第19話 熱の渦
熱い。じりじりと刺すような熱気が車内を満たしていく。真夏の炎天下の中、営業先を何件も回り、熱中症で倒れた時の記憶がふと蘇ってきた。
しかしすぐに現実に目を向ける。フロントガラスの先に写るのは、薄暗い闇とゆらめく黒い炎に囲まれた空間と謎の大男の姿だ。
「へッ、疫病神様様だな…今まで散々蛇女の痕跡を探し続けてきて空振りばかりだったのに、てめーを引き入れた瞬間、てめーと同類みたいな化物がポンと出てきやがった」
軌場は顔の汗を袖でぬぐいながら不敵に笑みを浮かべるが、その声色には動揺と緊張が滲み出ていた。…自分たちが既に罠に囚われた鼠であることは、状況からして一目瞭然だった。
「熱い…」
唖杭の隣に座っていた十篠は目を閉じ、ぐったりとシートにもたれかかっている。
…このままじっとしているわけにはいかない。確実に、一歩一歩、死は迫ってきていた。
済屋はこちらを振り向き、十篠の様子を確認する。流石の彼女も、この状況では表情に焦りが浮かんでいた。
「十篠君、しっかりしろ。こんなことなら水を買っておくべきだったね…どうする。このまま車で無理やり外へ突っ切ってみるかい?」
「…それは」
恐らく、あまり賢い手段ではないだろう。その気になれば奴は、この黒い炎を自在に操り、車体を一瞬で飲み込むことができるはずだ。済屋自身もそれを理解している。しかし、それが今の彼女にできる精一杯の提案だった。
「(ならば…やはり…)」
やはり、自分が出るしかない。そう覚悟した瞬間、息が詰まり、胸の奥に苦しさが広がる。この息苦しさは熱のせいなのか、それとも蛇が首を締め付けているせいなのか。
「ゲホッ、ゴホッ…」
唖杭は数度咳き込む。この地獄のような空間を操っているであろう目の前の男は異様だ。そもそも話が通じる相手なのかすら分からない。…だが、先程確信したように、奴が用があるのは自分だ。薄暗い闇の中、奴は唖杭照代を待っている。
「ゲホッ…このままじゃ、どちらにせよ全員熱でやられます。自分が車から出て、あいつを何とかします」
十篠がその言葉に反応し、ぼんやりと目を開けた。
「何とかって…どうするんですか…無茶ですよ…」
ろれつの回らない口調で弱々しく言葉を発する彼女を見て、やはり悠長にしている時間はないと悟る。
「大丈夫です」
安心させるようにそう一言述べ、唖杭は前の座席に座る軌場と済屋へ向き直った。
「外に出ます。ここをよろしくお願いします」
軌場は汗を拭いながら、少し考える素振りを見せる。
「済屋さん、あいつが俺たちの仇なら俺も…」
「駄目だ」
済屋はぴしゃりと軌場の言葉を遮った。
「見て分からないのかい。唖杭君ならまだ何とかなるかもしれない。しかし、ただの人間である私たちが太刀打ちできるような相手じゃない」
「……クソ」
軌場は大人しく引き下がり、そして唖杭を睨みつけた。
「テメエ、ただでは死ぬんじゃねえぞ」
「…善処します」
唖杭はドアノブに手を掛け、そのまま扉を素早く開けて勢いよく飛び出した。
「頼むよ」
済屋の祈るような静かな声が、最後に車内から聞こえてきた。
外も車内と同様、重い熱気に包まれていた。対面した男は、微動だにしない。
額から汗が流れ落ちて目に入り、視界がぼやける。片手で目を拭おうとした瞬間、駆けるように背中を一層強い熱気が突き抜けた。
「あっづ!?」
体が反射的に飛び跳ね、後ろを振り返る。すると、先程まですぐ後ろにあったはずの済屋の車が消えていた。その代わりに漆黒の炎の揺らめきが唖杭の背後を覆っているのだ。
「み、皆…!」
咄嗟に炎の闇をかき分けて車のあった方向へ駆けようとするも、片手が揺らめきに触れた瞬間、その指先が焼け、強烈な熱さと痛みが走るのは当然の事だった。
「があああああああああ!?」
唖杭はその場に倒れ、炎に触れた片手を押さえる。文字通り焼ける痛みが彼を襲い、そして焦燥感に支配される。車は炎に呑み込まれてしまったのか…?自分の無計画ぶりに絶望する。
「ゲホッ、ゴホッ、ゲホッ」
熱い、熱い…苦しい…。息が詰まる。首が締め付けられる。
「何だ、その醜態は」
蹲り咳をする唖杭を見下ろしながら、男はようやく口を開いた。低く、冷たく、無機質で、抑揚の無い声だ。
「!」
唖杭は男の方へ向き直り、ヨロヨロと立ち上がった。
「みんな、は…」
蛇に締め付けられている上、カラカラの喉から声を絞り出す。
「案ずるな、他の奴らは車ごと外へ出した。用があるのはお前だけだからな」
「…俺にどうしろと」
「唖杭痲寧を出せ」
予想はできていたが、やはり姉の関係者だった。もしやその全身の火傷は姉の仕業か?だが、痲寧を出せと言われてもどうしようもない。
「姉貴は…だいぶ前に唖杭痲寧は死んでんだよ…ゲホッ、こいつに食われた」
唖杭が自身の首元を締め付けている蛇を指差すと、男はゆっくりサングラスを外した。濁り、充血した鳶色の目がこちらを捉える。
「どういうことだ」
「どうって…言葉の通りだよ。俺にこの蛇を押し付けて自ら食われたんだよ、俺の姉貴は」
「あの女が死ぬわけがない。嘘をつくな」
「嘘なんか……つくかよッ、俺だって…好きでこんな目に……!」
言い終える前に、男が一歩近づいた。 足取りは重く、地面を踏むたびに黒い揺らめきがわずかに波打つ。 熱で頭が朦朧とし、逃げる気力も立ち向かう気力もない。しかし、唖杭はどうにか踏みこたえようとする。
「唖杭痲寧は生きている。あの女は死なない。死ねない。お前が知らないだけだ。それとも知らないふりをしてるだけか?」
「知らないって……何を……」
唖杭が必死に喉を鳴らし、問いかけようと口を開いたその瞬間だった。
「――ああ。だからそんなに”歪”なのか」
男がぽつりと呟いた。 唖杭は息を呑む。 何が“歪”なのか。自分か、蛇か、姉か…
男はゆっくりと片手を上げた。
「ならば、理解しろ。思い出せ」
その言葉と同時に、空気が変わった。 周囲を覆っていた漆黒の炎が、まるで呼応するようにざわりと揺れ、二人を中心に渦を巻き始める。
熱が押し寄せる。 蛇の締め付けとは別の圧力が、肌の表面をじわじわと押し潰すように迫ってくる。
「な…」
言葉を待たず、その炎の渦は唖杭の全身を呑み込んだ。
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