赤の台頭 〜最強令嬢が国を追い出されたら〜

七沢ななせ

空中からの救命

 昼間は、煮え湯の中に放り込まれたかと錯覚するほどの灼熱だったくせに、日が沈んで星が輝く時間帯になると信じられないほど冷え込む。旅人は、毛布にくるまりながら焚き火に手をかざした。


 アイベル王国は砂漠の国だ。西オーランド大陸のほぼ真下に位置する大国。天地創造の神が、真上から手を振り下ろしてできたと言われる深い渓谷。切り立つ山々。南側の国境は海に面した陸と海の幸に恵まれた豊かな国だ。


 旅人は世界を回っていた。国土の半分を砂に覆われた国を一目見ようと、長い間旅を続けてきた。街まではまだ遠く、今晩はここで野宿するしかない。運良く草木が茂る湿地を発見し、ようやく腰を落ち着けたときだった。


 星空が眩しい。


 旅人は毛布にくるまったまま天を仰ぎ、そっと息をついた。ちかちかと瞬く幾千万の光。今夜は月が細いから、星のか弱い光も地上に届く。


 小さな焚き火の、ぱちぱちと枝が爆ぜる音に耳を傾けているうちに、うとうとと眠りにつき始める。完全にまぶたが閉じようとした、その時だった。


 がさり、と後ろの茂みが揺れる。旅人はびくりと硬直する。音を立てないようにゆっくりと起き上がると、暗闇に沈んだ茂みを睨んだ。人のいない砂漠。何が潜んでいるかわからない。警戒を怠ったことを激しく後悔しながら荷物の中からナイフを引き寄せる。


 がさがさと音を立てながら、音の主が姿を現した。


「……ひ」


 全身の血が音を立てて下がっていく。旅人は荒い息を吐きながら、ナイフを握りしめた。いや、こんなナイフでなにができるというのだ。相手はーー魔獣だ。


 白銀の毛並みを輝かせる狼がそこにいた。体高は大人一人分の大きさはあるだろう。尋常ではない長さの牙をむき出して、金の瞳で旅人を見据えている。風狼ウィンドウルフだ。風を自在に操り、空を駆け巡るという狼。


 死ぬ。今、自分の人生は幕を下ろすのだ。


 旅人は本能的にそう思った。この魔獣に殺される。食われる。恐怖に頭が真っ白になる。死を拒むのは人間の性だ。この旅人も例外ではない。震える声が漏れる。


「い、いやだ」


 死にたくない。


「誰か」


 まだ終わりたくない。


「誰か、誰か助けてくれ」


 そんな言葉が目の前の魔獣に通じるわけもなく、風狼は爪をむき出しにした。


「嫌だ! し、死にたくない! 誰か」


 風狼のしなやかな足がたわむ。その筋肉が躍動するのが嫌にはっきりと見える。いっそこのまま気絶してしまいたい。ひたすらそう願ったが、思うようにはいかないものだ。魔獣が空中に跳ね上がるのを直視しながら、旅人は悲鳴を上げた。


「今、助けますわ!」


 刹那、明るい声が響いた。狼が攻撃を中止し、声のする方を睨む。旅人はへなへなと地面に座り込んだ。


「た、たすけて」


 呟いた声は、きちんと届いていた。空中から少女が落ちてくる。彼女のルビーを思わせる赤い瞳と一瞬視線が合わさる。ぱちん、とウインクし、少女は猫のように地面に降り立った。


「もう大丈夫ですわよ」


 不思議な少女だった。ダークレッドの髪は緩やかに波打ちながら腰のあたりで毛先が揺れている。透き通るように白い肌と、真っ赤な唇。整った顔でいきいきと輝くルビーの瞳。とんでもない美貌の少女である。

 

 黒を基調としたマレットドレス。腰の後ろから広がるティアードフリルがふわふわと揺れている。異質な点は他にもあった。華奢な腕に抱えるのは巨大な戦斧である。身長ほどもあろうかという黒い柄の先にはギラギラと危険な光を放つ刃。血を垂らしたように一筋赤のラインが入っている。石突にはハートを模ったルビー。


「わたくしの後ろに」


 地面にへたり込んでいる旅人の前に立ちはだかり、肘までの長い手袋をはめた左手を伸ばす。高い身分を連想させる言葉遣いとは裏腹に、まとっている雰囲気は熱気を帯びていた。


「これ以上のおいたはこのわたくしが許しませんわ。もう3日もあなたを探し回って、へとへとですのよ!」


 びしりと魔獣を指差し、少女は巨大な斧を担ぎ上げた。ルビーの石突がきらめきを放つ。魔獣が標的を少女に変えたのがわかった。狼が空中に飛び上がり、その勢いのままに回転する。と同時に、鋭い風の刃が繰り出され、まっすぐに少女に襲いかかった。少女は斧を引き寄せ、その巨大な刃を盾のようにして身を守った。がちんっと金属音を立ててはじかれた攻撃。


 防御の次は反撃である。少女は刃を地面に突き刺す。地面から突き上がった石突の、わずかな接地面を足場にして少女は空中に跳ね上がる。飛び上がる動作に準じて斧を引き抜き、次の動作に入ることも忘れない。目にも止まらぬ早業だった。重力をまるで無視した跳躍に、旅人はぽかんと口を開けて呆然とするしかない。


「それっ!」


 可愛らしい掛け声と同時に、少女は斧を振り下ろした。今度は斧をおもりにして、勢いをつけながら落下していく。魔獣はどうしようもできない。迫りくる刃に対抗することもできず、風狼の首が地面に落ちた。ひらりと地面に降り立った少女は、斧を愛おしそうに撫でて血を振り払う。


「怪我はありません? 立てます?」


 斧を地面に下ろすと、少女は旅人に手を差し伸べた。


「あ、ありがとう」


 声はまだ震えていたが、恐怖からの震えではない。安堵が全身を包みこんでいた。


「やっと倒せましたわ。こいつったら、街で暴れまわって大変でしたの。わたくしも民間人の前でこれを振り回すわけにもいきませんし」


 はあ、とため息を付いた少女。旅人は立ち上がりながら尋ねた。


「名前を聞いてもいいかい?」

「もちろんですわ」


 少女はにこりと笑い、さくらんぼ色の唇を曲げる。


「アレクサンドラと申しますわ。どうぞサーシャと呼んでくださいまし」

「サーシャか。本当にありがとう。君のお陰で助かったよ」

「いえ、とんでもありません」


 やはり少女は、アレクサンドラは美貌だった。旅人は何気ない口調で言う。


「君は何者なんだい? 女の子なのにこんなに強いなんて」

「わたくしは……ただのアレクサンドラですわ」


 アレクサンドラはそう言って微笑んだだけだった。


 ◯


 アレクサンドラはさりげない仕草で右手を後ろに隠す。薬指にはめられた小さな指輪を、旅人に見られたくなかった。余計な威圧感を与えてしまっては申し訳ない。なにより、ここでは「ただの」アレクサンドラでいたい。


 銀のリングに刻まれたサーバルの紋章。


 このアイベルの統治者、ライル=ペンドラゴンの一族の証であり、婚約者の証でもある。アイベルの者はだいたい褐色の肌をしているものだがアレクサンドラは違う。雪のように白い肌と赤い髪。アレクサンドラはもともと大陸の真東にあるユーリンの出だった。


 夜が更けていく。


 アレクサンドラは旅人が立ち上がるのに手を貸しながら、ここまで来るに至った道のりを思い返していた。


 

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