第20話 襲い掛かる過去

 潰れる。


 まずそんな実感が唖杭を襲い、次いで膨大な熱が、皮膚の表面ではなく内側へと流れ込んできた。血管の一本一本が焼けた鉄線にすり替わったような、逃げ場のない熱が全身を駆け巡る。


「…!?…!!!、!!!」


 悲鳴を上げることすらできない。全身の筋肉が硬直し、喉はひきつり、声帯は閉じたまま震えるだけだ。呼吸ができない。肺が膨らむ前に胸郭そのものが押し潰されていくような圧迫が走り、汗が噴き出る。


 指先が痺れ、あらゆる感覚が遠のく。しかし苦痛だけは消えない。むしろ身体の奥へ奥へと潜り込み、骨の中心にまで熱が染み込んでいくような錯覚が襲う。


 ――直接焼かれているのではない。炎に襲われる苦痛だけが体内を侵食し、壊していく。


「!!…!…!!!」


 数時間前は水に潰され、今は炎に潰され――――


 ……何故、何故、何故。何故こんな目に遭わなければならないのだろうか。

 生き永らえようと、人を蛇の餌として屠った罪? 世の中のあらゆる不幸に見て見ぬ振りをして生きてきた報い? 性悪な双子の姉の愚行を止めようとしなかった罰? それとも、それとも…。


「(…ふざけるな)」


 胸の奥で、熱とは別の何かが膨れ上がる。

 痛みも苦しさも、その瞬間だけは背景に押しやられ、どす黒い感情が浮かび上がる。


 ぶっ殺してやる。


 視界が揺れ、炎の圧力に押し潰されながらも、唖杭は男へと意識を向けようとした。


 次の瞬間、締め付けがふっと緩む。首元に絡みついていた蛇が、まるで唖杭の感情に呼応するようにビクリと震えた。


 蛇は唖杭の首から滑り落ちると、地面に触れた途端、黒い影が膨張するように形を変え始めた。細い体がうねり、裂け、伸び、空気を押しのけるように巨大化していく。


 そして蛇は大きく身をくねらせると、唖杭の全身にまとわりついていた炎へと頭をもたげ、まるで吸い上げるように黒い火を一息に呑み込んだ。炎は抵抗する間もなく蛇の体内へと引きずり込まれ、唖杭を纏っていた熱は一瞬で奪われる。


「……」


 唖杭は、先ほどまで苦しんでいたのが嘘のように静かに立ち上がった。表情は完全に無で、ただ冷え切った声だけが落ちる。


「蛇、あいつを…殺せ」


 その言葉が空気を震わせた瞬間、蛇は地を叩くように体をうねらせ、巨大な影となって男へ向き直った。唖杭の命令を理解したかのように、低く唸る気配が辺りに満ちる。


「………そうだ」


 男のその言葉と共に、蛇が動いた。

 目に見えぬ速さで男へと飛びかかり、口を開けてその全身を呑み込もうとする。

 しかし、周囲の黒い炎が壁のように立ち上がり、蛇の進路を遮るように覆いかぶさった。


 蛇は体を大きくうねらせ、まとわりつく炎を吸い込むように飲み込もうとする。

 闇と闇が混ざり合い、もはやその境界を目視することすら困難になりつつあった。


 男は蛇と炎のぶつかり合いをゆっくりと避け、唖杭の方へと歩み寄る。

 そして再び、変わらぬ声音で迫った。


「唖杭痲寧を出せ」


「…言ってるだろ。姉貴はその蛇に喰われて死んだんだ。お前も、同じ目に合わせてやる…!」


 蛇が再び男を喰らおうと、背後から襲いかかる。

 だが、これもまた黒い炎が瞬時に立ち上がり、蛇の牙を遮った。


「こちらからも再度言わせてもらう、『あの女が死ぬわけがない』。お前の中に、あの女は居る」


 瞬間、唖杭の視界が歪む。


「ぐ、次はなんだ…!」


 ふらつき、倒れ込みそうになるのを持ち応える。前を向く。そこには、そこには…


 姉、唖杭 痲寧が、唖杭の正面に立っていた。


 …え?


「そっ、あたしのダチがあの女を襲ったの。弱いよねぇお前のカノジョちゃんは。そんなことで自分でポーンって死んじゃうんだからさ、」


 ニヤニヤしながら唖杭に向かってそう言い放つ痲寧。間違いなく痲寧だ。だが、その姿は最後に見た、蛇に呑まれた時の姿ではない。幼さが残る顔に、見覚えのあるセーラー服を纏っている。


 過去の痲寧が、今俺の目の前に居る。


 …頭が痛い。こんなに頭が痛い理由はただ一つ。

 、俺が初めて好きになった女の子、架尽かつき 儚音はかねが、自宅のマンションから飛び降りて自殺したからだ。


 一月前、近隣を荒らしている不良の集団に、強姦されたらしい。散々傷つけられた上に写真を撮られ、バラまかれた。男に襲われて心が壊れて家に籠った彼女に、男である自分がかけられる言葉も無く、ただ毎日、架尽のマンションの前を訪れては、部屋がある場所を見上げて帰る日々を送っていた。


 彼女はあの時、ベランダから出てきて、飛び降りた。そして、俺の目の前ではじけて、俺は、この目で。


 今日はあの子の葬式だった。悲壮感に溢れる式だった。自分の学ランの袖が汚れるのも構わず、俺はずっと涙を拭っていた。


 泣きながら帰宅した瞬間、玄関で待ち構えていた姉貴が言ってきたのだ。架尽を襲うよう命令したのは自分だと。


「ざけんな…ざっけんなよ!!よくも、よくも儚音ちゃんを!」


 痲寧の胸倉を掴む。


「へえ、相当好きだったんだ。涙で顔が汚くなってるよ~?マジでウケるんだけど。…触んな離せ。またお前のベロズタズタに裂かれてえか」


 痲寧の冷たい声に、唖杭は反射的に手を放してしまう。体格はとっくに勝っている。取っ組み合いでこんな細い体の姉に負けるわけは無い。だが、どんなに怒りと絶望に打ちのめされても、痲寧に殴りかかることはできなかった。


「う…、うぅ…くそ、くそ!」


 項垂れて、蹲る。


 何も、守れなかった。まさか、あっちから告白してくれるなんて思わなかったから。うれしくて、嬉しくて。自分の姉がどんなに恐ろしい人物か、唖杭の幸福を許さない女が、彼女が出来た暁には相手にどんな目を合わせるか、想像できていなかった。


「キッモ」


 そんな唖杭をまるで虫けらを見るかのように見下ろした後、痲寧は玄関の扉を開けて外へと出かけて行った。


「ごめん、ごめんなさい、俺のせいで…俺のせいで…」


 辛い、苦しい。辛い。

 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――


 男の足元には、唖杭が泣きながら蹲っている。彼らの周囲には変わらず炎の闇が漂っており、先程まで唖杭が殺そうとした男は、彼のすぐ間近に立っている。しかし今、唖杭の思考はこの時間軸に無い。


「…ごめん、イグル。失敗しちゃった。この人の昔の、変な記憶だけ掘っちゃったみたい」


 鈴のような幼い声が聞こえる。男の背後から、ウサギの耳の付いた白いレインコートと白の長靴を身に着けた、三歳程の小さな幼女が現れた。フードに隠れた灰色のおかっぱ髪はきちんと整えられ、灰色の瞳には光が宿っていなかった。


「ココノ」


 ココノと呼ばれた幼女は、男…イグルを見上げる。


「難しいね、過去って…。わたしにもっと、想像力があれば、ちゃんと…」


 イグルはココノの頭を優しく撫でる。


「問題ない、一度退くとしよう。収穫はあった。この男の中に、唖杭痲寧の圧を感じた」


 イグルはココノを優しく抱き上げ、蹲り続けている唖杭に背を向ける。


「次は、ちゃんと、あいつを取り出せるようにするから」


 周辺を包んでいた闇が、炎が、少しずつ薄まり、元の山の景色を取り戻していく。


「ああ。ゆっくりでいい。お前の力は扱いがなかなか難しいだろうからな」


「でも、わたしたちには時間が無いよ」


「…そうだな」


 イグルとココノは唖杭に背を向け、山の中へと消えていった。



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