うっかり姫の恋 ~この鍵、誰の鍵ですか?~

櫻井彰斗(菱沼あゆ・あゆみん)

一夜の過ち(?)


 目が覚めたら、隣りにイケメンがとか、よく聞くけど。

 途中で酔いが覚めた場合、どうしたらいいんだろう?


 しかも、相手が誰だかよくわからない。

 暗いし、コンタクト入ってないし、体勢的にもよく見えないし。


「ちっ、痴漢ーっ。

 強姦魔ーっ」

といきなり瑞季は叫んだ。


 相手の男が飛んで離れて転がり出て行く。


 部屋から逃げ去る音を聞きながら、瑞季は自分のベッドで呆然としていた。


 今の……


  今の……


 今の誰ーっ!?




「どうしたの、ぼんやりして」


 瑞季が職場で、ぼうっとしていると、隣りの課の月橋つきはしエレナが声をかけてきた。


 エレナはクォーターなのだが、言われてみれば、日本人以外の血も入ってそうかな、という感じ。


 今は、カラーコンタクトも茶髪もみんな普通にやっているので、その辺の日本人の方が、むしろクォーターっぽいが。


 それはともかく、エレナが可愛いことには変わりない。


「いやー、昨夜恐ろしいことがあってさ」

と瑞季が言うと、


「俺はお前の仕事がさっきから全然進んでないことの方が恐怖だがな」

という声が背後からしてきた。


 エレナが、うわっ、という顔をして、逃げかかる。


「月橋、なにか持ってきたんじゃないのか?」


「あっ、はい、これです。

 どうもすみませんっ」

とエレナは瑞季の背後に居た男に、社内の回覧板を差し出し、逃げ帰る。


 後ろの男は、真島了弥まじま りょうや


 瑞季の課の課長だ。

 恐ろしいことに同い年だ。


 一昨年くらいから、業績次第では、若くても役職に登用されることになった。


 そのモデルケース的に、各支社で、一人ずつ優秀な人材が役職つきになったのだが。


 彼もその一人だった。


 黒髪の美しい風貌はとても好みなのだが、なんせ、『真島課長』は性格が悪すぎる。


 っていうか、貴方、何故、私の真後ろで、回覧を読んでるんですか。


 ぱらりと落ち着いた様子で紙をめくっている音がするのですが、私はとてもとても落ち着かないのですが、と瑞季が固まっていると、

「み……相楽」

といきなり呼ばれた。


 はい、と返事をする。


「これを隣りに回して来い」


 ちょっと待て、印鑑押してくるから、とようやく自分の席に戻っていってくれた。


 ほっとしたが、どのみち、回覧をもらいに行かなければならない。


 なにもしなくても、怒られそうな気配に、そうっと彼の許に行くと、

「ほら」

と回覧を突き出してきたが、それをつかんでも、何故か了弥は離さない。


「えらく機嫌が悪いがどうかしたのか」

と訊いてくる。


「いえ、機嫌が悪いわけでは……」


 なんだかわからない記憶にもやっとしてるだけです、と思っていた。


 回覧の上に、了弥はメモ用紙を置いて、

「じゃあ、これも頼むな」

と言う。


 ちら、とそのメモを見て、

「わかりました」

と答えた。




 廊下を歩きながら、瑞季は、そのメモをくしゃっとポケットに入れる。


「昼は『神楽』で」


 命令かっ、と思った。


 が、従うであろう自分を知っていた。




「なに渋い顔してるんだ。

 せっかく連れてきてやったのに」

と個室で了弥が言う。


「いや……ちょっと困ったことがあって」


 会社から少し離れた場所にある京料理の店、神楽に来ていた。


 瑞季の実家は濃い味なので、京料理は実はあまり得意ではないのだが、此処の店は別だった。


 見た目も綺麗だし、味の薄さも気にならない味付けだからだ。


 まあ、京料理は得意ではないとか言うと、母親の実家が京都の大きな料亭だという了弥に怒られるかもしれないが。


 籠に飾るように入れられたちまちまとした可愛らしい料理をつまんでいると、了弥は、


「困ったことってなんだ、言ってみろ」

と言う。


 うーん、と瑞季は腕を組み、小首を傾げてみせる。


「こんな、いいつまみになりそうな料理なのに、今、日本酒を呑めないこと?」

と言うと、阿呆か、と側にあったメニューではたかれた。


 了弥は課長だが、同期なので、社外ではタメ口だ。


 一応、ケジメをつけるために、社内では馴れ馴れしい態度は取らないようにしているが。


 まあ、それ以前に、職場での了弥は怖いので、意識しなくてとも、彼を前にすると、畏まってしまうのだが。


「私、昨日、小学校の同窓会に行ったのよ」

と言うと、一瞬の間を置き、へー、と了弥は言った。


「楽しかったんだけど……」


 その先を言うのは、ちょっと迷う。


 すると、

「なにか失態でもやらかしたのか」

と言ってくる。


「なんでわかったの?」

とテーブルに肘を突き出し、身を乗り出して訊くと、


「お前が失態を犯さない方が珍しいからだ」

と言う。


 少し迷ったが、昨夜のことを了弥に語った。

 誰よりも口が堅い気がしたからだ。


 だが、まあ、これこそ、失態だったと思う。


 確かに、口は堅いが、まず、誰より彼に知られるべきではなかったのではないかと。


 まあ、そのくらい錯乱していたのだ。

 呆れたのか、了弥はしばらく口をきかなかった。


「ねえ、どうしたらいいと思う?」

「……淫乱女」


 ぼそりともらした了弥の言葉に、はい~っ? と喧嘩越しに訊き返す。


「ほんとに淫乱だったら、悩まないわよっ。

 なに言ってんのよっ。


 どうしたらいいと思う?」


「どうしたらって、ほっとくしかないんじゃないか?」

「え」


「どうせ、一夜の過ちだろ。

 相手も覚えてないかもしれないし」


 妊娠でもしてんのか、と訊かれる。


 昨日の今日でわかると思うのか、この莫迦、と相談に乗ってもらっているにも関わらず、心の中と表情で罵ってしまう。


 了弥はひとつ、溜息をつき、

「まあ、ともかく、全部なかったことにしろ。

 あ、時間だな」

と早口に言い、時計を見る。


 障子を開けて出て行こうとしながら、振り返り、

「今日は奢ってやろうと思ってたんだが、つまらぬ話を聞かされたから、お前の奢りな」

と了弥は言った。


 這うようにして、ちょっと待った、と止めようとした瑞季の頭に伝票を載せてくる。


 うう……。


 やっぱり、言うんじゃなかった。




「あんた、莫迦じゃないの?

 なんで、真島課長に言っちゃうの?」


 夕ご飯は、エレナとイタリアンに来ていた。

 連続で外食は痛いが、一人で家に帰る気分じゃなかったからだ。


「いや、なんだかんだで、一番信頼してるから」


「いやだからさ」

とエスプレッソのカップを置いて、エレナは言う。


「そんな課長に何故言うのよ。


 好きなのかと思ってた。

 課長のこと」


 いやいやいやいや。


 ないだろう。

 ない。


 同期で一番仲がいいのは確かだが。


 向こうは課長様だし。

 私に対して、向こうがそんな態度を取ったこともないし。


 だからというのではないが、そういう風に見たことはない。


 ……たぶん。


「ねえ、課長、その話したとき、どうだった?

 怒ってた?」


「呆れてた」


 まあねえ、とエレナは呆れた了弥に同意する。


「過ちの部分じゃなくて、その話をつるっと課長にしたところに呆れるわね」


「なんでよ」

と言うと、


「まあ、もう忘れた方がいいんじゃない?」

とこの話を流そうとする。


「なんで、了弥と同じこと言うのよ」


「相手がなにか言ってくれば別だけどさ。

 こっちから、探すことはないわよ。


 犬にでも噛まれたと思って諦めろっていうありがたいお言葉も昔からあるじゃない」


 いや、それ、ありがたいか? と思いながら聞いていた。


「ちなみに、私はいちいち追求しないわ」

とさらっとエレナは言う。


 この人の周りでは、いつもなにが起こってるんだろうな。


 ちょっと怖い、と思っていると、こちらをちらと見たエレナが、

「クォーターで派手だから軽いだろうと勝手に判断されるのよ。

 こっちが真面目に生きたいと思っててもね」

と言ってくる。


 いや、だからって、それに従わなくても、と思いながら、瑞季は聞いていた。




 エレナの言う通り、追求しない方がいいのかなあ、と思いながら、瑞季は家に帰った。


 エレナお薦めの美味しいイタリアンを食べてもテンションは低いまま。

 しょんぼりトイレに入ったのだが。


 トイレットペーパーをカラカラと引っ張った瑞季は思わず、ぎゃーっ、と乙女にあるまじき悲鳴を上げていた。


 トイレットペーパーに、黒いマジックで、バーカ、と書いてあったのだる


 マジックなので、突き抜けて、引っ張っても、引っ張っても、バーカ、バーカ、バーカ、と書いてある。


 耳許で誰かに、バーカ、バーカ、といつまでも言われている幻聴に襲われる。


 なんでっ?

 今朝はこんなものなかったのにっ。


 此処に入れるといったら、親か、不動産屋さん。


 親がわざわざ、こんなもの書きに来るとは思えない。


 さては、不動産屋さんっ!


 ……なわけないっ、と慌てて、トイレを飛び出し、鞄を漁る。


 キーホルダーを見た。


 ないっ!


 弟が、今度、いらなくなったキーボードを持ってってやるから、鍵を貸してくれと言ってきたので、今度渡そうと、キーホルダーにつけておいた予備の鍵がなくなっている。


 今日、何度目かの呆然とした時間のあと、瑞季は無意識のうちに、スマホをつかんでいた。





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