。栗色の巻毛を、眉の辺りまで下ろした青年だった。


「魔術師か?」というギルネラの問いに、青年はみぞおちの辺りをさすりながら「いえ」と答える。


「少々仕込んだ酒を飲ませました。大した薬ではありません。明日の朝になれば目を覚まします」


「あんの穀潰し共」歯軋りをさせながら、ギルネラは口の中で呟いた。


「事が済んだら、必ずこの事は大王様に報告してやる…!」


「仕方ない。まだ若い兵達だもの」とセーラツィカがたしなめる。


 栗毛の青年は2人の少女に焦点を合わせたまま、ゆっくりと片膝を地面につけた。


「非礼を、どうかお許し下さい。信じてもらえないでしょうが、お2人に危害を加える気は全くありませんでした」


「嘘つき」セーラツィカは即座に答える。


「地獄に落ちるべきペテン師め。あなたに比べれば、遥か北の果てに追いやられたというおぞましき魔物共など、春の小川のように穏やかよ。バカ、間抜け。何よそのふざけた髪型。イケてるつもりなの? 恥を知れ」


「ええっ…」流石の青年も、微かに身体を後ろに引いた。


「さっさと帰って」セーラツィカは続ける。


「これから晩御飯なの。読まないといけない本もたくさんある。あなたに割く時間など微塵もない。今日は特別に見逃してあげるから、帰りなさい」


「帰りません」青年は言った。


「あなたに…皇帝にお伝えしなければならないことがあります」


(ど、どうして…?)


 セーラツィカは青年を凝視したまま、動きを止めた。


 後ろを振り返ったギルネラは主人の動揺を速やかに読み取ると、慌てて青年に向かって言った。


「戯言を吐くな! この人は、大王の命によって邸宅の管理をしている書記官の──」


「セーラツィカ様、どうかお聞き下さい」ギルネラの言葉を遮って青年は言った。


「あなたはゲズダル家のセーラツィカ様です。お父様の名前はヤーコシュ。お母様の名前はミュレオーニナ。お兄様の名前はセラジルド。16年前のあの日、あの夜に一家は全て殺された筈だった。だが生き残りがいた。神々は我々を見捨ててはいなかったのです。私は太陽に誓って、あなた方に危害を加えません」


 セーラツィカとギルネラは共に言葉を失い、青年を凝視するしかなかった。青年は微笑み、2人の少女とは対照的に饒舌になった。


「『神々の子孫』であり、『どんな魔術にも倒されぬ大木』であり、『魔物を踏み潰す足』であり、『この世で最も明るい光』である、我々を導く『皇帝』よ。私は、あなたをお迎えに参りました!」


 そう言って青年は深々と頭を垂れた。


 ギルネラは我に返ると、セーラツィカに早口で言った。


「あの者を射って下さい」


 セーラツィカも正気に戻り、ギルネラを見遣る。


「これは何かの罠です。あの者を射って下さい!」


 少女は言われるがままに、弩弓の引き金へと手をかける。青年は相手の返答を待つように、頭を垂れたままじっとしていた。


 殺すなら今だ。自分がやらなければ、こちらがやられるかもしれない。


 セーラツィカの目が大きく見開かれた。拍動が速さを増すと共に、息がさらに荒くなる。震える手で必死に狙いを定めようとする。


 もう少しで矢が放たれる。もう少し、もう少し…。


 だが結局、その矢が放たれる事はなかった。「はあ」とため息をつきながら、セーラツィカは弩弓を下ろす。


 そして武器を手渡しつつ、少女はギルネラに言った。


「陽が沈めば森を抜けては帰れないわ。持ち物を調べて不審がなければ、一晩の寝食ぐらいは出してあげましょう」

「ですが、セーラツィカ様」


「ごめんなさい、わがままを言って。でも私、少しでいいからあの者の話を聞いてみたいの。ダメ? ギルネラ…」


 ギルネラは困ったように眉をハの字にすると、主人であり、妹のような存在でもあるセーラツィカに言った。


「分かりました。ですがその、料理が足りないかもしれません」


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