転生建築旅行記 迷子の私と風の街
シャーリーAコックス
第一章 迷子の始まりと異世界の扉
第1話 見えない建築の力
何かに満たされている――。
その空間に足を踏み入れた瞬間、健太郎はふわりと体が浮くような感覚を覚えた。
パリのノートルダム大聖堂――それは、絶対的な威厳を備えた力強さと、静謐で包み込むような優しさを併せ持つ建築だった。大理石の床から天井へとまっすぐ伸びる柱たちは、細やかな装飾をまとい、交錯するアーチの連なりが聖堂を支えている。ステンドグラスを透過した光は、柱の陰影に複雑な模様を描き、空へと引き込まれるような浮遊感を生み出していた。
目の前に広がる礼拝空間には、壮大なバラ窓から降り注ぐ美しい光に包まれ、大勢の観光客がひしめく中でも、自分だけが特別な場所にいるような感覚を抱いた。
その瞬間、健太郎は“建築”というものの力を少しだけ理解した。言葉にならない感動が鳥肌となって全身を駆け抜けていく。
初めての一人旅、初めてのパリ。
1994年、夏――。健太郎の冒険は、ここから始まった。
2024年、夏――。
「暑い……蝉うるさい……あー、めんどくさっ……」
女子高生のゆうきは、なぜこんな状況に陥ったのか、自問自答していた。
親の海外転勤についていくのを拒んだ結果、千葉県に住む叔父・三好健太郎の家に居候することになったのだ。健太郎は建築家で、物静かで落ち着いた雰囲気を持ちながらも、気さくに笑う優しいオジサンだ。とはいえ、その妻――キャリアウーマンとして家事も仕事もこなす叔母に度々叱られている姿を目にして、少し頼りない一面も垣間見えた。威厳ある建築家でも、生活面では抜けているらしい。
4歳年上のいとこは地方の大学に通っていて、普段は家にいないが、ゆうきが引っ越してきたとき、夏休みで帰省していた。彼女は自分の部屋を快く貸してくれ、ほとんどの荷物を納戸に移して、代わりにゆうきの荷物が空いた場所に収まった。
「本棚はそのままでごめんね、好きなもの読んでいいよ」
そう言われたが、ゆうきはまだ遠慮がちだ。他人の家具と自分の荷物が同じ部屋にある感覚は奇妙だった。それは、バランスを保ちながら辛うじて成立している積み木のようで、混ざり合うことなく、ただ並べられている。
ゆうきは高校2年の1学期が終わる間際、些細なことで友達と喧嘩をしてしまった。その後、気まずさから学校に行けなくなり、そのまま夏休みに突入。たった一度の誤解――言葉の行き違い、思い違い……。
「こんなことなら、アフリカでも中国でも、親の転勤について行けばよかった……」
親の転勤が決まったのは1年以上前だった。そのときは、まさか自分が引きこもることになるなんて想像もしていなかった。卒業までみんなと楽しく高校生活を送りたいという一心で、親にはついて行かず、健太郎の家から通うことにしたのに……。
「もうすぐ9月か……新学期が始まっちゃう……」
1学期を1週間ほど休んだだけだったが、その後の夏休みは予定がすべて消えた。心配して連絡をくれた友達のLINEにも返事をしなかったら、いつの間にか誰からもメッセージが来なくなった。クラスのグループLINEの通知だけが増えたが、夏休みに入るとそれすら減ってしまった。
「……まぁ来ても返さないけど」
家に引きこもって映画を見て、YouTubeをだらだらと眺める日々。お盆を過ぎ、家族は世田谷のマンションを引き払い、海外へ飛び立っていった。笑顔で出発する両親の姿が、なんだか腹立たしかった。
自分の荷物はほとんど郵送し、1日分の衣類を詰めたカバンひとつを抱えて叔父の家へ向かった。世田谷以外に住んだことはないし、住もうとも思っていなかった。だが、現実は希望通りにはならない…。
電車を3度も乗り換え、最後に乗ったのは2両編成の単線の電車だった。父が「千葉パイレーツの本拠地か~、いいな」とよくわからないことを言っていたが、ゆうきは適当に聞き流していた。
単線の電車に揺られて20分、終点の駅に着くと、そこは平屋建ての赤い屋根の小さな駅舎だった。
「今どき、こんな駅あるんだ……異世界に飛ばされたみたい」
魔法でも使える人がいるんじゃないか、なんて考えて、ゆうきは自嘲気味に笑った。
「あー、異世界転生マンガの読みすぎだな……」
改札を出ると、叔父夫婦が迎えに来てくれていた。車に乗り込み、駅から5分ほどの距離を移動する間、ゆうきは最大限の笑顔を作り、気持ちを隠した。学校を休んでいることは、すでに親から伝わっているかもしれない。今は、新型コロナやインフルエンザなどの言い訳も通じる時代だ。適当にごまかせば、なんとかなるはずだ――たぶん。
車窓の向こうに流れていく景色は、ファンタジーの異世界ではなく、どこまでも現実の街だった。
(ま、ぼんやり、のらりくらり、愛想笑いで乗り切ろう……)
ゆうきはそう心の中でつぶやき、ぼんやりと景色を眺めた。
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