秋と夢、ついでに郷愁
YAHAI
第1話
青い空が見える。秋の斜陽に包まれて紅や黄金に染まった木々の奥に、じんわりと広がっている暖かい色の青い空。どこまでも広がっているその空は、決してこの手と触れ合わない。それが哀しくて、同時にとても悲しかったから私は足を踏み出した。木々を抜ければ、向かい続ければいつかは届くと信じて踏み出した。足元にのみ敷かれた過去の若葉ががさりと音を立てる。歩を進める度に響くその音は、私の両耳を軽く揺らす程弱いはずなのに、まるでつんざく悲鳴のように私の心を削っていった。
積もった過去が隙間なく広がり、辺りが紅と黄金に包まれた頃、とうとう私は耐えられなくなった。私には足を置くこの場所が、私の抱えておくべき大切な何かに思えた。途端に、私は下を向いて蹲った。何もわからなかったから。このまま進めば、ここに留まれば、ここから戻れば。私の手に何が戻るのか、何が残るのか、何が掴めるのか。青い空はいまだ遠くから私を見下ろして、私の目の前に影を落とした。
私は答えが欲しかった。私は顔を持ち上げて辺りを見回した。私の求める言の葉が、この目を覆う紅や黄金のどこかに落ちていないかと思った。そんなありきたりで、陳腐な考えにさえ縋りたかった。私は揺らぐ眼を前に向けた。とっくに見慣れた暮色の景色は色も変わらず確かにあるはずだったのに、その中には白が浮かんでいた。その白はキャンバスだった。私が進んでいた道の先に佇む、一枚のキャンバス。ミルクのような白のイーゼルに立てかけられた真っ白いキャンバスだった。
私はキャンバスに一歩、また一歩と歩み寄っていった。突然現れた未知が恐ろしくて、足が止まった。既知から外れた未知に期待して、足が進んだ。何色にも染められていないキャンバスは目を細める程眩しくて、近づく度に足は竦んだけれど、その輝かしい純白を羨む心が、私を前へと進ませた。気づけば、私とキャンバスは手を伸ばせば指が触れそうな程近づいていた。私は惹きこまれるように手を伸ばして、はたと、樹木のように止まった。私の心が体を押しとめた。私が触れれば、きっとこのキャンバスは色に染まってしまう。私はそれを、この純白のキャンバスが終わるときだと思った。私はまた、分からなくなった。ぶらりと手を吊り下げて、キャンバスの前で私は苦悩する。私の手がこのキャンバスように何色にも染まっていなければ、キャンバスに触れることができればその心地はどれ程のものか。その空想は私の手を取りキャンバスの真中へと引っ張るけれど、私の手は指一本とて動かない。私の手には闇のような恐れが絡みついている。樹木の根のようなそれは、私の手を、腕を、体をこの場に縫い付けて、私とキャンバスを永劫に断ち切る鎖のようにひやりとしていた。
恐れはどんどんと私の体に巻き付き、覆っていった。恐れが私の体を巡る度、辺りは暗くなっていく。木々を覆う黄金は沈んでいった。紅の葉が空に溶けて、黄金の葉が錆び落ち、やがて全てが見えなくなった。空が、樹木が、葉が寝静まるころ、私もまた眠り落ちるように恐れに身を任せていく。
不意に、ごう、と。一陣の風が吹き抜けた。それは奪い去る初嵐であり、包み込む春風でもあった。明の光輪が目を覚ます。
ちぐはぐな科斗の風が過ぎて、全てがかえってきた。黄金の錆が落ち、樹が熱く色づいて、木々を照らす薄日が昇っていく。辺りは輝いていった。空が私の体を巡る度、私はどんどんと恐れから遠のき、すり抜けた。私の足と、体と、頭が前へと進んでいき、とうとう私の指とキャンバスは刹那の間に触れ合った。
私の五指とつながるより早く、キャンバスが形を変える。それは真っ白な絹布の体で私の周りを泳ぐ。それは鏡より深くを写し、井戸のように汲み上げていく。絹布が私の置かれた掌へ吸い込まれるように収まると、それは既に一枚の若葉へと姿を変えていた。瑞々しい緑が懐かしく、つるりとした表面に触れると、心が漲ってくる。
私はその不思議な若葉を強く握り、私を満たすものを確かめるように目を瞑った。
木質の埃っぽい部屋の中、斜陽がカーテンを貫いて私の瞼を刺激する。光に起こされた私は、何をしていたんだったか。と首を回した。
私は椅子にもたれかかり、段ボールと本に囲まれていた。そういえば、使わない部屋の整理をしようとしていたっけ。
椅子からおもむろに立ち上がり、ぐぅっと背を伸ばす。ふとカーテンの先に目をやると、春の微風が新緑の樹を穏やかに揺らしていた。
秋と夢、ついでに郷愁 YAHAI @ytoHIBORU
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