第2話


光太の目の奥の冷たさが恐い。


だからもう一度、視線を落として目を反らした。


先程の怒りに似た気持ちが嘘のようにしぼみ、力なくゆっくりと首を横に振った。



「それは……違うよ」


「……」


「……別に憎んでないよ」


「……へぇー」


「ともかく、あなたに変な心配されなくても……私はあなたのこと、何とも思ってないから」


「……」


「だから余計な心配しなくていいから」


「……じゃあ、さっきの男とかに告白されたら付き合うんだ?」



低い声でそう聞かれ、その言葉を光太がどんな顔で言ったのかなんて見れなかった。


私はただ泣いてしまわないようにカーテンを握りしめた。



「……もし告白されたら、それも考えるよ。もしかしたら付き合う……かもしれない」


「ふぅーん」


「……」


「まぁ、そういうことなら俺は助かるけど」



光太は窓の横枠を掴みながら少し保健室の内側に上体を乗り出し、私の顔との距離をグッと縮めた。



「俺はアンタのこと、大嫌い……だからね」



軽く笑いを含んだその声に、握っていたカーテンを微かに揺らしてしまった。



彼が私にこう言うのは仕方のないこと。


当然のこと。



「わ……私だって、あなたのこと、嫌…い……」



こちらの動揺に気付かれたくない一心で、私も精一杯言い返す。


だけど私の言い返しもなんてこともないようで、光太はまた鼻で笑った。



「……じゃあ、たまに黙ってこっち見てくるの、やめてくれない?」


「……な」


「わかるから、視線が」


「……」


「それだけで鬱陶しい。コッチはあんたが視界に入るだけでイライラするっていうのに」


「……」



動揺を悟られたくない。


精一杯に耐えていたい。


だけど……積み重なる苛立ちと悲しみで唇を噛んでしまう。



「まぁ、上手くいくんじゃない?さっきも良い雰囲気だったし、向こうもあんたに好意持たれてるって思って自信あるんだろうし」


「……え?好意?私が?……何を根拠に?」



光太はバカにしたような笑みで私を見下ろした。



「『聞いてほしい』とか言って、あんな意味ありげに話を止めたら、バカな男は勝手に都合の良い解釈して、脈アリとも思うんじゃね?普通」


「え……!?私は別にそんなこと__」


「じゃあな」



一体いつから私達の話を聞いていたんだろう……。



光太は背中を向けて、遠ざかろうとした。


やっぱり怪我なんて嘘なんだ。


なんのために?


なんで話しかけてきたの?


目に入るだけでイラつくのならずっと無視してくれたらいいのに。



それがムカついた。



いつもそうだ。


こちらの心を散々掻き乱しといて、とたんに離れていく。



「……私は、」



積もりに積もった何かの塊が弾けた。


大きく息を吸う。



「修学旅行、行かない!!」



大声でそう叫んだら、彼の足は止まった。



「……行けないの。町田くんに言いかけたことはそれだけ。『私は修学旅行には行かない』って」



怪訝そうな顔で振り返った光太はゆっくりとした足取りで、戻ってきた。



「何?行かないって……」



窓枠を挟んでいるとは充分に近いやりとりに私は軽い目眩を覚えた。


だけどその目に負けまいと、光太を見つめ返した。



「だって、自分の戸籍……見たくないから」


「……」


「パスポート作る時、自分で確認して……他の人にも見られたくないし……から、作りたくない。パスポートを作れないんじゃ、韓国へは行けない。……行かない」


「……」


「そんな再確認……したくない」


「……お前、」


「だって私はお父さんに認めてもらえな──」



言い終わる前に大きな手が近付き、私の髪を根元からグシャリと掴まれ、顔の向きを無理矢理に上にされた。



「いい加減にしろよ……桃日ももか



決して叫ばず喚かず、だけど呻く様に凄んだ声で囁かれた。


こんな時になってようやく名前を呼んでくるなんて……ズルいと思った。


でもズルいのは私も同じで……



自分の傷も相手の傷も関係なく、手段を選ばず掻き毟ったのだから。


彼を引き留めるのはこれしかないのだから。


光太は強い眼光を緩めることなく、ひどく冷たい目つきで私を見つめた。



「お前の主張なんかどうでもいいんだよ。そんな文句を俺に言うんじゃねぇよ」


「……私は別に文句を言うつもりは、」


「うるせぇよ……悪いのは、人の旦那うちの親父に手を出したお前の母親だろ?」



低い声。


冷たい目。



それは仕方ないこと。


当然のこと。



彼に恋をしてはいけない。



私達の母親は、私達が同じ高校にいることを知っているのだろうか。


知っていたとしても私達が気付いていないと思っているのだろうか。


ただの偶然。



運命?


そうだというのなら、あまりにもひどい。


最初から知っていたのなら、せめてこんな想いも覚悟できたのだろうか。


そもそも関わらなかったのだろうか。


せめて、知る前に出会わなければ、お互いにこんな想いが生まれずに済んだのに。



なんで私は……彼から目を反らせないんだろう。


後戻りの方法を誰か知っているのなら、何でもするから教えてほしい。



文字通り目と鼻の先の光太の瞳が揺らいだ。



「修学旅行に行きたくないだぁ?勝手にしろよ」



その声は


凄みはあるのに、なんだか光太が壊れてしまいそうだ。


それが苦しい。


耳のピアスが夕日でまた反射する。


次に会う時には、また増えるのだろうか。


それが光太なりの自分を保つ方法なのだろうか。


それが悲しくて、私はいつも光太のピアスを見る度に辛くなる。



無理に自分の首を振って、光太の手を払い、軽く光太を突き飛ばした。



そうすることによって、やっと距離が生まれる。


これが傷付かない距離の間合い。


きっと正しい距離。



「……ごめんなさい。私は……」


「……」


「……ごめん」



そのまま窓を閉めて、カーテンも閉めた。


始めからこうすれば良かったのだ。



カーテン越しの窓に背中を預け、天井を仰いだ。



始めからこうすればいい。


自分から何も言わなければいい。


相手の言葉も無視すればいい。



でも…



なんでこんなに気になるんだろうか。



せっかく落ち着いてきたと思っていたのに、またここから数ヶ月……今日のことを何度も反芻はんすうしては一人で勝手に心が囚われて、手にものが付かなくなるんだ……きっと。


なんでこんなに気になる……のか。


本当は、答えを知っている。


でも言葉に、形に、してしまえば……駄目なのだ。


本当の後戻りが出来なくなってしまう。



カーテンから手を離し、窓から身体を離した。



数分前まで彼がそこにいたカーテン越しの窓を見つめた。


僅かにひりつく頭皮を自分で撫で、自分の手でクシャリと髪を乱した。


もうこれで彼と話すことも、接触することもないだろう。


それでいい。


それがいい。


卒業まで、お互いを無視をすればいい。


そっと窓に近付き、カーテンを撫でた。


……


しばらくして、カーテンをゆっくりと開けてみた。




そこに光太が立っていた。



てっきり、もうとっくにどこかへ行ってしまったものだと思っていたから、とても驚いた。


向こうももう一度カーテンが開くとは思ってなかったかのように目を見開いて驚いている。



なんで?


なんでまだいるの?


胸の奥が苦しく叫ぶ。


そこでずっと窓越しの私を見つめていたの?


私と同じように?


違う、やめて、そんなわけがない、そんなはずがないって思わせて。


期待と絶望がぜとなりながら、光太をただ見つめた。


目の前にあるのが窓一枚だけ挟んでいるだけとは信じられないくらいに……光太が遠い。



そうして数秒見つめ合った。



光太は驚いて開いた瞳をゆるめ、何かを諦めたようにひとつ溜め息を吐いた。


一歩、こちらに来た光太は窓ガラスにコツンと額をつけた。



なんで泣きそうになっているの?


私は戸惑う。


光太の唇がふと動き出す。


よく聞こえないから、吸い込まれるように私も一歩近付いた。



窓があることで声はさっきみたいにクリアには聞こえない。


だけど、ポツリ……ポツリ……と耳に届く。




桃日のせいじゃない。


わかってる。


“こども”のお前に言ったって意味がないんだ。



「……」



でもお前を認めたら…


親父がしたことを認めることになる。


お袋の悲しみを否定することになる。


……だから


それは無理だ。



「……当たり前だよ。……当たり前」



……



「私の存在は……邪魔。光太にとって憎む存在。それは、当たり前のことでしょうがないことだから。だから……いいんだよ」



お前の……



「……」



桃日のその……慣れきった面が嫌なんだ。



「……え、」



だからお前が嫌いだ。



「……」



もっと……俺らを妬んでくれたら……いっそ楽なのに



「……」



もっと笑えばいいのに。


全てを諦めたようなお前なんか……



「……」



嫌いだ。




光太のその目がひどく切なくて、綺麗だった。


もっと妬んでくれたら楽なのに……


もっと笑えばいいのに。



それは私も光太に思うこと。


だけど光太はいつも一緒になって傷付いている。


ピアスを見つめる。


光太は窓越しの間近の私を睨む。




お前なんか嫌いだ。


俺はお前を……嫌いじゃなくちゃ……いけないんだ。


そうじゃなきゃ……俺は……




一回、額を離した光太はもう一度窓ガラスに額を打ち付けた。



自分を痛めつけるようにゴツッと強めの音が響いた。





……なんで、お前なんだよ。





光太の言葉に吐息が止まった。


なんで?


なんで?


なんで?



多分一生わからない。



窓ガラスに置いてある光太の握りこぶしの位置に一枚のガラスを隔てて触れてみる。



冷たい。



触れてはダメだから、余計に触れたくなるだけ?



それとも……



泣きそうになっているその顔に触れて、抱きしめたいと思っている私は、おかしいのだろう。


でも、私は……


私は光太のことが……



ゆっくりと背伸びをして、光太の顔に近づける。


光太に窓越しのキス。


ガラスに触れた唇はすぐに冷えてしまった。


目を開けば、光太も動かないまま私を見つめ、窓ガラスに触れていた。


間近のその瞳に頬が火照った。


窓越しで交わしている口付けは驚くほどに虚しい。


だけど、これが傷つかないギリギリのライン。


本物を知ってはいけない。


窓ガラスから口を離し、かかとを地面に付けて、自分の上履きをただ見つめた。



空白の時間が生まれる。



ついさっき、俺のこと忘れられるのか?ってバカにされたばっかりなのに。


私も何とも思っていないって言ったばっかりなのに。


これ以上は、本当に駄目。


窓から手を離した。



その瞬間、鍵をかけていなかった窓が開けられた。



「___桃日」



ドキリとした心はすぐに身体に命令を送った。


何か言われてしまう前に逃げてしまおう


そう思った。



そう思ったのに、ひびすを返す前にすぐに手を掴まれた。


捕まった。


逃げられない。



……違う。


嘘。


指を指だけが掴んで、触れ合っているだけ。



それなら……本当はすぐにでも振り払うことが出来る。


それぐらい優しい握り。


だけど、逃げられない。



「桃日……」


「あ……」



光太は窓に足を掛けた。



「__ッッ、だめ、光太!」


「……」


「こっちに来ちゃ……ダメ!!」


「……」


「……お願い……来ないで」



こないで


こないで


ずっとこらえていたものを、おさえていたものを、


お願いだからこれ以上、あばかないで。



お願いだから


お願いだから……



光太は切なげに目を細めた。



「桃日」


「光太……だから、窓を越えちゃだめ」


「…………遅い」



光太は窓を越えて、私の元へ飛び下りた。


その手は握られたまま。


その目は見つめられたまま。



「……もう、遅ぇよ」



なんで私は光太のことが好きなんだろう。


なんで光太は私から逃げなかったんだろう。


お互いに苦しくなることがわかっているのに、入ってしまった。



甘い刻の距離に。


傷つけ合う距離に。



それが、窓を越えるということ。



「桃日__」



窓を越えてしまった。

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