#09
ターゲットの言葉通り、連れられた場所はオペラ・ガルニエのボックス席だった。『オペラ座の怪人』ファントムが常時確保を要求した5番ボックス席の隣、3番ボックスとよい席だ。
ボックス席に入った瞬間、シャロンは思わず感嘆の溜め息を吐いた。豪華な赤色と金色のバロック様式の内装に目を見張るが、頭上にある豪華なシャンデリア、その上に描かれたシャガールの天井画に釘付けになる。
「『夢の花束』という作品だよ。マルク・シャガールは知っているかい?」
「えぇ、もちろんよ……。作品名は知らなかったけれど」
美しい天井画は自らの仕事が殺し屋だということをシャロンに忘れさせ、童心に戻ったような感覚を持たせた。なにか幻覚を見ているような不思議な浮遊感を味わう。
「……年相応でよかった、安心したよ」
「え?」
シャロンはその男性の言葉に我に返り、隣に立つブラウンヘアを携える人間を見つめる。グレー色の瞳がシャロンを射抜いていた。その美しい宝石のような瞳に一瞬狼狽えるシャロン。イランイランの香りが鼻腔を擽り、シャロンの脳内に男の存在がくっきりと形作られる。
「いや、失礼。初対面で年齢のことを持ち出すなんて身の程知らずだ。すまないね。……それにもう一度謝っておくよ、ドレスを汚してしまい申し訳ない」
頬のえくぼをへこませる苦笑を浮かべ、柳眉を垂れさせる男。心底申し訳ないという表情にシャロンは少し微笑んでしまった。ワインを溢したのは私で、しかも故意なのに、と内心で意地悪く笑う。目の前の男性が可愛らしくも見えてしまう女であった。
「気にしないで。起きてしまったことはどうすることもできないわ。それに貴方のおかげでドレスコードを気にせず観劇できる。ありがとう」
シャロンは肩に掛かった男性のスーツに目線をやり、華麗に微笑む。
無事にターゲットに近付けたため今日の仕事は終わりだ。思いがけなかったことは、汚れたドレスを隠すために自らのスーツを貸してくれるような紳士な男性がターゲットだったということだけ。
「これも縁だわ。お名前を伺っても?」
「レオ・サンチェスだ。よろしくお嬢さん」
レオはふわりと笑みを携え、紳士的にシャロンの手の甲にキスを落とした。
レオ・サンチェス。シャロンの脳内に刻み込まれたターゲットの名前。
「アメリカ人かしら? それにしてはイギリス訛りだけれど」
「おや、恥ずかしい。訛っていたかい? 数年前までイギリスに住んでいてね。癖が抜けないのかもしれない。……君は美しい発音のフランス語だね。だがフランス人じゃないだろ?」
「貴方と同じアメリカ人よ」
「君は名乗らないつもりかい?」
レオは柔らかな瞳でシャロンを見つめた。綿菓子のように穏やかな視線だが、名を聞かずして帰すつもりはないという圧を宿していた。
「ケイトよ」
「ラストネームは?」
「ただのケイト」
シャロンの言葉に不服そうなレオ。フェアじゃない、と言いそうになるが、ケイトがそれを愉しげに笑う様子が安易に想像できて口を閉じる。それに年相応を安堵したが目の前の女は年齢の割に鷹揚としていて肝が座っている。年相応の駆け引きでは満足しないだろうとレオは勘付いていた。女の秘密を暴かないことこそ紳士的な振る舞いだ。それに女は少しの秘密を抱えていた方がセクシーだ、そうレオは自らに言い聞かせる。そしてイランイランの香りをケイトに覚えさせるように軽く女を抱き締めた。
「よろしく、ケイト」
レオはすでに次のことを考えている。次はどんな場所でケイトと会おうか、と。
ぴゅい! っとどこからか口笛が鳴り響いた。シャロンはその音を聞いたことがあった。慌ててレオの腕から擦り抜け、口笛が響いた1階中央を見つめる。そこには寝たはずの坊や、ギルがへらりとこちらを見上げ笑っている。その隣にはスーツ姿のジョンが立っていた。悠長にこちらに手を振るギルはジョンに脅迫されているように見える。ギルとジョンはその痩躯を互いに密着させていた。ジョンがギルの腰に銃をあてがっているのがシャロンには安易に想像できた。
「行かなきゃ」
「え? もう?」
「えぇ、急用ができたの」
シャロンはレオから借りたスーツを脱ぐ。その瞬間にもイランイランの香りが鼻腔を抜けた。心地のよい香りだ。ギルもジョンも仕事柄、体臭さえ残さない人間たちだった。あのドイツ人でさえ香りを携えない。闇に溶ける人間たちは自らの形跡を残さない。だから香りを感じる人間と少しの時間をともにしたのはシャロンにとって久しぶりのことだった。
「オランダ黄金時代といえばフェルメール? レンブラント?」
シャロンは1階から目線を外し、レオに向ける。レオは、んー……と宙を眺めながら「レンブラント、かな」と呟く。シャロンはスーツをレオに渡し、小声で囁いた。
「明日の午後1時にルーヴル美術館のレンブラントの前で待つわ。探して」
「……ルーヴルにレンブラントは何点かあるはずだが」
「見つけ出して」
シャロンはそれだけを言うとレオの頬に別れの挨拶であるキスをひとつ落とし、ボックス席を後にした。
消えたシャロンの姿を脳裏に焼きつけるレオ。頬に柔らかなケイトの唇の感触が残る。
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