泥の女
伊吹
泥の女
来年には高等学校を卒業するので父に5人の女と見合わされた。私はどれも気乗りしなかった。家にいると家中の者がアレコレとうるさいので、自転車に乗って当てもなく漕いだ。小さい村なので小一時間も漕げば一回りできた。私はすぐに退屈になり、出来心で行くなと言われていた村の下流へ続く小道に行った。下流が見えてきたところで引き返すつもりだった。
週に一度、下流から上流へハッパを運ぶトラックが行き来する以外には殆ど交流はない。森に無理やり分け入っただけの道は大して整備もされておらず進むにつれて凹凸が大きくなった。私は道半分もいかない所で派手に転倒し、森の中の大きな窪みに自転車もろとも落下した。
暗転
目が覚めたら見知らぬ場所にいた。真っ暗であったが目を凝らすと木でできた埃だらけの物置のような場所であることがわかった。私の体には薄汚い毛布のようなものが乗っかっていた。あたりには誰もいなかった。扉がふたつあり、ひとつの扉から物音が聞こえたのでそっと開けると、枯れ枝のような人が目をつぶり布団の中でじっとしていた。呼びかけると薄眼を開けて私を見たがそれだけだった。
もう一つの扉の向こうから光が差し込んでいた。それを開けるとそこには金色の花畑が広がり、薄い靄のような匂いが私の鼻腔をくすぐった。私はこの匂いを知っていた。外はすでに夜だったが花弁が光を放っていたので明るかった。花畑の中に長い髪の裸足の女がいた。自分と同じくらいのサイズのシャベルをかかげ、慣れた動きで足元の泥をすくっていた。女は泥だらけだった。
女は振り返ると声にも出さずに「帰れ」とだけ言った。指差した先には私の自転車があった。私はわけも分からず頷き、黙って自転車に跨った。しかし壊れていたので勢い余って転倒した。女の方を見たが、女はもう私を見ることもせず、せっせとシャベルで泥をすくってねこ車でどこかに運んでいた。私は自転車を引き摺って帰った。「もうここには来るな」と言われた気がした。夢うつつの出来事だった。家に着く頃にはすっかり朝だった。
父に6人目の女と見合わされた。今度のは大層な美人であったが私はやはり気が進まなかった。私は性懲りもなく自転車に乗って下流へと向かった。充分気をつけていたので今度は転倒せずに済んだ。下流の村は畑だらけだった。畑と、物置のような家々がその隙間に立っていた。昼だからか花は咲いておらず、靄のようなものもなかった。男も女も関係なく、畑の中で鎌を持って手首ほどの太さのある茎を刈っていた。
私を見つけると不審な顔をして「誰だ」と言った。「私は×××××の者ですよ」と言うとバツの悪そうな顔で押し黙った。×××××は下流から大量にハッパを買ってそれを医薬品にして村の外に売っていた。下流が原材料を作り、上流がそれを加工して売る。この辺りの土地のほとんどをいずれは私が相続することになっていた。
下流の村はどこも似たような景色が続いていたが、村の端っこまでくるとそこに巨大な泥の池があったので、ここがこの間の場所なのだと分かった。小さな家があったので呼びかけたが誰も出てこなかった。しばらく家の周りをぐるぐるしていた。側には泥でできた巨大な池があった。
突然家の中からけたたましい笑い声が聞こえた。かと思えば怒声に変わり、最後には動物のような鳴き声に変わった。扉からそっと覗くと、昨日の老婆が起き上り着物に染み付いた泥を食っていた。その奥では泥の女が死体のように転がっていた。
よく見ると老婆の足首には鎖がかけられていた。昨日は気がつかなかったが身体中に赤黒い斑点が散っていた。老婆は陶酔したように身体を前後に揺らして「土曜の夕方にはシラスが来るのよ」と誰にともなく言った。それを見て私は老婆が狂っていることが分かった。私の家にも狂人がいた。彼はかつては私の兄だった。
ハッパと呼ばれる黄金の花は夜に花を開きその花弁一枚で虎を殺すこともできる。そのため誰も近づきたがらなかったが、それを乾燥させ粉末にし水で薄めて飲むとあらゆる痛みを和らげた。不作の年に村の外にそれを売ったら金になったため、私の父は畑で野菜の代わりにハッパの栽培を始めた。土地を買い占め、小作人を雇い、村の外からも人を連れて来て、やがて自分は村の上流に移り主にハッパの加工工場に従事した。
母は七回妊娠し七回死産した。八回目に私の兄が生まれたが生まれつき肺を患っていた。九回目に私を産んで母は死んだが、その時にはもう母の気は狂っていたということだった。ハッパの気が、父の畑仕事を手伝い続けた母には合わなかったのだろうということだった。兄は昼夜伏せっていたが次第に身体中に斑点が散り始め幻覚と幻聴に悩まされるようになった。兄の体からはいつも甘い花の匂いがした。父は兄を地下牢に閉じ込め、私に下流にも工場にも兄にも絶対に近づくなと言った。父はどんなに酷い怪我を負っても自分の工場で作った鎮痛剤は絶対に使わなかった。
泥の女に会うことができなかったため、私は今度は夜に下流にある泥の池へ向かった。下流へ続く小道は真っ暗であったが、下流では花が満開になっていたため明るかった。三度目なので迷わず行くことができた。その日も女が畑に溜まる泥をショベルですくってねこ車で運んでいた。私に気がついたが、それだけだった。
私が「この間のお礼がしたいんだ」と言うと、女は「そんなのいらない」と振り向きもせず答えた。「手伝うよ」と言って、私はシャベルを持とうとした。女は「触らないほうがいい」と言って、訝しげに私を見た。「お前、知らないの? ハッパは夜に花を開いて蜜を出す。これに触れ続けるといずれ気が狂って死ぬ」私はゾッとして差し出そうとした手をひっこめた。女は黙ってねこ車を押す作業に戻った。私は女についていった。
私は「なぜ、君だけがこの作業を?」と聞いた。女は振り向かずに答えた。「家には畑がない。身寄りもない。×××××は女を雇ってくれない。だから誰もやりたがらないことをやって食べ物を分けてもらう」女はそう言ってねこ車から池へと泥を落とした。夜の泥の池は深い穴のように暗かった。
私は思わず「かわいそうに」と呟いていた。「先日のお礼に、×××××で君を雇ってもらえるようにするよ。私はあの工場の倅だからね」泥の女は少し驚いたように私を振り向くと、突然あっはっはと大笑いした。私が呆然としていると、女はひとしきり笑った後に「お前はもう帰れ。邪魔だ」とだけ言った。もう笑っていなかった。
その後私は夜中に何度も下流に向かった。私は意地になって泥の女を×××××の工員にしようとしていた。女の態度は常につれなかったが、食事を持って行くと素直に喜んだ。いつも少しだけ食べて「あとは、お母さんの分」と言って残した。女が笑ったのを見たのは、後にも先にもあの時だけだった。
その日の女は夜の畑で泥をすくっていなかった。家の中で呆然と座り込んでいた。目の前には痩せこけた老婆が転がっていた。死んでいたのだった。
埋葬はどうするのかと聞くと、泥の池に沈めると言うので、私はせめて土葬してやりたいと、家のそばに穴を掘った。人一人埋葬できる深さにするために一晩かかった。気がつくと辺りは朝靄に包まれていた。私は家の中に戻って、布を濡らして老婆の身体を拭いた。着物の襟を正してやっている時に、痩せた首筋が朝日に照らされた。首の周りに青黒く締め付けられた跡があった。泥の女を振り返ると、放心していた。
私たち二人は老婆の死体を抱えて外を出て、埋葬した。もう既に朝だったが、花はまだ咲いており、辺り一面に甘い匂いが漂っていた。泥の女は泣くこともしなかった。
「私と結婚しましょう。そしてこの村を出ましょう」と私は女に言った。女は返事の代わりに語り出した。「この村の人間は皆次第に気が狂い最期には十月十日苦しみ抜いて死ぬ。自分の畑のない私は皆がやりたがらないことをやって生きてきた。毎日朝が来るまでに地面に落ちた花の蜜を掬って池に運び、気が狂って苦しむ人間を殺すのが私の仕事だった」
女は急に顔を上げて、両手で私の首を絞め畑に押し倒した。むせ返るような毒の花の匂いが充満した。「私は自分の母親すらこうやって殺した。お前を殺すことくらいなんでもないぞ」泥の女は私の首をギリギリと締め付けた。「お前にこの哀れがわかるか」私は錯乱し、泥の女を力ずくで跳ね除け、無我夢中でその場から逃げた。
私が下流に行くことはもうなかった。私は高等学校を卒業した後、見合いをした中で一番美しかった6人目の女と結婚し、3人の子供を産んだ。私の子供達は皆健康だった。4年前、これまでの鎮痛剤だけでなく、ハッパを甘味飲料水に入れて販売したのが爆発的に売れ、事業は著しく拡大した。それに伴い、今から5年以内に、主要なハッパ畑と加工工場をもっと大きな土地に移転するつもりだ。下流はもともと小さな土地であり、無理やり大量のハッパを作らせたせいで枯渇し、良質なハッパが採れなくなっていた。また、ハッパが一般的に利用されるようになってから、依存性と毒性が問題視され、工場内の安全性にも厳しい基準が設けられることになっていた。
下流から乾燥させたハッパを運んできたトラックの運転手によると、泥の女は母親が死んだ後、毒の花をのんで死んだと言うことだった。彼女がどこに埋葬されたのか、私は聞かなかった。
泥の女 伊吹 @mori_ibuki
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