ラビットフット
玖萬川
第1話
ラビットフット
吾輩は黒兎。とある屋敷で働いている。新参者の下っ端であるため朝から晩までこき使われ、物言わぬてきぱきとした同胞たちに大きく後れをとりながら一所懸命にやっている。やっているのだが、居眠りをしたり、物を取り落としたり、壊してしまうことなど毎日のことだった。
「困ったものです」
今日もまた窓ガラスにヒビを入れた吾輩に、黒兎の先達たちが表情をくもらせる。表情、といっても、我々の顔には仮面が嵌まっているため口元しか見えないのだが。
「こんなこと言いたくないけど、あんまり続くようでは切り戻しをされてしまうよ」
「なさりたければ、ご自由にどうぞ」
もはや、お決まりのやり取りだった。しばらく事務的な言葉を交わしたあと、先達の面々は黒い立派な燕尾服のしっぽを翻して去って行く。対する吾輩は、シャツとズボンに黒いエプロンとネクタイを締めただけの給仕の恰好をしている。他の誰も、こんな恰好をしている兎はおらず、吾輩は極めて特別なのだった。決して落ちこぼれだからとか、破いたり汚したりしすぎたとか、そんな理由で燕尾服が支給されないのではない。
本日は浴室の掃除中にシャワーコックをもぎ取り、水浸しとなった。吾輩は濡れネズミとなり、簡単な止水をした後に、やってきた配管工と兎の同胞によってタオル一枚と共に浴室を追い出される憂き目にあう。
吾輩は濡れそぼったままとぼとぼと廊下を歩き、気が付くと調理場の前にいた。昼食の準備の真っただ中である。上等な調理器具の打ちあう音、焦がしバターの香りがした。中をのぞくと、白鼠たちがあくせく立ち働いている。彼らもまた、吾輩たち兎同様に仮面を嵌められたしもべたちであった。褐色の肌に白い髪をしている。奥様はしもべを色で別けるのがお好きな人なのだ。
ふと、調理室の片隅で小さくなっている白鼠がいることに気付いた。一人だけ濃色の髪をした白鼠だった。白鼠はおっかなびっくりの手つきでバターを細かく切り分けている。手つきは随分と悪いようだったが、仕事は丁寧だった。どこにでも落ちこぼれはいるものだ。吾輩が落ちこぼれというわけではないが、親近感がわき近寄ってみることにする。
「こんにちは」
吾輩が声をかけると、白鼠はわざとらしいほど飛び上がり、その拍子にペティナイフを取り落とした。床に落ちる前に吾輩が拾って見せると、大げさにぺこぺこと頭を下げた。砂糖の甘い香りが漂う。吾輩のせいでナイフを落としたというのに妙な鼠である。いっそ気の毒でもあった。暗い水色の瞳がおどおどと吾輩に向けられる。眼光は、不思議と鋭いものだった。
これでも吾輩は菓子作りに覚えがあった。なにか、手伝えることがあるだろうか。たずねる前に料理長の声が鳴り響く。白鼠たちが一斉に顔を上げ、吾輩のそばにいた白鼠も同じ方を見た。メニューに変更があったらしい。吾輩はそっと調理場をあとにした。
洗濯室へ立ち寄り予備の給仕服を都合してもらうつもりであったが、係員の獺が言うには、吾輩に貸し出せるものがないということだった。
「ごめんよ、意地悪をしているんじゃないんだ。ただきみは、その、言いにくいけど、痩せっぽっちなのに背が高いから、寸法が合うものが無いんだ。ごめんよ」
いつものことである。幸い晴天に恵まれている。吾輩は外へ出ることにした。ただし、表から出ては庭師の熊か、悪ければ旦那様などにつかまるため、森へと続く裏口の門をくぐる。墓地を通らなければならないが、開けた丘の先にあるため、垣根だらけの表庭よりも余程気持ちのよい場所だった。風通しも日当たりも申し分ない。墓石群から程々に離れた草むらに座り、吾輩はごろりと転がった。こうしていると濡れた衣服が乾くのだ。草を渡る風の音が聞こえる。いつの間にか眠っていた。
心地よい眠りを妨げたのは、金具の触れ合う音と、草を踏む足音だった。吾輩は素早く身を起こし、足音のもとを確かめた。必要であればすぐさま駆け出すつもりであったが、その必要はなかった。
吾輩はこちらへやってくる影をじとりと睨み、ふたたび寝ころんだ。寝返りをうち、近寄ってくる足音を言外に拒絶したのだが、狐には通じなかった。
狐は墓守をしている。たった一人でいくつもの重要な仕事を任されているため、事実として優秀な狐だが、この狐もまた吾輩と同じ色違いであった。吾輩はこの狐があまり得意ではない。狐は吾輩に、親切にするのだった。今日も狸寝入りをする吾輩を起こすこともせず隣に座り、いつまでも傍にいる。狸寝入りのはずが本当に眠り込んだ吾輩が起き上がると墓守の小屋へ引き返し、白葡萄のジュースとパンを手に戻ってくる。差し出されたパンを受け取ると、狐は腰に帯びていた剣を外して草の上に置き、隣に座った。
狐は長身な吾輩よりも更に一回りか二回り大きかった。庭の熊ほどではない。小麦色の髪を陽光にきらきらさせている。狐の仮面の奥に時々見える瞳は青みを帯びた若草色をしており、ただの狐の金色とは違ったが、こちらもよく光る。吾輩に言わせれば立派な狐である。
吾輩は、自分の身のことを頭に思い浮かべた。黒兎とは総じて美しい黒い瞳と黒い髪を持っているのだが、吾輩の瞳は赤く、髪はまるで光ることのないくすんだ灰色だった。加えて、ハウスキーパーであるため繊細な感性と容貌を持つ者が多い中、吾輩はいささか規格外であった。魔女である奥様によばれたしもべはみな役割ごとに色分けされているのだが、奥様の采配からこぼれ落ちる色違いも存在する。吾輩たちに入れ物を選び取る権利はないが、せめて統一してほしいものである。
グラスに注がれたジュースを一息に飲み干す。ふと、狐に目をやると、目が合った。狐は目を逸らすことなく吾輩を見つめている。吾輩はグラスを返した。
「ごちそうさま」
「いつでもどうぞ。まだ濡れているようだから、服を貸そうか」
狐の手が吾輩のシャツの襟をつまむ。
「結構だよ。きみのじゃ袖があまるから」
「まくってあげるよ」
「気持ちだけいただくことにするよ」
吾輩は立ち上がり狐に背を向けた。
墓地の出口で振り向くと、立ち上がった狐がまだこちらを見ていた。
本日は、珍しく一つの失敗もしなかった。このまま平穏に昼の時が終わるかと思われたが、最後にとっておきのへまをやらかした。いつものことである。
屋敷の主であるご夫妻の一人息子である坊ちゃんのスーツに紅茶をかけてしまった。茶くみという慎重な仕事は当番の兎が行うのだが今日に限ってみな早くに眠りにつき、坊ちゃんの夜の支度が遅かった。
淹れたてのダージリンは濃いシミとなって白い三つ揃いのスーツに染み込み、居あわせた仕立て屋が金切り声をあげる。幸いにも新品を披露目していた箱入りのもので、坊ちゃんが火傷を負うようなことはなかったが、吾輩は大目玉を食らった、食らうはずだったのだが、ソファに座っていた坊ちゃんがおもむろに指を鳴らした。魔術を使って仕立て屋に口止めをする。呆けた仕立て屋に金貨を握らせ帰してしまい、カップの破片を拾っていた吾輩のもとへやってきた。飴色にみがかれた革靴が柔らかな絨毯に沈む。吾輩はしぶしぶ坊ちゃんを見上げた。葡萄酒色の瞳と目が合うと魔術にかけられるため嫌なのだ。
「今日のことは目をつぶろう。かわりに今夜僕の寝室に来い。お願いするよ」
お願いではなく命令だった。目に見えない輪が首にはめられる。吾輩は一つ頷いた。
夜の務めの合間に坊ちゃんの部屋をたずねると、坊ちゃんは吾輩を部屋の中に引きずり込んだ。ベッドの横の絨毯の上に物のように放られる。少年から青年への移り変わりの時にある坊ちゃんは、若木のような細くしなやかな身体と美しい面立ちをしているが、力が強かった。
時間が遅れたためか首が締まっている。這いつくばった吾輩を見下ろすようにベッドに腰かけた坊ちゃんは、光沢のある暗赤色のガウンに包まれた細長い足を優雅に組んだ。あまりにも横暴であったが、吾輩にはなす術もない。
「兎なのに夜遅くまで、よく起きているものだ」
「わがは……、わたくしは色違いですので、夜の務めを仰せつかっております」
「兎が狐や熊に混じって夜警をしていると聞いたときは法螺話だと思ったが、貴様を見て納得した。いささか骨ばっているが妙な力を感じるぞ」
坊ちゃんの手が吾輩の顎を持ち上げる。吾輩は目をあちらこちらへ泳がせた。
「まあなんだ、中々気に入った。さて僕からのたのみだが」
「恐れながら坊ちゃん、首が」
今にもぽろりと落ちそうだった。坊ちゃんは今思い出したという風に指を鳴らした。
「この屋敷を抜け出したい。なに、ほんの数時間だ」
この言葉の意味を理解するのに、吾輩は少々時間を要した。というのも、坊ちゃんはこの屋敷の、ひいては、やんごとなき高貴な血筋の後継者である。生まれた時から将来が約束されており、それに伴い、屋敷から出ることは許されていないのだった。屋敷は奥様の力によって迷宮と化している。廊下の先は一定ではなく、部屋も増えたり減ったりする上、扉にはそれぞれに鍵がかけられている始末だった。
ベッドの足元から椅子の上に場所を移した吾輩は、ベッドに寝そべる坊ちゃんへと慎重に選んだ言葉を送った。
「坊ちゃん、吾輩、ごほん。わたくしにそのようなことを申されましても、このお屋敷に起こる事柄の決定権は、お屋敷の主たるあなたのご両親にございます」
「僕の記憶が正しければ貴様は主鍵を持っていたな。出してみろ」
「確かにわたくしは鍵開けの権限を持ちますが、お貸しできるものではありません。外にご用であれば使い走りを馬などにお申し付けください。どういったご用で」
尋ねると、坊ちゃんは子どもらしくそっぽを向いてしまった。美しい栗色の髪がランプの灯を受けキラキラと輝く。昔から、こうなると長いのだ。こうなった坊ちゃんの機嫌を直すことができるのは、とある従者ただ一人である。吾輩は胸に下げた懐中時計に目をやった。針は真上を指している。長居しては、今からの仕事に支障が出かねない。
「まことに遺憾だが、貴様と話をしてみたかった」
仕事の段取りをしていた吾輩の耳に、ぽつりとした呟きが届いた。坊ちゃんはベッドに寝転んだままだったが、わざわざ寝返りをうち、吾輩に背を向けた。
「貴様は母君から目をかけられている。僕はたまに貴様を見ていたが、貴様のやるようなヘマを他のしもべ共がやったならば、次などなく切り戻しだ。貴様のような存在が、ヘマをしても許される条件は、一体なんだというんだ」
吾輩に結び付く条件など一つしかない。色ちがいであることだ。吾輩の考えを見透かしたように坊ちゃんが続ける。
「言っておくが色ちがいなんぞは真っ先に切り戻しされる落ちこぼれだ。条件としては不適当。貴様や墓守の狐は規格外で話にならん」
拳でピローを叩く仕草をする。「色ちがいが切り戻しをされない条件は何だというんだ」シーツにこすりつけられた艶やかな鳶色の髪は、坊ちゃんの内なる葛藤を表すように、あちこち飛び跳ねている。
色ちがいと聞いて、吾輩の頭に真っ先に浮かんだのは、調理場で出会った料理人の白鼠のことだった。随分どんくさいようだった。奴も切り戻しをされてしまうのだろうか。
切り戻しをされたしもべは、よばれる前に居たところにかえるのだと言う。早い話が仮面を剥がれて消えるのだ。そのように言い聞かせられている。
「それを知ってどうなさるのです」
吾輩が尋ねると、坊ちゃんは喋るのをやめた。沈黙が続く。
「先に屋敷を抜け出したいとおっしゃいましたね。今の質問は、そのことと関係あるので」
坊ちゃんが身を起こし、吾輩を睨んだ。尊大な態度はなりをひそめ気弱な少年の姿をのぞかせる。苦し気に寄せられた眉と引き結ばれた口元は、はじめて見る人間の表情だった。
吾輩は忠誠心とか、しもべたるに必要とされる心得をほとんど持ち合わせていないが、今このときばかりは坊ちゃんの心のつかえを何とかしてやりたいと思った。次の瞬間、顔面に衝撃が走る。
「おうっじっ」
坊ちゃんが投擲したピローが二発、立て続けに吾輩の顔に直撃した。ヒビの入る音がする。仮面が割れたらどうするつもりなのか。魔術を込められ魔弾と化したピローは重く、吾輩はふたたび絨毯に沈み込む。
「哀れな兎め。貴様などさっさと切り戻しされてしまえばいい」
吾輩が坊ちゃんへの同情を消し去っていると、扉から控え目なノックの音が聞こえた。坊ちゃんが飛び上がる。「少し待ってくれ」驚愕的に穏やかな声音で告げ、慌ただしく居住まいをただし、絨毯の上に転がる吾輩の背を踏み扉の方へ駆けていく。しかしすぐに戻ってきた。思い出したように吾輩をベッドの下に蹴り入れ、出てくるなよ、細胞の一つも音を立てるな! と厳しく言いつけた。無理な話である。吾輩は憤懣やるかたない思いで、せめて来客の顔くらい見てやろうと思った。
扉が開く音に続き、ワゴンの車輪が回る音が聞こえる。夜食でも頼んだのだろうか。いいご身分である。吾輩はベッドの下で虫のようにうごめき、なんとか角度を見つけて来客の姿に目をこらした。
「え」
坊ちゃんがわざとらしく咳払いをし、思わずもれた吾輩の声をなきものとする。ワゴンを押し部屋の中へとやってきたのは、今しがた吾輩の頭に浮かんだ白鼠だったのだ。白鼠はぺこぺことしながらテーブルに皿を並べ、やはり夜食と思われる惣菜をきれいに並べていく。時折、がちゃがちゃと嫌な音が聞こえたが、坊ちゃんから叱責の声が飛ぶ様子はない。見れば、子どもらしいわくわく顔で嬉しそうにしているではないか。白鼠の方もまた、緊張こそ感じられたが、親し気な口をきいている。
「昨日言っていたのを作ってみたんです。中がとろりとしたムースと、パイ生地をいっぱい重ねたのにクリームをかけてサクサクさせたやつ」
「さっそくいただこう」
「でも坊ちゃん、いいんですか。奥様から身を穢すものは十六歳の成人式まで食べないようにと言われているのに」
「こんなに美味しいもので穢れるというのなら喜んで穢れようとも。それよりも願いは決まったか。きみだけが僕の願いを叶えてくれたんだ。言ってくれれば何だってあげるよ」
「それじゃあ、外の食材がほしいです。奥様のものに手をつけると、露見したときに首が飛ぶので」
「この間も同じだったじゃないか。どうせそれも僕の腹に入るんだろう。なにかないのか。たとえば、何らかの特権だとか」
「いいえ。こうして坊ちゃんに私の料理を食べていただけるだけで充分です。坊ちゃんにはきちんとした食べ物を食べていただいて、頭をしっかりとしてもらわなければ」
「僕の頭がしっかりしていないとでも言うのか」
「明日は何にしましょうか」
二人はまるで、友人のようだった。吾輩はそれ以上の目視による観察をひかえ、胸の上で手を組みベッドの下板の木目を見つめた。既視感があった。正体はわからない。
どれほどの時間が経ったか。うつらうつらとしていた吾輩の意識を扉の閉まる音が引き戻した。静寂の中に小さな溜息が落ちる。吾輩は胸の懐中時計を眼前にかざした。寸の間を置き目を剥く。眠気が吹き飛び、同時に額をしたたか打ち付ける。「うわっ!?」さては吾輩の存在を忘れていたのだろう、坊ちゃんが悲鳴じみた声を上げる。吾輩は額を押さえ呻きながらベッドの下から這い出し、坊ちゃんに退室の許しを請うた。
「あっ。……まだいたのか。さっさとどこかへ消えてしまえ」
先ほどまでの子どもらしさは消えており、冷え冷えとした次期党首がつんとした澄まし顔でしっしと手を振る。吾輩は一礼をし部屋を辞すべく扉のノブに手をかけ、止まった。思考していることがあった。難しいことではあったが、運悪く、頭の中で都合がついてしまった。振り向かず口を開く。
「坊ちゃん。お申し付けについてですが、少し時間をいただけるのならば段取りいたしましょう」
背中に視線が突き刺さる。
「時間はない。最も急いで都合しろ」
坊ちゃんの部屋を出た吾輩はわき目も振らず夜の勤めを果たしに走った。夜の勤めとはすなわち、屋敷の中の、とある一室を除いた全室の見回りと施錠の確認である。とある一室とは、奥様と旦那様が共用とする赤い扉の部屋である。何の部屋なのか知る者はいない。先に庭回りは済ませてある。常であれば明け方前には自室に戻り仮眠をとることができるのだが、明け方までかかり、出迎えに遅刻する始末だった。主鍵を持たないしもべたちは、吾輩が赴かなければ屋敷の中に足を踏み入れることも、外へ出ることも出来ない。エントランスに駆け込み外へとつづく表の扉を開け放つ。夜のつめたい風が吹き込む。暗がりに、大勢のしもべたちが立っていた。
交代に立つ熊たちににらまれ、休憩に戻れずにいた猟師や門番、果ては庭師にすれ違いざまに肩をぶつけられ尻餅をつく。
「なんだ、いたのかい。ドアボーイ」
「あんまり遅いから、ついに切り戻されたのかと思ったぞ」
外回りの面々と比べれば貧相な身体の吾輩は、血の気の多い者たちの八つ当たりの対象となることがままあった。吾輩にかかれば赤子の手をひねるかのごとく全員をまとめて転がすことが出来るのだが、忍耐強い吾輩はそのようなことはしない。それに、本日に限って言えば吾輩の落ち度ではある。とはいえ勘弁してほしいものである。
くたびれたしもべたちの中に馬を探す。馬は数が少なく、物静かな者ばかりであった。行列の最後に入ってきたのをつかまえる。立派な葦毛の馬は、吾輩が声をかけると身をかがめ、吾輩の頬に鼻先をすり寄せた。
「お疲れのところ悪いんだけど、次に街へ行くのはいつか教えてくれるかい」
「次は満月の日の予定です。街とはいっても、ぼくたちは霧の谷の先にある洞穴のところまでしか、行けませんが」
「構わないよ。昼に誰か動けるかい。その、秘密のお使いなんだ」
「それではぼくが行きましょう。一頭だけになりますが、二人くらいなら乗せられますよ」
「ありがとう、よろしく頼むよ」
話が終わり、馬も他のしもべの後に続いた。
みなが屋敷に入ったことを確かめ、扉を閉める前にポーチを見回りに出て行くと、暗い庭の先に人影があった。吾輩はそちらに軽く手を上げた。向こうも小さく手を振り返す。月にかかっていた雲が流れ、すると月明かりに照らされた小麦色の髪がかがやいた。狐の仮面が銀色の光をはじく。墓守の狐だった。狐は数秒手を振ったあと、静かに吾輩に背を向け、暗闇の中に消えていった。
狐は一人で墓守をしている。夜の庭の見回りも兼任している。しもべの中で唯一、昼も夜も屋敷の外にいるしもべだった。吾輩と同じ、色違いである。奴ならば、坊ちゃんが知りたがっていた、切り戻しをされない理由を知っているだろうか。
戸締りを終える頃には昼の仕事に間もなくという時間であった。眠らずに身だけ清め仕事へと赴いた吾輩のなんと偉いことか。結果、ヘマにまみれたのだったが、理由を知らない同胞からは白々とされるばかりであった。
仕事場を追われた吾輩は、例によって裏口から外に出た。本日は墓場を迂回し森へと足を踏み入れることにする。これからの段取りを練るつもりであった。朽ちた大木のそばに腰を落ち着ける。丸く開けた青空から日の光が差し込んでいる。しばらくすると小鳥や鹿などがやってきて、めいめいにくつろいだり吾輩の髪を啄ばんだりしはじめる。
吾輩は目を閉じ、思考の海へと沈んだつもりであったが、三秒ほどで夢の中だった。不思議な夢だった。
大広間とおぼしき場所で、黒兎たちが忙しく働いている。本来であれば、吾輩もそちら側にいるはずであったが、吾輩は中央のあたりに立っていた。
着飾った客人たちがマスクの下で笑みを浮かべ会釈をする。
吾輩は自分の体を見下ろした。
吾輩が紅茶まみれにした白いスーツを着ていた。
誰かがすぐそばにいる。
吾輩と同じ白いスーツに身を包んだ、褐色の肌色の若者だ。若者の顔には仮面などなかったが、吾輩には若者が白鼠に違いないと思った。一体どうやって仮面を外したのか、どうしてここにいるのか、疑問は絶えなかったが、自由になることができたようで、よかった。これならば、きっと戻ることができる。よろこびが勝り手を伸ばす。
ふと、横をボーイの兎が通った。兎の手にあるトレイには銀色のフィンガーボウルが乗っている。ボウルの鏡面に顔が映った。吾輩の顔には、あるはずの仮面がなかった。次の瞬間、吾輩はボウルの鏡面の中から吾輩を見ていた。そこにいるのはすでに吾輩ではなく、坊ちゃんだった。正しく坊ちゃんのものである白いスーツに身を包み、悠然とした笑みを浮かべている。ボウルが食器とぶつかる音が鳴る。白鼠は気付いたのか、気付いていないのか、定かではないが坊ちゃんと共に行ってしまった。吾輩は少しだけ残念に思ったが、不思議なことに、安堵していた。二人を、この暗い魔女の屋敷からやっと救い出すことができて、よかった。吾輩は伸ばした手を引き戻し俯いた。またボウルの音が鳴る。音は段々と大きくなり、やがて耳元で声がした。
「おい、貴様! また寝てるのか」
吾輩はばちりと目を覚まし、飛び起きた。木漏れ日が目を射す。目の裏に入り込んだ緑の影が消えた先に青い瞳があった。坊ちゃんだった。吾輩をのぞき込むようにして立ち口をへの字に曲げている。ぽかんとして呆けた吾輩をなんと思ったか、坊ちゃんは得意の見下し鼻笑いをしながら腰に手を当てふんぞり返った。青みを帯びた白色の立派な礼服を身にまとっていた。釦やベルト、飾りのバッジなどが華やかで、坊ちゃんによく似合っていた。
吾輩は半身を起こした姿勢のまま視線をめぐらせた。明るい森の景色だった。傍らに生えた木のそばに吾輩の葦毛の馬が静かにしており、その横にもう一頭、馬がいる。白い馬だった。従者もおり、顔を彼方へ向けていたが、吾輩の視線に気付いたのかこちらを見た。髪の間に鮮やかな水色の瞳がのぞく。身にまとう外套の長い裾が草木と共に風に揺れている。吾輩は思わず目を逸らした。聞いているのか! と、坊ちゃんが言う。
「正午からの就任式典には貴様も参加するように達示があっただろう。まさか忘れたとは言わせないぞ」
坊ちゃんはいつものように不機嫌な様子でいる。吾輩はなぜか、途方もなく安堵していた。悪夢から目を覚ました気持ちで息を吐き、ふたたび寝ころぶ。さわやかな風と草の匂いがした。坊ちゃんの声が大きくなる。
「起きんかばかもの」
坊ちゃんが吾輩の腹に乗り、襟を持って揺さぶりはじめる。吾輩はうっかり笑ってしまい、さらに坊ちゃんを怒らせる。
「坊ちゃん、そんなにしたら、草のつゆで服が汚れて、また怒られますよ。わたくしが」
「ふん、もう手遅れだな。儀礼服でこのようなところに寝っ転がっている貴様が悪い。それから、その呼び方はいい加減にやめろっ」
怒り心頭の坊ちゃんの声の後ろから、草を踏む足音と金具の触れ合う音が聞こえてくる。視界のすみで深く青い長衣の裾が揺れている。
「おい、貴様。いい加減に目を覚ませ」
吾輩はばちりと目を覚まし、飛び起きた。二度目の目覚めに夢か現実か判然としないまま、咄嗟に懐中時計をのぞき込む。五分とすぎていなかった。
吾輩は森の中の心地よい木蔭で考え事をしていたはずだが、どういう訳かあたたかな雰囲気の部屋の中にいた。どうやら、一度目の目覚めは目覚めではなく、夢の中の出来事だったらしい。香ばしいパンの香りや甘い菓子の香りが漂っている。
ソファの上に身を起こした吾輩の前に、一人の人間が立っていた。金髪の人間だった。ふんわりとした灰色のスカートの上に白いエプロンをつけている。
森に人間がいるなど聞いたこともなかった。人間は動物や人外のなにがしかを相手に菓子屋を営んでいた。店を開けるために外へ出たところで行き倒れた吾輩を見つけ、親切にも屋内まで引きずり込んだのだという。「おかげさまで繁盛している。弟子が独り立ちしたせいで人手が足らないが」甘い香りと共に快活に笑う。
人間は腰をかがめ、吾輩を見つめた。春の花の色をした美しい瞳に吾輩の顔が映り込む。当然、仮面をつけていた。しかし人間は何も言わず慈愛に満ちた顔で笑うばかりだった。編み込みの金髪が肩口をすべり落ちる。
人間の手がゆっくりと持ち上がり、吾輩の頬を撫でた。あたたかな手だった。
「時間があるのならゆっくりしていけばよろしい。元気が出たら手伝いたまえ」
吾輩は人間の店を手伝うことにした。とはいえ、細かな事柄が不得手な吾輩である。客からの注文を間違えて包み、また支払いに提示されたドングリや葉っぱの数え間違いなど、あまねくヘマをした。しかし人間は怒ることもなく、鼻で笑うばかりであった。謝罪のために人間を振り向きぎょっとする。つい今しがたまで、人間は若い女の姿をしていたのだが、今は腰まがりの老婆となっていた。聞けば魔女なのだという。吾輩の知る魔女とは、この魔女はずいぶんと印象が違った。魔女は笑いながら立てた人差し指をくるりと回す。すると春風のような柔らかい風が円く吹きわたり、どこからか飛んできた花びらが弧を描いた。
「わたくしは春の魔女だとか、目覚めの魔女などと呼ばれている。まあ、なんでも、好きに呼ぶといい」
魔女の肩にとまった小鳥たちがさえずる。
「新しい子かと思ったら久しぶり」
「ずいぶん、その、斬新で哀れな塩梅だね。戻れるの?」
「でも王様とは色が違うみたい」
「きみ彼を知らないの? 従者の方でしょう。あれ、魔術師だったかしら。それとも騎士?」
「どちらにしても、道がわかれば見つけ出せるさ」
「あの者らは怖いよ、頑張ってね」
みな、似たような反応を寄越す。切り株をくりぬいた戸棚に焼き立ての丸パンが並ぶと、吾輩に向いていた興味はあっさりと失われ、連れ立って飛んで行ってしまった。魔女も仕事に戻ってしまう。
「くれぐれも釜には手を触れてくれるなよ。本日はわたくしの魔術で火を熾しているから、貴様が触ると消えるのだ」
「どうして消えるのですか」
「魔術とは、そういうものなのだ」
しばらくまめまめしく働いていた吾輩は、しかしはたと我に返り胸の懐中時計に目を向けた。時間はほとんど経っておらず、少々首をかしげる。ずいぶん長い間ここにいる気がした。
丸太造りの小屋は広々としたテラスがあり、そびえるほどの大木の木蔭の中に青空がのぞいている。
客足が引くと、魔女は吾輩に菓子を振る舞うと言った。やけに低い声だった。見れば男の姿となっている。吾輩よりも上背があり、ヒゲなども生やしてあったため、ぎょっとした。
「これくらいのことが出来なくてどうする。さあ、貴様も何時ものようにやってみなさい。その膨大な魔力を湯水のごとく垂れ流して」
訳の分からないことを言うものである。吾輩が溜息をつくと魔女は吾輩の頭を巨大な手で鷲掴み左右に揺さぶった。やるまで止めないつもりのようだった。
テラスに椅子とテーブルを運び茶を淹れる。白いテーブルクロスは皺ひとつなく、小さくいけられた花は瑞々しい。吾輩の前に差し出されたティーカップは、オオデマリの絵柄だった。魔女が口に運ぶカップにはネリネが描かれている。今の魔女の姿は先ほどと同じヒゲ面大男であった。気に入りなのだという。非常に圧が強い。
カップから爽やかな香りが立ち上る。ミントティだった。一口飲み込むと頭がすっきりとした。目の前が開け、明るくなったような気がする。
「わたくしは孤高の存在ではあるが、時として、わたくしの存在を知る者どもから乞われ力を貸すことがある」
魔女が銀色のナイフを手に取り、丸いパイを切り分ける。リンゴのパイだった。ナイフと同じ銀色の皿に乗せられたパイから金色の汁がとろりとこぼれる。目の前に置かれた皿を、吾輩はじっと見下ろした。
「人探しをたのまれている。恐ろしくも途方もなく、面倒くさい頼み事だ」
「それなら断ったらよろしいでしょう」
「まず、相手が悪かった。さすがのわたくしも、縁ある国の王からの願いは、無下にはできないのだ。それにまことに残念なことに理由がもう一つある」
吾輩はフォークをパイに差し込んだ。さくりとした感触の後、なにか硬いものがフォークの先にぶつかる。生地を避けて見てみると小さなものが転がり出てきた。陶器で出来た人形だった。青いマントに金色の冠をかぶり、剣を持っている。見間違いようもない。異物混入である。パイのひとかけらをフォークに刺した魔女が溜息ながらに告げる。
「わたくしの不肖の弟子もまた、探すべき人物の中に含まれていたのだ。夜の女王に囚われた王子と側近を救わんとして、自身も囚われたらしい。大方、死者の軍勢から国を守らんとして、力を使い果たしていたのだろう。愚か者め。ようやく独り立ちをして王宮勤めとなったかと思えばこのざまだ。泣いて鼻水を垂らしながら偉大な師に助けを乞えばよかったものを」
「人形が入っていました」
「ふん、あたりだ。幸運を持っていくがいい。ラビットフット。洞穴の底で霊と交流する者よ。三つくらいならば通れる穴だ。天も地もわからなくなったのならば青い灯を目印にしたまえ」
魔女はパイを口に入れ、ミントティと共に飲み込んだ。質問を受け付けるようなそぶりは一切ない。吾輩は人形をつまみ上げ、ふと、吾輩は何者なのだろうかと思った。奇妙な思考に首をかしげながらナフキンの上に人形を置く。「そんなところに置いては忘れるから、きちんと胸のポケットにしまいたまえ」魔女から叱責の声が飛ぶ。
別れ際、魔女が吾輩に包みをくれた。今日の働きへの賃金だという。中をのぞくとぴかぴかのどんぐりが詰まっていた。
「ありがとうございます」
どんぐりの包みをポケットに入れ帰路につく。明るい森の中は静かで、吾輩は方角など考えず適当に歩いて行ったのだが、しばらくすると霧がたちこめてきた。気にせず歩いていくと朽ちた大木のそばにいた。夢から醒めたような気持ちでポケットに手を入れる。すると、ぱんぱんだったはずの包みはなく、すっかりしぼんだ包みが出てきた。慌ててポケットをあらためる。穴が開いていた。道すがら落としてしまったようだった。項垂れて足元を見ると何かがチカリと光る。膝を折り、草をかきわけると、小さな宝石のかけらが落ちていた。丁度どんぐりと同じくらいの大きさで、つまんで日に透かすと青く光った。
屋敷ではたまに茶会が開かれる。奥様と旦那様が親しい友人やゆかりのある人々を招き開くのだ。
茶会が開かれるとなれば、黒兎たちはみな忙しく働くのだが、吾輩はもっぱら警護だとか、外回りの見張りの方に置かれる。へまが許されないためだった。
ご友人を伴った奥様が庭を散策されている。吾輩は遠くからそれを眺めていた。あいにくの天気であった。しもべが数人、傘をさしかけている。奥様の美しい黒髪は、雨粒をはじくほど艶やかで、ゆたかに波打っている。光沢のある黒いドレスから白く細い腕が伸び、傍らに咲く薔薇の花を手で包んだ。身をかがめ鼻先を寄せる。香りを楽しむのだろうと、吾輩は何の気なしに眺めつづけていた。ふと、奥様が顔を上げた。奥様の顔には、右の半分を隠すように黒薔薇の絵柄の仮面が嵌められている。血色の瞳と目が合ったのは錯覚か。次のときにはご友人たちと歓談されていた。冷たい風と共に黒い影が流れてくる。
重い雲の向こうでかすかに光っていた太陽が傾きはじめたころ。招待客の一組がいまだ現れないのだという。出席の連絡は届いている。礼を欠く人物ではない。すでに旦那様がみずから探しに向かっている。
外は雷雨だった。吾輩の他に数名駆り出された。吾輩は、裏の森を迂回する谷筋へと向かった。よく落石がある場所だ。予想は当たり、先に駆けつけた旦那様が壊れた馬車の横で膝を折っていた。招待客であろう、一組の若い男女が横たえられている。吾輩はすぐさま、旦那様のもとへ向かおうとした。しかし足がぴたりと止まった。
「哀れな」
旦那様の声だった。辺りは白くけぶるほどの驟雨であったが、はっきりと聞こえた。生きているのか、果てているのか、吾輩の場所からは判然としない。旦那様のまとう黒いコートは雨を吸い、重く地面に垂れている。そこに、にじむ赤い色から、目を離すことができなかった。
旦那様は非常に大柄な人だった。二人をそれぞれ小脇に抱え、立ち上がる。見てはいけないものを見てしまったと思ったが、吾輩の足は縫い留められたように動かず、頭も呆けていた。旦那様がゆっくりと振り向く。本当にゆっくりと、深くかぶられた中折れ帽の下にある血色の瞳が、吾輩の方へ向かってくる。吾輩は、弾かれたように踵を返し駆け出した。逃げなければいけない。雨が目に入るのも構わずに、ぬかるんだ道を走っていくと、すぐ後ろで声が聞こえた。
「お前は何ものだ」
心臓が、果たして吾輩に心臓があるのか定かではないが、心臓が氷の手に掴まれたような心地がした。旦那様の声だった。谷筋をすぎ森へと入る。木々の間をがむしゃら走っていく。旦那様の声は聞こえなくなったが、気配はぴたりとついてきているようだった。吾輩は屋敷へ戻ろうと思った。しかしその方向に、黒い大きな姿が見えた。反対方向へ走り出す。今度はその先を黒い影が横切る。また別の方へ走る。黒い姿が過ぎる。吾輩は足を止めた。木々が覆いかぶさってくるようだった。雨は止まず、体が震えている。恐怖している。吾輩はもう、動けなかった。旦那様の足音が近づいてくる。そのときだった。腕を強く掴まれたかと思えば、茂みの中に引きずり込まれた。荒い息の音が耳元で聞こえた。何者かに、きつく抱き締められている。すでにずぶ濡れであったが、さらにぐっしょりと濡れた何者かは、吾輩の耳元で「しぃ」と言った。ほとんど空気のもれるような音だった。
吾輩は、その何者かの顔など見えなかったのだが、それが墓守の狐であることがすぐにわかった。剣を鞘から抜く耳なじみのある音に、体の強ばりが解けていく。
途方もない安堵に身をゆだねると、なぜか懐かしさを覚えた。涙が出てくるほどだった。吾輩は、こんな風にして、守られたことがあるのだろうか。狐はどうして、吾輩に親切なのだろうか。背中に回された腕に力がこもり、少々息苦しい。
いつの間にか旦那様の気配は消えていた。吾輩と狐はしばらくの間、茂みの中でじっとして傍にいた。
旦那様は影のように消えてしまった。何一つ判然とせず、悪夢を見た心地で屋敷に戻ると、誰も客人を探している様子はなかった。
翌日、黒兎に二人の新顔が入った。のっぺりとした仮面を嵌め込まれており、機械のような受け答えしかしないが、若い男女のようだった。
ある昼下がりのこと。吾輩は仕事の合間に坊ちゃんの部屋を訪ねた。訝しげにする坊ちゃんへ恭しく一礼をし、用向きを伝える。
「奥様が野駆けに出られるとのことで、本日が決行日です。お伝えした通り」
「聞いていないぞ!」
うっかり伝えるのを忘れたが時間がない。奥様の野駆けは戻られる時間が判然としないのだ。沢山のしもべを伴っての外遊だが、どこへ行っているのかもわからない。慌ただしく支度を済ませた坊ちゃんに、ヒゲの魔女から教わった魔術をかける。吾輩に出来ることなのだから坊ちゃんにも朝飯前かと思われたが、姿見を前にした坊ちゃんはひどく驚いた様子だった。ここぞと偉ぶりたいものだがやはり時間がない。坊ちゃんを連れて裏口から外へ出ると、示し合わせた通り葦毛の馬が四つ足の姿でいた。荷車はつけておらず、鞍を背に乗せている。先に坊ちゃんを乗せ、吾輩も後ろに乗った。手綱を握ると、馬は静かに走り出す。
「坊ちゃん、確認ですが、本日は外の食材を買い求めることでよろしいでしょうか」
「ああそうだ。それから、街の様子を見ておきたい。治安は落ち着いているのか」
「どうでしょう。なぜ、そんなことを気に掛けるのです」
「それもそうだな。とにかく、母君が帰る前に急ぎ戻るぞ」
「御意」
天気が思わしくなかった。濃い霧が立ち込めている。森はやがて険しい崖に差し掛かり、細く崩れかけた道となる。時折風が吹き霧が流れると、目のくらむような絶壁が遥か下の暗闇まで続いている。馬の蹄が地面を削り、こぼれ落ちた小石があっという間に飲み込まれていった。
崖の道を進んでいくと、ぽっかりとした洞穴が目の前に現れた。
「ぼくはここで待っています」
風が霧を伴い、洞穴の中へと流れていく。吾輩と坊ちゃんは馬を下り、先を急いだ。
洞穴は上へ、上へと続いている。吾輩は先に立ち、坊ちゃんと手をつないで歩き出した。坊ちゃんはじっと押し黙っていた。ふと、奇妙な感じがした。足を止め坊ちゃんの顔をのぞき込む。「な、なんだ!」坊ちゃんは声を荒げ、瞳をきつく吊り上げる。葡萄酒色の瞳だ。決して、晴れ渡る空の色ではない。「いえ、気のせいでした」遠くにぽつりと見える光をたよりに進んでいくと、突然、目の前が開け、霧深い林の中に出た。
林の中ほどまでやってくると、木材のきしむ音が聞こえた。見れば帆のついた荷車が停まっている。持ち主らしき男が車輪のところに座り込み、難渋している様子だった。長雨でぬかるんだ地面に、車輪をとられたらしい。吾輩は坊ちゃんを木の影に待たせ、魔女に教えられた変わり身の魔術でさわやかな青年となってから男へ近づいた。
「お困りですか」
吾輩が声をかけると、男は絶叫しながら地面を転がり、泥にまみれながら驚きを全身で表現した。あまりの驚きように少々引くも笑顔は忘れない。身をかがめて手を差し出す。
「お困りであれば手をかしますよ」
「あ、ああ、兄ちゃん、人間か? 驚かせやがって。そんな軽装で、馬もなしで、樹海の魔女に攫われても文句言えねえぞ」
吾輩の手を取って起き上がり、体についた泥を払いながら男が言う。
「樹海の魔女とは」
「ああ。なんだ兄ちゃん、あの魔女を知らないなんて、よっぽど遠くから来たのか? だったら教えてやるが、この林のどこかにある洞窟の先には、険しい谷と樹海が広がってるらしい。その樹海には恐ろしい魔女がすんでいて、おぞましい死者の軍勢を率いているって話だ。夜の女王なんて渾名もある。ただの噂じゃねえぞ。同業者から聞いたんだ。西の王国で商売をしている奴だ。そいつが言うには……」
旅の商人だという男は、まるで吟遊詩人のように抑揚をつけながら語りはじめた。
月のない夜のことだった。
何の前触れもなく、影の中から夜の女王の軍勢が押し寄せてきた。不気味な仮面をはめた兵隊たちは、心臓を貫かれても動き続けた。人々は恐慌し、逃げまどうことしかできなかった。
王はすぐさま騎士団と魔術師団に命じ、死者の軍勢と戦った。力は拮抗したかに見えたが、不死の兵は疲れを知らず、王国は少しずつ劣勢となる。城壁の内に民を集め、守りを固めたものの、敵が入り込むのは時間の問題かと思われた。
危機を切り開いたのは一人の魔術師だった。大詠唱の末に発動された古の月の魔術によって死者たちは跡形もなく消え去り、夜明けの光がうすくあたりを照らし始める。その時だった。黎明の光によって生まれた深い影の中から、樹海の魔女、夜の女王が姿を現したのだ。
「王国の戦士たちはみんな力尽きる寸前だったが、ある騎士だけは剣を手に立ち向かった。渾身の一撃が女王を捉えたが、女王は倒れなかった。騎士はすでに深手を負っていたんだ。女王は顔の半分を失いながらも王子を攫い、現れたときと同じように暗闇に消えていった。力を使い果たした魔術師や騎士、従者の姿も、亡者との闘いに散ったおびただしい数の亡き骸と共に消えちまったらしい。あの王子はなんて名前だったか。そうだ、セオアズール様だ」
セオアズール様。その名前を耳にしたとき、喉が詰まるような、奇妙な感覚があった。後ろで枝を踏む音がする。坊ちゃんが隠れている木の影からだ。興奮気味に語る男は気付かず、泡を飛ばしながら熱心に言葉を続ける。
「女王の狩りは何の前触れもなくはじまる。見目がいいのは狙われやすいらしいから兄ちゃんも気をつけろよ。おれも気をつけてんだからよ。がはは! ……でだな。なんと恐ろしいのは女王だけじゃねえんだ。女王には旦那がいて、こいつが死神伯爵の異名を持ついかれた野郎なんだ。不思議なことにこの二人が一緒にいるところは誰も見たことがないっていうんで、不仲なんじゃないかっていう……」
話は長く続き、吾輩は途中から聞いていなかったが、どうにも西の王国の話や、セオアズールという名の王子にことが気にかかった。
話を終えた男は、次に商人らしく荷車の中身を披露した。遠方から運ばれた珍しい食材や、上質な調味料がそろっている。坊ちゃんから言いつけられたリストの品はすべてあった。街まで行かずにここで済ませることにした。
代金と引き換えに品物を受け取り帰路につく。帰りの道すがら、坊ちゃんはふっつりと黙りこんでいた。
無事屋敷に帰り着くと、坊ちゃんは吾輩に食材の運び込みを命じ、自室へ戻っていった。くたびれたのだろう。吾輩は食材のつまった麻袋を抱え、調理場へと向かった。あの白鼠がいたならば渡そうと思ったのだ。しかし思惑は外れ、あの白鼠はおろか、何者もおらず、がらんとしていた。奥様はまだ野駆けから戻らないのだろう。日をまたぐこともある。好都合であったが、人気のない館の中は少々不気味だった。
吾輩は食品の貯蔵庫へ向かった。貯蔵庫は広いので、どこか目立たないところに隠しておいて、後で白鼠に伝えればいい。庭の菜園でとれたビーツの山の後ろに麻袋をしまい込んでいると、後ろから肩を叩かれた。背筋がひやりと凍りつく。振り向くと白鼠が立っていた。
いつものおどおどとした雰囲気はどこへ行ったのか、広い湖のように落ち着いた目で吾輩を見ている。
「久しぶりだね」
白鼠が言った。吾輩はあたふたとし、何とか頷いた。
「何をしているんだい」
「坊ちゃんの荷物を運んでいた。ほら、あの、外の食材を手に入れてくると約束しただろう」
白鼠はうすく笑ったまま、吾輩が運び込んだ麻袋の横に膝を折り、中身をあらためた。塩や小麦粉、バターや砂糖など日持ちするものが多い。
「うん。上出来だ。きみも出来れば、この屋敷で出される食べ物はあまり口にしない方がいい。何が入っているかわからないから」
白鼠が立ち上がる。麻袋を軽々と持ち上げ、どこかへ運んでいく。吾輩はその背を追いかけた。
「どういう意味だい」
白鼠は前を向いたまま歩き続ける。靴底が立てる乾いた音が廊下に響き、その中に、白鼠の低い声がぼそぼそと紛れ込む。
「あまり猶予がないけれど、諦めてはいないんだ。多分きみもそうなんだろう。私はもうぼんやりとしか、思い出せないが、使命だけは忘れていないつもりだ」
「きみ、ちょっと変だぞ。疲れているのなら休んだほうがいい」
角を曲がった。暗がりにいくつもの扉がある。白鼠の歩みは迷いがなく、一つの扉の前で止まった。吾輩を見てにっこり笑う。
「また菓子作りを教えてくれるかい。一番喜ばれるんだ」
「いつでもどうぞ。だけど今はきみの方が心配だ。大体きみはいつも仕事をしすぎるんだ。坊ちゃんのわがままを一々聞いて差し上げる必要はない」
「ふふ、同じようなことを言われたことが、あったかな」
白鼠は目をどこか遠くへやり、そのまま扉の中へ消えていった。吾輩はしばらく待っていたが、白鼠が出てくる気配はなかった。
翌日。野駆けから戻った奥様が、パーティを開くと言った。新しいしもべや、友人が出来たから、盛大に祝うのだという。黒兎や白鼠をはじめ、熊や栗鼠も戻ってきたが、やけに静かだった。大勢いるというのに誰もいないようだった。
吾輩はいつも通り黒兎の仕事に取り掛かった。もちろん、ヘマをする。仲間たちは呆れて吾輩を追い出す。いつも通りだった。けれど言いようのない不安が、蛇のように足元を這いまわる。なにかがおかしい。パーティのために新調されていく調度が外へ運び出されていく。
不要となった調度品は、日が落ちてから裏の焼却炉で焼かれることとなり、吾輩に一任された。指を振って火を熾す。黙々と調度品を入れていく。炉に入らない大きなものは、鉈や鋸で細かくしてから入れていく。
乾いた材が大きくはぜ、火の粉が空へと舞い上がる。暗い夜空に赤い火がくっきりと浮かび上がる。火だ。頭の中に、たくさんの情景が流れていく。「逃げろ」と、何者かが低く叫ぶ。影と炎の風の中で青い長衣が翻り、暗い手が目の前を覆いつくす。それらはすべて一瞬で消えたが、泥の中へと引きずり込まれる感覚は夢というにはあまりにも生々しい焦燥をともない、吾輩は唐突に決断した。この屋敷を出なければならない。
炉の火を落とした吾輩は、墓地の先にある森へと足を運んだ。鬱蒼とした木々の影がぽっかりと口を開けている。夜の森など吾輩にとっては庭のようなものであったが、慎重に歩を進めた。夜露に湿った草の葉を踏み進んでいくと、吾輩の昼寝スポットである朽ちた大木の広場に出る。丸く切り取られた空に、金色の月が煌々としていた。風が吹き、散らされた木の葉が木々の間に消えていく。目で追っていくと、ぼんやりとした青い灯が見えた。点々と地面に落ちた石が光っているのだった。吾輩がヒゲの魔女から受け取り、ポケットの穴からこぼして歩いた宝石の欠片だった。
吾輩は屋敷へと引き返した。はやくここから、坊ちゃんたちを連れ出さなければならない。満月に照らされた影が長く伸びていく。
明日に開かれるパーティのため、屋敷の中は昼と同じようにしもべたちが蠢いていた。みな表情も言葉もなく、ただ与えられた仕事を淡々とこなしている。見なれた景色であるはずが、吾輩はぞっとした寒気を覚え、なるべく身を小さくしてしもべたちの間を通り抜けた。なぜ、今まで何とも思わなかったのか、不思議でならなかった。足早に坊ちゃんの部屋を目指す。ノックの後返事を待たずに扉を開けると、誰もおらず、がらんとしていた。
吾輩は懐中時計に目を落とした。じき、日付がかわる刻限だった。目に入った扉をがむしゃらに開けていく。気が付くと赤い扉のある廊下に立っていた。扉の前に人影がある。坊ちゃんだった。隣には白鼠が立っていたが、様子がおかしい。
吾輩が駆け寄ると、坊ちゃんは鋭い目で吾輩をにらみ、次の時には扉のノブに手をかけた。当然、施錠されている。坊ちゃんがドアノブを引いても扉はびくともしない。
「坊ちゃん、その扉は開けてはいけません」
「僕はこの屋敷を継ぐことをやめる。この白鼠を連れて、遠くへ行くんだ」
「はあ、そうですか。では外へ出るのですか」
白鼠はぼんやりと佇むばかりで、吾輩を見ることも、坊ちゃんを見ることもしない。白い料理人の制服の胸元に暗い赤色のシミがぐっしょりと染み込み、よく見れば今も広がっていた。鼻を近づけるとワインの匂いがする。奥様がしもべたちに振る舞う甘いワインだとわかった。
「そうだ。それから、帰るんだ」
「どちらへ」
白鼠の頬は氷のように冷たく、生きているのか、死んでいるのか、わからなかった。坊ちゃん以外には辛辣で冷ややかな言葉ばかりを紡ぐ唇もかたく閉ざされている。
「帰るんだ!」
坊ちゃんは拳でドアを叩き、肩を震わせていた。吾輩は坊ちゃんの肩に手をそえた。いつもならば即座にはたき落とされるところだが、坊ちゃんは静かに鼻水をすする。
吾輩は床に膝をつき、坊ちゃんへ頭を下げた。こんなことをしたことはないはずだが、身に馴染んだ動作だった。覚えのない郷愁に目頭が熱くなり、奥歯を噛みしめる。
「あなたが望むのならば、わたくしはそれを何でも叶えましょう」
振り向いた坊ちゃんは顔をくしゃくしゃにして迷子のように泣いていた。ふと、吾輩はポケットに入れていた青い石のことを思い出した。
『天も地もわからなくなったのならば青い灯を目印にしたまえ』
ヒゲの魔女の言葉が耳元で聞こえた。石を取り出し坊ちゃんの手に握らせる。すると、坊ちゃんの手の中で、石が光りはじめた。美しい青の光があたりを照らす。吾輩が持っていた時とはえらい違いである。
不意にカランという音が聞こえた。見れば床に仮面が落ちていた。白鼠の仮面だった。
坊ちゃんは涙にぬれた目で吾輩を見つめた。眦から涙のつぶが零れ落ちる。赤い涙だった。紫色をしていた瞳から色が溶けだし、あとに残ったのは、晴れ渡る空の色だった。「我が青空の君」吾輩は少々乱暴に坊ちゃんの頬と目元をぬぐった。
「信じがたいかもしれませんが、吾輩が、あ、ごほん。わたくしが、外までご案内いたします」
吾輩は坊ちゃんたちに背を向け走り出した。
後ろから足音が二つ着いてくるのを確かめながら、無数にあるドアを迷いなく開けていく。吾輩は屋敷付きの黒兎であり、主鍵なので、どの扉がどこへ通じているかすべてわかるのだった。今までは疑問を持つこともなかったが、屋敷の扉に鍵などはかかっておらず、強い魔術が施されている。一度施された魔術を解くことができるのは、魔術をかけた本人か、それよりも強い力を持つ魔術師だけである。魔術とはそういうものなのだ。
正面のエントランスはパーティの準備を行うしもべたちでひしめき合っている。吾輩たちはひっそりと、裏口から外へ出た。冷たい夜風が頬を打つ。明るい月の光が墓地へ、その先の森へと続く道を照らしている。
注意深く当たりの様子をうかがっていると、道の先に人影があることに気付いた。見なれた影はゆったりとした足取りでこちらへ向かってくる。墓守の狐だった。ほっと胸をなでおろした次の瞬間、頭上から剣が振り下ろされる。吾輩は、転がり逃げようとしたのだが、後ろの二人が動けずにいる。吾輩はばっさりと切り付けられた。不思議なことに痛みはなく、見れば、上着の前身頃が裂けるにとどめられているではないか。さすが吾輩である。薄皮一枚で済んだ吾輩は二人を後ろにかばう姿勢で狐を見上げた。満月を背に立つ狐は、小麦色の髪を輝かせており、きれいだった。右手に握られた銀色の剣が月光をはじく。口元から襟まで、白鼠と同じように暗い赤色に染まっている。
窮地であったが、狐は緩慢にしか動かず、壊れた人形のようにぎちぎちと刃を留めていた。足元になにか落ちている。ヒゲの魔女のパイから出てきた人形だった。ぼんやりとした青い光が広がっていく。狐が頭を抱えて呻きはじめる。吾輩は指笛を鋭く鳴らした。半ば賭けであったが、葦毛の馬は来てくれた。軽快な足音はほどなく姿を現し、吾輩の頬に鼻先をすり寄せる。吾輩は、馬と額を合わせ少しだけ目を閉じた。
「この先の森に青く光る道がある。光を目印に進むんだ。頼んだよ」
背に坊ちゃんと白鼠を乗せた馬に言って聞かせる。馬は少しだけためらうように足を踏み鳴らした後、小さく嘶き、走り去って行った。
狐は未だ、苦しげに呻いている。剣を握る手はぶるぶると震え、よく見れば爪が剥けるほど食い込み、血が流れていた。吾輩は狐と距離を取りながら、ゆっくりと森の入り口へ歩を進めた。狐もゆっくりとついてきた。仮面はすでに落ちているようだった。
狐には今まで、色々と世話になった。借りを返さないのは吾輩の流儀に反する。暗い木蔭に入ったとき、吾輩は魔術で姿をかえた。霧の森で出会った商人の姿を借りることにした。
狐はしばらく、寝ぼけたような顔で商人となった吾輩を見ていたが、やがて左右を見回しはじめた。吾輩はぐっと、込み上げる心を押さえて、言った。
「仮面をつけたイカした兄ちゃんたちなら、あっちの、青い灯がともった道の先にいったぜ」
人差し指で示して見せると、狐はのろのろと、青い灯の方へ歩いて行った。
吾輩が落としたどんぐりたちは、青く光る宝石のかけらとなり、暗い森の夜道の道しるべとなって辺りを照らしていた。狐の背中が青い道の先へと消えていく。ふと、狐が振り向いた。吾輩をじっと見つめている。思えば助けられてばかりだったのだ。借りを作ったままというのは吾輩の流儀に反するのだ。せいぜい、みな達者でいるといい。吾輩は狐に手を振った。吾輩の後ろから攫うような風が吹き、青い灯がふっと消える。狐の姿も消えてしまった。
残された吾輩ではあるが、吾輩はもとより孤高な存在である。一人であっても何も、問題はないのだ。目元をぬぐい振り向くと、暗闇がぞろりと蠢いた。旦那様が立っていた。大きな黒い手が吾輩の顔を鷲掴みにする。
音が消え、光が消え、それきりなにもわからなくなった。
吾輩は黒兎。とある屋敷で働いている。そこそこの古株ではあるが朝から晩までこき使われ、今日もまた、物言わぬてきぱきとした同胞たちを引き連れ、奥様が目をつけた街々をめぐっている。奥様は人を探しているのだ。息子なのだという。見つけ出し連れ戻すことが吾輩に与えられた責務であった。とはいえ、写真はおろか肖像画の一枚もない。目印といえば青空のような見目の少年であること。ただそれだけだった。
これまでにも何名か、それらしき少年を連れ帰ったのだが、奥様が頷くことはなかった。吾輩も、奥様が求める坊ちゃんではないだろうと思いながら連れ帰っていたため、少年たちはきちんと自宅へ送り届けている。善行のつもりであったが仇となり、見目の良い少年が攫われていると噂が広がってしまった。世知辛いものである。
今宵もまた奥様の坊ちゃんを探して、青空のような子どもの元を訪れる。
満月の夜であった。本日の子どもは、子どもと呼ぶにはいささか年嵩の青年であった。とある西の国の王子らしく立派な城に暮らしている。不用心にも大きな窓を開け放っている。吾輩はしめしめとバルコニーの影に湧き、風と共に窓から入り込んだ。
白と青の典雅な調度品が美しい部屋だった。中央にある寝台へ近づく。寝苦しかったのだろうか。天蓋の紗幕までもが半分開いているではないか。吾輩はそっと、寝台の中をのぞき込んだ。月明かりに光る絹の寝具の中で青い双眸が吾輩を真っすぐに見据えていた。罠だったのだ。しかし吾輩は確信した。彼こそが奥様の坊ちゃんなのだと。
「ぼ、ぼっちゃ、おごっ」
歓喜すると同時に顔面にピローがめりこむ。ヒビの入る音がした。魔術の込められたピローはかつての投擲よりも遥かに重く、吾輩は上品な織りの絨毯に無様に倒れる。果たして『かつて』とは、経験などないはずなのに奇妙な思考をしたものだと、痛みに耐えている間に腹部にどすりと衝撃が走った。見るまでもなく王子、いや、坊ちゃんである。吾輩の腹に馬乗りとなった坊ちゃんは、吾輩の襟元を掴み乱暴に揺さぶった。
「その呼び方は、いい加減にやめろと、言ったであろうが!」
なにやら涙声の叫びが耳をつんざき、ぽたりと、吾輩の顔になにか落ちてくる。頬を伝い口へと入った水は塩辛い。坊ちゃんは顔をくしゃくしゃにして怒り心頭の様子で泣いていた。吾輩はなぜか、うっかり笑ってしまい、さらに坊ちゃんを怒らせる。
怒り心頭の坊ちゃんの声の後ろで扉の開く音がする。いよいよ、不利である。吾輩は影を伝って屋敷に戻ろうと試みたが、なぜかうまくいかず、ならば坊ちゃんの影を使おうと手を伸ばすと、氷の刃のようなナイフが影に投擲された。見れば、従者とおぼしき青年が部屋の入口に立っているではないか。後ろには幾人もの騎士が控えており、窮地である。
吾輩は半ばあきらめの気持ちで絨毯の上に長く伸びた。吾輩を迎えにきた死神だろうか、静かな足音と金具の触れ合う音が聞こえてくる。視界のすみで深く青い長衣の裾が揺れている。ちらりと見上げると、死神ではなく、若草色と目が合った。若草色の瞳の騎士は、腰に帯びた剣をすらりと抜いた。迷いなく刃が突き立てられたのは、吾輩の顔の横すれすれのところであった。吾輩の影がもっとも濃い場所である。奥様の絶叫が聞こえた。吾輩の影は奥様のもとに繋がっているのだ。ヒビが広がる音がする。ぱきぱきという音は止まらず、やがて割れた。仮面が吾輩の顔から割れ落ちた。目の前が真っ白になった。
吾輩は王子の寝込みを襲った罪人である。
目覚めた後、獄中での生活がはじまるかと思われたが、吾輩には立派な部屋が与えられ、あまりにも念入りな治療が施された。長年にわたる使用人生活は吾輩の心身を思いのほかむしばんでおり、手放しの自立歩行が出来るまでに数えきれないほどの寝起きをした。
「やはり記憶は戻らないかもしれません」
「ええい、何度も言わせるな。なんとかしろ。時間と金はいくらかかっても構わん」
「ですが負荷が大きく」
「ならばはじめに言った通り目覚めの魔女に使いを送る。今すぐにだ」
「それだけは」
吾輩が今わの際をさ迷っている間、坊ちゃんと医師たちの会話がぼんやりと聞こえていた。
高度な魔術と医術による治療である。夢うつつに高額請求を恐ろしく思っていたが、今のところ金銭にまつわる求めはない。それどころか仕事と役職が与えられ、終日にわたる護衛までつけられた。これまでの生活を思えば雲泥の差である。とはいえ右も左もわからない病み上がりの新参者にはいささか荷が重く、へまも多いのだが文句を言うものはおらず、みな深々と頭を下げるため気味が悪い。加えて若草色の目をした護衛の視線が強く気が休まる時がない。
「ふん、元々貴様の持ち場であるし、貴様の功績を思えば当然だ。そのからっぽの頭の中からさっさと重要な記憶を掘りだして王国に貢献するがいい」
日に数回、吾輩を見に来る坊ちゃんが度々口にする文言であったが、吾輩にはさっぱり意味が分からない。きっと誰かと勘違いをしているのだ。気の毒に思い見つめていると手近にあったクッションが投擲される。十回を数えたあたりで躱せるようになった。吾輩の後ろにあった献上品の高そうな壺が木っ端みじんとなり、あの威力を顔面で受け止めていた我が身を誇らしく思う。
吾輩は仕事に飽きると、昔の城壁が残る森の中へと逃げ込み昼寝をした。護衛は魔術でまくのだが、なぜかいつも見つかってしまう。春の魔女が住む大木のあたりに近付くと手伝いを求められるため、静かな泉のほとりを選ぶ。
連れてきた葦毛の馬を離してやると、吾輩の頬に鼻先をすり寄せてから自由にしはじめる。吾輩は泉の水に手をひたした。鏡のような水面に吾輩の顔が映り込む。ふと、兎の仮面をつけた吾輩の姿が見えた。水から引き上げた手で顔に触れる。当然、仮面などは嵌めておらず、冷たい水が目元や頬を濡らした。
吾輩は深く安堵して草の上に寝転んだ。草を踏み近付いてくる足音を聞きながら目を閉じる。長い悪夢を見ていた心地がする。
ラビットフット 玖萬川 @kuma-kawa
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