大問題児

宮島織風

大問題児

 問い続けたい、正義とは何かと。閉鎖された学校という空間に、それは存在しうるのかと。


 ある日、ある友人に私の過去を話した。

 私は彼をして「私の知ってる存命の人物で一番面白い人生送ってる、貴方からしたらたまったものではないでしょうけど。」と言われた。


 私の名前は嶋津タダシ。

 貴方には半生を振り返った文書を読み、理解してほしい。しかし敢えて言わせてもらうと、貴方が侮辱を広める様な人間でない事を願う。


 曲がったことが嫌い、ふざけるな。誠実で生きていたい、平和に生きていたい。自分の考えは、その4つであった。

 その日その友人に「ムスリムであれど同性愛者である」と打ち明ける程の覚悟で言った。しかし、返ってきたのが先述の面白い人生発言だった。


 思えば、相手の価値観を否定してきた人生だった。だけど、相手が己の価値観を否定してくるからこそ、同じリスクを背負う必要があると思う。

 みな、それを理解してくれない。理解していたら、言葉の刃物の応酬から実力行使に至った私を肯定したはずだ。だから、今の私は当時の私を封印する。これは、未来へ残す警告であり呪縛だ。

 なるべく信頼している人にしか明かしたくない秘密であるが、学校という閉鎖空間が齎す人権侵害の応酬を理解してほしい。


 鹿児島から千葉に引っ越してきた6歳の日、その日自体は天気も晴れて薄霞。新しい家の近くに父の友人とその家族がいた。父の友人は他にも、鹿児島や大湊にもいた。

 鹿児島の友人の娘二人に、カチューシャやリボンをつけられて弄ばれたことはあった。それはいい、千葉の友人とは共に釜飯を食った仲で比較的勤勉なエリートだった様に思う。偶々高尾山に登った際一緒になり、高尾山に一緒に登ったことも覚えている。


 入学式は最低の雨だった。その中でも、近隣のマンションに住む友人が新たに出来た。私は鹿児島ではピアノを習っていたが、半年で辞めてしまった。そもそも、精神が5歳児にしては幼かった。

 私はサッカーと空手にはまり、左右も分からぬままに近場のグループに入った。しかし地縁的な繋がりが既にあるグループであり、私は不文律もわからない故に失態を犯した。


 結果、彼らに“おちょくり”という名の侮辱を喰らい続けた。故に、勝てるわけもないのに口論や暴行の応酬を始めた。

 小学生の喧嘩といえど、それは難しいもので手を取り合ってハイ仲直りは出来ないのだ。それをその場の協定としても、どちらかの気分ですぐに反故にされる。

 すぐに、私がワンショットライターの様に怒り猛り狂い、殴りかかってくる為にサッカークラブの彼らは一撃離脱作戦を成功させ続けてしまった。


 されども同胞の情はあり、彼らとグループを共にした者の引っ越しを私は涙で送ったのを覚えている。決して、喧嘩をしたい為にこの様な事をしている訳ではないのだ。

 本当は、互いに争わない事がベストなのだ。されど火種は常に彼らが持ってきた。私不文律を理解しないから、表向きはそうだ。だが真意としては“余所者”が気に食わなかったとしか言いようがない。そうでなければ、説明できない。


 私を担当した教員は、大抵が栄転か教頭職・学級主任職になった。それ程までに対応が難しい、歩く核地雷だったと言っていいかもしれない。

 気に食わない言葉を放った瞬間、地の果てまで追ってくる。それが彼らの私への認識で、顔を見ると即座にその時の“憎しみ”が込み上げて再び暴走するのを半ば暴力で押さえつける他なかったのだろう。

 教員も手を焼いた。「富塚君がおちょくってくる」という通報しか、語彙力のない私にはできなかった。その福夫君は私が大学生の今、消防士になろうと励んでいるという。


 だが、そんな正義感溢れる人間とは思えなかった。私が余所者である事を抜きにしろ、他人の尊厳を踏み躙る。好きでやろうとしてる事を妨害する。

 否、それは互いにの事だろうか。私がサッカーのルールを理解すれば、オウンゴールをしなくて済んだ。オウンゴール事件が目の敵にされるきっかけか。されど、私の母と富塚の母は仲良く富塚家が経営している蕎麦屋には大学生になった私も時折行っている。

 小学三年の頃には小康状態になったものの、その様な「ちょっかいを掛ければ怒ってくる奴がいる」という事は、この学校の共通認識だったとの事だ。


 故に、私を怒らせない緩衝材として生贄が齎された。静かな子であれど、丸岡氏などの諸氏今思えば可哀想だった。

 三年生に入り、私はサッカーも空手も辞めて英語教室に入った。何故なら馬鹿にしてくる奴らに実力でも何でも勝てないと思ったからだ。

 学力でも、小学校以来の仲良しだった福夫君(弟は身体障害を有している)などにはどうしても勝てないし、実の所キックボードで公園に走っていたら福夫や富塚らに助けられた事もあった。

 膝を擦りむく大怪我をした者を助けるだけの、人情はあったのだろうか。その希望はすぐに踏み躙られる。富塚は、その翌日にはやはりいつも通りボールをぶつけてきたりした。


 先生は何をしたか。私は何をしたか。私は常に、その様な嫌がらせを受けたとしても私の方が加害者として怒鳴られるのだ。

 先生は、相手の言葉の暴力を知らず、ただ私が肉体への暴力を振るった事を詰問する。小学校では、一階以外の別の階に行ってはならないという禁忌を破り、先輩に当たる連中でさえも私の事を「タコクチビル」やら何やらと言って侮辱してくるのだ。

 ワンショットライターここに極まれり、捕まれば殴られると分かっているのか、私がすぐに教員を呼んだとしてそこにはもう居ないのだ。いたちごっことしか言いようがない。


 女子でさえも、私の事を嫌った。当然だろう。歩く核地雷には触れたくないし、そんなのが横にいては生きた心地がしない。

 同じ英会話に通っていた女子は、同じクラスなものの、やはり私の事を“タコクチビル”だの何だのと馬鹿にした。当然殴った。


 あと、ユーモアを許容できなかった。私の最大の問題点はそこだろう。確かに相手を侮辱し笑う事は許されてはならないし、侮辱してないにしろ苦労している相手を面白おかしく見るのも言語道断だろう。

 精神安定の薬を飲んでいたし、耳栓をしたりして富塚らの言葉を受け付けないとしたが、何という事か態々耳栓を外して“キショイ”とか言ってきたのだ。

 尚且つ、耳栓をした後耳が聞こえるかの確認のために指を擦り合わせることを面白おかしく私の前でジェスチャーしているのだ。必ず彼を除かねばならない、幾度もそう思っては教員からの制裁を被った。


 医者や親は、当初気が立っているのは耳が良すぎて悪口がよく聞こえるからだと思っていたが、まさかこんな環境に「気にしたら負け」とか言わないだろう。いや、言ったのだ。

 徹底的な制裁を持って戒めるべき相手を、教員は常に誤っていた。


 私のフラストレーションは一向に改善されず、私がさもキリスト教に於けるゲヘナ(地獄)の住民であるが様に邪険に扱った。「また貴方がやったんでしょう」と大抵の事は当方が悪いとさえも、言われる程に。

 そう言われたら、そうなってしまうのがラベリング理論だ。現に、私は私に対して直接悪口を言ったものが制裁を受けずに壁を破壊したり窓硝子を蹴破ってしまったのだ。


 これらを一周回って冷静し俯瞰してみれば私の無理解と愚かな餓鬼の扇動が原因であったかの様に見えるこれは、半分が間違っており、どの様に接していいか分からなかったともとれる。

 だが、明らかにキショイやらタコクチビルは閾値を超える名誉毀損と言っていい。戦争で言えば、侵攻してきた敵陸軍に砲撃を加えてるに過ぎないはずだ。


 正直な所、ボイスレコーダーの所持を、購入を親が認めてくれればこれら“いじめ”と評される“人権侵害”や“暴行”、“名誉毀損”は防げた筈だ。

 されど親の資金的にも、学校体制側も許す事はなかった。確かに、私の協調性のなさが生んだ不和かもしれない。されども、明確に名誉が毀損されている為に暴行に及んだという事実のみで語られて、彼らの精神的蛮行は正されないままだ。


 親もまた、私に対して苛立っていたのかもしれない。私が約束を破り、ゲームを封印して勉強漬けにさせたり「無くすから買ってあげない」と高額な電子機器を与えなかった。

 確かに私は赤子の頃から注意欠陥多動性障害とアスペルガー障害を持つことを診断されたが、それが故に躾けたのかもしれないが、精神的苦痛を与える事が躾と言えるのか。


 確かに感謝はしているが、暴力を以って相手の非道を明るみにする試みは全て失敗に終わった。人生の全てでだ。

 当然だろう、それを示す為に痛みを与えようとしたのか。私の親は。


 どんどんと、私と他の溝が深まり学校にも行きたくなくなった。されども、惰性で行った。


 だが、そんな時国語と算数だけでなく、理科と社会が教科として入った。私はそれに魅了されていき、それらでは深い知見を後々に得る事になる。


 自然教室では、同じ余所者である北海道から来た先生が児童を騙していると誰かが噂した為に私がそれを真に受けて殴り込んでしまった。その先生には、その後浄水場などでも行動を共にするがここで謝罪しておく。

 そして5.6年生で担当を受け持った2人の先生方はどうやら結婚した様だ。


 英語に関しては、同じ名前の存在を拒む私の心理で抵抗があってそれで英会話教室で不和を起こしたものの、先生が私を丸め込ませた。

 されど、最終的に英会話教室に行く事は無くなった。そもそも宿題が増加して、それの対応と精神的な余裕を奪う餓鬼どものフラストレーション発散道具として扱われ続ける他なかった。

 弁論の術も、一芸特化もない私に学校では人権なんて無かった。

 そんな世界で、人権作文とかイカれてるとしか言いようがない。先ずは嫌がらせを行なっている奴を殴ってから、人権作文を書いて頂くか暴言や陰口の徹底的指導を行なってからコンクールをして頂きたい。


 父親との不和もまた、精神的苦痛を加速させた。最初にこれが顕在化したのは、私がフィクションを許容出来ない人間だった事だろうか。

 例えば声優が同じ、名前が同じだったりした場合、何故かそれを避けてしまう。今はそれがほぼ完治したが、何故そうなったのだろうか。

 少なくとも、フィクションを許容する事ができたのは中学生からだった。それまでは、グロテスクなものは避けてきた。本能的なものだったが、それはあくまで幼稚な精神的回避行動だった。

 だが、リアルでグロテスクな現場には幾度か立ち会った。


 いつしか、私と父の間にはコミュニケーションツールが無くなっており、私の生活規律の指摘のみしかなかった。単身赴任するか、私の事を執拗に責め立てるかしかなかった。

 旅行には連れて行ってもらえたが、それだけで償えるものでもなかったし、罪の意識も無いだろう。漸く、暴力や大切なものを取り上げる事は私の精神的不調をきたす事を母から説得されて理解したというが、今も本当とは思えない。


 話を戻し、小学生の間に通級といわれる精神的コントロールを教える場所に通ったものの、そこしか自分が自分のままで入れる環境は無かった。

 中学校に入り、アスペルガーとADHDの精神疾患から私は支援級に入った。先生が監視している間は手が出せなくなったかと思ったら、その先生が常に圧力を放っている様な人間だった。

 そこでは私は私らしく生きることは出来なかったし、上記父親との確執などで家にもセーフティゾーンなんて無かった。


 そして、支援級だからと奇怪な目で見られるし、その様な差別心は存外わかるものだ。富塚の様な奴が、他にもいた。

 仮に石出とする。石出は、より直接的に私の事を馬鹿にしてきた。態々ついてきて「OOするの“たのちいね”」とか、私がまるで幼児であるかの如く接してきた。

 屈辱だった。許せなかった。破壊したかった。その様に他人を、あくまで人格のある者の人格を侵害する様な言動はあってはならない。正当化と見られるだろうが、その様にして私は傘に鋏を括り付けた即席の槍を作りそいつを脅そうとした。

 しかしその試みもまた、例の支援級の担当教員の屈強なオバサンに制圧された。


……


 そんな中でも、私は一つの希望を見出していた。それは、大学に行く事だ。


 大学では、クラスに縛られずに人付き合いができる筈だ。私はそう言い、勉強に向かうようになった。支援級からも抜け出して、親と共に奔走して何とか推薦を受けるべく3年に通常学級に戻った。

 しかし、やはり災難は追ってくる。私の性格が変わらない限りか、はたまた閉塞した環境が彼らの傲慢を高めたのか。やはり、私の事を見下している。

 そしてすぐに下ネタに走る。恥を知らないのか。いや恥を知れ。私はそれが苦手なので、先ずその流れに乗ることが出来ずにまた陰湿な下ネタによる波状攻撃を被る事になった。

 仮に須藤とするが、言葉での暴力の中でも陰湿な“煽り”と称されるインターネット上でも有名な掲示板を作った者に似た言動をするものと修学旅行で組まされた。

 更に最悪なのが、富塚と同じ大部屋だった事だ。彼の枕投げに巻き込まれ、私だけに何故か集中砲火されて転び、それでもなお集中砲火して私を直接殴ってくる始末であった。


 これを書いている中でも苛立ってきて、その母と子に対して今すぐの謝罪を求めようかと思えてきたが、もうお互い大人だろうし水に流そうと思う。


 須藤に関しては、受験が近くなるに連れて私に対して嫌がらせをしなくなった。他人の事を執拗に名誉毀損してばかりならば、それは成績も下がる。変な語彙ばかり学ばずに、学問をしない者の果てを見た気がする。


 そうして、私が入りたかった大学の附属高校に入ることができたものの、そこも又下ネタに塗れた地獄だった。

 校舎は綺麗であるが、虚飾と言ってよかったかもしれない。アカの手先の物理教師が、中学よりも鮮明に非常勤として入っていたのだから。そいつの授業は、とにかく分かり辛かった。


 折から歴史が好きだった。

 日本史も好きだけど、私が懐いたのは世界史の先生だった。話が面白く、わかりやすい。そして私と一緒に歴史のことを語ってくれた。地理・生物・日本史・世界史では高得点を取ることができた。


 されとて流れで学級委員長をやる羽目になったのだが、私は早速ハイキングがありそこで写真係を務めた。そこで下りは滅茶苦茶なスピードで降りてきたのを皆に驚かれた。

 しかしそこからグループチャットに流す術を知らず、帰ってきてから写真を整理して投稿しようとしたら上手くいかず、カメラに映る写真をスマホで撮って送る羽目になった。


 岩瀬がまたこいつ下ネタのオンパレードみたいな野郎で煩わしくて仕方なかった。されども、下ネタで彼は私とも仲良くなろうとしてくれた。その心意気は買いたい。

 だが、私の事を後ろから襲い腰を振った事は万死に値する。暫く動けず、腰に力が入らなかったし酸欠した。以降、かねてから苦手だった体育の時間が怖くなったではないか。衆道は薩摩ではかつて人気であったが、今時流行らんぞ。


 ともあれ軌道に乗った様に思えたが、こちらはどうにか学級委員としての勤めを果たそうとした。校則で登下校時スマホ禁止とあった為に、粛々と報告したりしていたが、私は単語帳や教科書を持っていたのに「お前もスマホ弄ってたじゃないか」と言ってきた。

 流石に時代錯誤の校則の方が悪かったか。しかし私はそれ故に、周囲から孤立した様に思える。単語帳を盗まれた為に、私は単語帳を奪い返すついでにそいつの単語帳までも盗み返してやった。


 それ以降、そのグループと私とで対立が起きて後期の学級委員である野球部の次期エースと岩瀬が取り持とうとしてくれたが、私と単語帳を隠した…戸谷とのグループの複数対一の抗争に入ってしまった。

 それゆえか、学園祭でプラネタリウムをやろうとした時、予定を聞く為にメッセージを打ったが


「既読スルー」

「既読スルー」

「既読スルー」

「既読スルー」

「既読スルー」

「既読スルー」

「既読スルー」


 と、集団で私の質問に対して皆が「既読スルー」を連投する流れができてしまい、翌朝戸谷を問い詰めたら「そういう流れだったじゃん」と言い訳をした。

 正直な所、二日目は体調不良も相俟って撤収を前にして保健室で寝込んでしまった。


 以降、保健室に行くことが多くなり、単位も少し足りなくなりそうになった。尚、これを書いている時も単位が少し足りないかもと言われて焦って、よりストレスが溜まっている状態であったりする。


 そして、温水プールが冬季にあった為にそれに入ってる時に男性の大切な部分を握られたりとセクハラをかまされるなどした。

 その様な対立構造はそのままに、コロナ禍に入ってしまう。


 コロナ禍では、精神的に安定して生活ができた。何故ならストレス源は父親しかいないし、その父親も単身赴任していたからである。


 だが、5月半ば辺りに登校が再開された。あの地獄に戻るのは嫌だった。今度は、私の出身中学の坊主…緒方が私に対して通りすがりに悪口を吐くという、陰湿な手段で嫌がらせを講じてきた。

 やはり、ボイスレコーダーと監視カメラによる監視の徹底こそがいじめをなくす事になるのでは無いかと思う。少なくとも自衛として誰でもボイスレコーダーを持っておくべきだろう。


 そいつはまだ些細な方で、問題は美術授業での組まされた3人…制服を着崩すチンピラ連中に放り込まれてしまった。

 そしてそいつが地味に油絵や粘土細工が得意であり、私の事を常に見下してきて、尚且つデリカシーの無い発言を何度もかましてきたのだ。

 それで「イラストならお前らなんかに」と言った事が、事態を悪化させた。イラストを売っているとか、何円稼いだとか、色々と憶測で物事を言ってきて、イラスト部と合唱部を兼業していた私は流石に頭にきた。


 とうとうピークに達したのが世界史で90点以上の高得点を叩き出したのに、それに対して「俺の方が高いぞ96点だ、お前雑魚」とか人の努力を嘲笑するが如く発言であり、私は殴り押し飛ばし、彫刻刀でヤキ入れようとした。

 そこで美術教員が制裁をして、ヤキ入れる事は出来ず、あえなく私は自主退学・転校の憂き目に遭った。


 ここまで言葉の暴力で踏み躙られた尊厳に対して抵抗を示してきたが、それが武力行使であったが故に辛酸を舐め続けてきたのだ。


 転校先は割と良かったが、陰謀論を信じる奴が同じ大学を目指す仲間となってしまった。しかし彼を何とか目を覚まさせようとしたが、相手も私の“目を覚まさせようと”していた為に私は相手を受容しつつも、それは違うと内心で言って、何とか元の道に戻そうとした。

 テスラ缶やら、メドベットやら、かつての支配者がタルタロスやら、私は気が狂いそうになった。されども、その興味を別の方向に逸らそうとしたが無理だった。


 とうとう、公募推薦でかねねから行きたかった大学に合格する事ができた。しかし、陰謀論者君は公募推薦でも本入試でも落ちてしまった。以降、私は縁を切った。救えぬ者と、見放してしまった。


……


 大学の入学式、とうとう人生の目標にしていた一つのポイントに辿り着く事ができた。そこで、横に並んだ者が…私にとってはじめてのリアルに於ける趣味仲間で最も信頼している友人と言える者だった。

 その後も、大学で学友を作る事ができた。教職課程は苦難の道だったけど、頑張った。ここまで生きてきた甲斐はどうやらあった様だ。


 だけど、物語も人生も、上手くできているのだなと実感する。


 結局、大学に行ったとしても大問題児である事には変わらず、親切心が手段を誤った行動に走りサークル追放の憂き目にあったし、同時に一度は自殺を止めてくれた友人とも喧嘩をしてしまった。今は和解したつもりだけども、少し話しかけ辛い。


 自殺未遂要因は、またしも学園祭にあった。所属サークルの首長の許可を取らずして私的に交流のある先輩の役に立とうとそちらの誘導をしたり、国際交流サークルであるその先輩と共に日本の大学の学園祭の中を周りその一部である所属サークルに無断で活動に巻き込んでしまった事にあった。


 そこで、自殺を引き止めてくれた友人には感謝しかない。自殺を引き止めなかった友人に関しても、衝突もなく最も信頼しており教職課程や歴史に関する意見交流で楽しい時間を過ごさせて頂いている。

 良くも悪くも、他人の意見や主義を容認する様な人間だなと思った次第である。


 そして過去を、その最も信頼できる友人に打ち明かすと「私の知ってる存命の人物で一番面白い人生送ってる、貴方からしたらたまったものではないでしょうけど。」と言われた。

 以降彼からも、奇怪な目で見られるとなると私は耐えることができないかも知らない。










































次のページは、血がにじんでいて読めない。

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