OVER
第1話
……___
「
「うん」
夕方が感じ取れる西日が二人っきりの保健室に差し込む。
グラウンドから何かしらの部活の掛け声が小さく聞こえてきたけど、学校の中では何故か別世界に感じる保健室で聞けば、ただの雑音のひとつに過ぎない。
夏休みに入る前だけど夏と呼ぶにふさわしいもので、制服の白シャツは自身の汗で充分に張り付かせる。
わずかな風に
気持ちが良い。
ここ数ヶ月『何か』に心が乱されることはなく穏やかになっているからか、この季節を素直にそう思える。
脱脂綿と消毒液をなんとか見つ出し、白いガラス戸棚から取り出した。
保健医の
両手に手当てグッズを持ち、回転丸椅子に座って待っている町田くんのところまで駆け寄ったら町田くんは怪我をした手の甲を差し出してくれた。
「手、痛そう……町田くん、平気?」
「うん、全然大丈夫だよ」
高校2年生にもなれば小さな怪我なら我慢できるものなんだろう。
ニッコリと笑う町田くんの様子と傷の程度を見て、確かに平気そうだなと思ったけど、大したことのない怪我でも化膿したらやっかい。
男子達の悪ふざけで盛り上がる中、皆を落ち着かせようとした町田くんの手は整備不備になっていたフェンスでひっかけてしまったのだ。
たまたま居合わせていた私は何故か男子達に「町田の手当してやって」と頼まれ、町田くんの付き添いとして一緒に保健室まで来ることになった。
「ごめんね、関係ない町田さんに来てもらっちゃって」
「町田くんももう少し怒ってもいいと思うよ。悪ふざけも程々にしろって」
「ん?いや……誰も悪気がないのはわかっているし、怪我はただの俺の不注意だしね」
町田くんの優しさはクラスの女の子からも好感度が高くて、爽やかで柔らかい印象もあって女子人気が高い。
「……それに、こうして羽鳥さんに手当してもられることになったと思ったら、むしろアイツらに感謝してもいいかも……なんて」
そんな人気のある町田くんに少し照れたように言われ、私は一瞬固まった。
どう反応すればいいのかわからず、とりあえず素早く脱脂綿に消毒液を
早く消毒しないといけないと、一人で頭の中で言い訳する。
消毒液を含んだ脱脂綿を傷に当てると町田くんが小さく「うっ」と堪えるような声をもらした。
「あ……ごめん、染みた?」
「ちょっとだけ。でも大丈夫」
傷に顔を近付けて様子を見ると、町田くんも覗き込んできた。
お互いのその仕草のせいか少し二人の顔が近付く。
ふと目が合い、でも互いに同時に目を逸らした。
「そういやさ、」
「ん?」
「韓国、楽しみだよな!!」
気まずかったのか話を逸らすために始めた話題のようだけど、町田くんは来学期にある修学旅行を楽しみにしているのは別に嘘ではないようで、声が弾んでいることからそのことを察せる。
「…………そうだね」
反対に私の声は
だけどそんな私の様子に町田くんは気付かなかった。
「明日のホームルームもきっと修学旅行の話をするだろうね。羽鳥さんは自由時間とか行きたいところはもう決めた?」
「……えっと、うん。……あのね、町田くん」
「ん?」
「ちょっと聞いてほしいことが……」
彼の顔をジッと見つめると町田くんは少し
「実は……その、私…」
「……何?」
「……」
「……え?」
まだ何も言ってないのに何故か既に戸惑っている町田くんの様子を見て、余計に続きが言えなくなってきた。
変なところで言うことを止めてしまったせいでおかしな空気が流れ始めてしまった。
こんな風になってしまえばどこからどう切り出してもおかしな空気は変えられない。
もう言い出しづらいと判断して、この場を終わらせようと思い、大きめの絆創膏をすばやく貼った。
「……ごめん」
「……え」
「……ごめん、何でもないから。忘れて」
「え……でも、」
「はい、終わったよ」
治療を終わらせ救急箱を持って立ち上がろうとしたけど、阻まれた。
町田くんが手当てが終わったその手で私の手を掴んでいたのだ。
私は戸惑いながらも町田くんの顔を見た。
「あの……羽鳥さん、」
「え…っと、町田くん…手……」
「羽鳥さんっていつもどこか遠くを見てるような……上の空な時があるよね」
「え……」
「単純に大人びた女の子なんかと思っていたんだけど、俺には時々それが寂しそうに見えて」
「……」
「なんとなく見てただけなのに、俺……その寂しい顔がだんだん気になってきて」
「町田くん……」
「俺なんかで良かったら……話してよ」
「……ごめん」
「……あ」
「……」
「いや!!俺もいきなり……ごめん」
町田くんは気遣って笑ってくれたけど私を握る力がますます強くなった。
その仕草の変化に私はやはりどんな反応をすればいいのかわからず固まった。
「町田くん……その、」
「……羽鳥さん。その、よかったら修学旅行の自由時間……二人で一緒に回らない?」
「……え?」
「ホント……羽鳥さんさえ、良ければなんだけど…」
町田くんは手を離してくれないまま立ち上がって、一歩分だけ私に近付く。
その眼差しは真剣で、西日のせいで町田くんの顔が赤くも見える。
「その……つまり、だから……実は、俺……ずっと前から羽鳥さんのこと……」
──コツコツ…
……
町田くんの言葉を遮るようにグラウンド側の窓からガラスをノックする音が聞こえてきた。
突然のことに二人で驚きながら音の鳴る方を見ると、コツコツと再度ノックの音がする。
「笹山先生いる?怪我したから見てほしいんだけど?」
開け放していた窓から低い声が通る。
聞き覚えある声に胸が痺れた。
まさかと思い窓のその先をおそるおそると見ると、一人の男子生徒が、カーテンの隙間から顔を出した。
赤髪が光で僅かに反射する。
その眩しさに目を細めながらも相手を捉え、そして目が合えば、相手が私を見てニヤッと笑った。
……よりによって、見られた相手は、
「……悪い、お取り込み中だった?」
___
私が今一番この現場を見られたくなかった人物だった。
彼は笑ってはいる。
だけど光太の眉はひそめられ、私を見るその瞳に憎悪が含まれているのがわかる。
あぁ、今日もいつも通りの彼だ。
彼の相変わらずの表情に私はむしろ落ち着いた気持ちで見つめ返すことができた。
だけど反対に町田くんは突然の乱入者に慌てたようで、急いで私から手を離した。
「あ、い……いや、別に何も……ないよ。ね、羽鳥さん」
「……うん」
笑って誤魔化そうとする町田くんを気にも留めず、私はただ一点にその赤髪を見つめていた。
気付けば掴まれていた手首の圧迫が緩んだ。
「じゃあね!!羽鳥さん、手当てありがとう!!また明日!!」
町田くんはいつもの変わらない爽やかな笑顔で保健室から出ていった。
だけど窓辺には光太がまだそこにいる。
保健室を去って行った町田くんに手を振り返すこともなく、私はただ立ち尽くしたままだった。
二人きりに取り残された保健室。
光太は外にいるまま、こちらに入ってこようとはしない。
私は少しだけ俯いた。
窓から光太はせせら笑いをもらした。
「悪いな、邪魔したみたいで」
「……別に」
持っていた救急箱を机に置き、私はゆっくりと彼がいる窓の傍まで歩み寄った。
その顔はさして邪魔して悪かったとは
なんで……よりにもよって……。
同じ学年だが、一年もそして現在の二年も、クラスが一緒だったこともないし、昔からの馴染みの間柄でもない。
それでも私は彼を知っている。
彼も私を知っている。
偶然に、お互いのことを知った時は自分の息が止まるかと思った。
多分きっと、それは向こうも同じ。
そして今。
私は光太の存在から目を離せなくて、光太は私の存在を無視する。
だけど時々、彼はこうして気まぐれに私に絡みにやってくる。
話し掛けられたのって……何ヵ月かぶり?
ようやく最近、心が落ち着いてきたというのにそれを見計らったかのようにまた来る。
早まる鼓動を悟られないように呼吸を整え、声を出した。
「……それで?」
「何が?」
「……どこを怪我したの?」
「……」
「怪我したんでしょ?」
「……さぁな」
光太は白々しく宙を仰いだ。
程よく筋肉がついている男の身体はどこかを負傷した様子を少しも感じない
耳にはまたピアスの数が増えていた。
……怪我していないのに、もしかしてわざと入ってきた?
……何のために。
彼が嘘をついた理由が思い付かない。
「……ふーん、あんたも意外にやるんだな」
「……え……何が?」
「さっきのって、向こうの告白寸前だったんじゃねぇの?」
薄々……町田くんの赤い顔や緊張した声のうわずりに、私ももしかして告白されるかもしれないとは思った。
でも光太からその話題を振られるとは思わなかった。
まさか町田くんの告白を阻止するために嘘をついて会話に入ってきたの?
それこそ『まさか』である。
期待を殺すように私は出来る限りの冷たい声を出した。
「……別に、あなたには関係のないことでしょう?」
正直、私は今……町田くんのことなんてどうでもよくなっている。
視線を反らして、興味のない振り。
だけど、単純に相手との物理的に近い距離に心臓が早くなっている。
彼のシトラスの香りを風が届けてくれる。
久々に光太の存在を肌で感じることが出来ることに私の意思とは関係なく勝手に胸が奮えている。
光太の顔を真っすぐに見ることができず、なんとも言えないこの空気を光太の着崩しているシャツのボタンを見つめることで時間を稼いだ。
「へー。まぁ、確かに俺には関係ないけどよ」
私の必死の抑えを彼が知るはずもなく、私の精一杯の冷たい言い返しもあっさりと笑って返された。
「じゃあ、あんたは誰かに告白されても、受け取ることが出来んのかよ?」
「……?どういう意味?」
本気で言っている意味がわからず、見上げると逆光で眩しい光太の笑いがあった。
片方の口角だけを上げた、意地の悪い笑顔。
「あんた、俺のこと忘れられんの?」
光太の言葉にカッと身体が熱くなった。
何かを言いたいのに私の声は言葉にならなかった。
腹が立ったとか、恥ずかしいとか、自分でも明確に表せない色んな感情が入り乱れて、自分で自分をコントロールできず、ただ唇を震わせただけだった。
「なんだよ、言いたいことあるんなら何か言い返せば?」
ポケットに手を突っ込み、斜に構えた光太に見下ろされる。
何もかも見透かされているようなその瞳が……綺麗で、魅力的で、……恐い。
ただ体内の血が沸騰し出したかのようにただ熱い。
心臓がうるさく鳴り続けている。
私は精一杯、声をふりしぼった。
「変なこと……言わないで!!」
「……」
「忘れられるのかって……自惚れないでよ!!」
「……」
「私は別にあなたのこと……そんなんじゃない。なんとも思ってないから!でも……忘れられないでしょうね!!そりゃあある意味。もう色んな意味で!!」
「……それは___」
先程からの嘲笑をやめて、光太は真顔になった。
「俺を憎んで……って意味か?」
突然、真顔でそういう風に聞かれたことに、言葉を詰まらせた。
そう思われるのは仕方ないこと?
当然のこと?
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