第37話



「はーい?」


 ノックすると、部屋の中から光葉の声が聞こえた。


「入るけど、全裸じゃないよな?」

「……私、そんな趣味はありませんから」


 俺は安心して部屋のドアを開けた。


「ほら、夕飯だよ」


 ベッドで横になっていた光葉が身体を起こす。


 俺は食事の載ったお盆を両手で持ったまま、ベッドの横に置かれた椅子に座った。


「……わあ、すごいです」


 光葉が目を輝かせて、お盆の上の食事を見つめる。


「光葉が教えてくれたことを思い出しながら作ったんだ。……まあ、あんまり上手くはいかなかったけどな」


 たまごやきは形が崩れ、味噌汁の豆腐も歪んでいる。お世辞にも美味しそうには見えなかった。


「そんなことありません。先輩、ありがとうございます。私のわがままを聞いてくれて」

「気にするなよ」

「このたまごやき……破廉恥な焼き目をしていますねぇ……フフ、失礼ですが、少し興奮してきましたよ……じゅるり」

「うるせえよ。いいからさっさと食え」


 俺はお盆をそのまま光葉に渡した。


 光葉はそれを膝の上に置き、あ、と小さく声を上げた。


「……先輩」

「どうした?」

「これも先輩が作ったんですか?」


 光葉はお盆の上の一品を見ながら、少し驚いたように言った。


「ああ、そうだよ」


 光葉が見ていたもの。


 小皿に盛りつけられ、美味しそうな湯気を上げているそれは、ご飯を柔らかく煮込んだ料理―――おかゆだった。


「おかゆの作り方なんて、教えていないのに……」

「ああ、だから味は保障できないけどな。本当にご飯を煮詰めただけだから」

「どうしておかゆを?」

「だってお前、朝は5杯もご飯を食べてくるほど白飯が好きなんだろ? だけど、病人にそのまま白飯を食わせるわけにもいかないと思ったから、おかゆにしたんだ」

「……ありがとうございます、先輩」


 光葉は小さく微笑みながら、呟くように言った。


「いいから早く食えよ」


 俺はなんとなく恥ずかしくなってそう言うと、光葉は微笑んだままお盆の上のスプーンを手に取った――が、なぜかそのまま手を止めた。


「先輩」

「どうした?」

「私、病気で弱っているので手が上手く動かせません」

「何バカなこと言って――」

「だから、先輩が食べさせてください」


 光葉の顔を見ると、澄ましたような表情をしていながら、その口元には少し笑みが浮かんでいた。


 こいつ……。


 俺はため息をついて、光葉からスプーンを受け取った。


「分かったよ。ほら、口を開けろ」


 スプーンでおかゆを掬う。


「ちょっと待ってください、先輩」

「え?」

「そのおかゆ、まだ熱いでしょう?」

「まあ、温かい方が良いかと思ったんだが……」

「実は私、猫舌なんですよ」

「え、そうか? 味噌汁とか熱いままがぶ飲みしてた気がするけど。あと白湯とか飲んでなかった?」

「私は猫舌なんですーっ!」


 光葉が有無をいわせぬ迫力で言う。


「あ……うん、猫舌なんだな。それで?」

「だから、熱いままじゃ食べられません」

「と言うと?」

「ふーってしてから食べさせてください」

「は……はあ?」

「だから言ってるじゃないですか。ふーってしてから食べさせてください」


 そう言って光葉は俺の方に顔を向け、自分の口元を指さした。


 やれやれ。


 ここは後輩のためにひと肌脱いでやるか。


「はいはい、分かったよ」


 俺はスプーンのおかゆに息を吹きかけ、冷ましてから光葉の口元に運んだ。


 おかゆを口にした光葉は、もぐもぐと口を動かしながら満足そうに微笑み、そしてすぐ次を催促するようにまた口を開けた。


 まるで鳥に餌をやってるみたいだなと思いつつ、俺はおかゆを光葉に食べさせた。


「先輩、次はたまごやきが食べたいです」

「たまごやきだな」


 スプーンでたまごやきを小さく切り分け、光葉の口へ。


 甘くて美味しいです、と光葉が笑った。


「お味噌汁も食べたいです」


 味噌汁をスプーンでひと掬い、光葉に食べさせる。


 光葉は細い喉が上下させて、静かに味噌汁を飲み込んだ。


「味はどうだ?」

「美味しいですよ。お豆腐も頑張って切ってくださったんですね、先輩」

「……まあな。インスタントの味噌汁なら、もっときれいな形の豆腐が食べられたんだが」

「いえ、私は先輩が作ってくれたお味噌汁の方が好きです。お味噌汁だけじゃありません。おかゆも、たまごやきも」

「ふーん、そうか」

「はい。そうなんです」


 光葉は少し顔を赤くしてから、続けるように言った。


「……私も以前は、インスタント食品ばかり食べていたんですけど」

「え?」


 思わず訊き返してしまった。


 光葉がインスタント食品なんて、まったく想像がつかない。


「私の両親は仕事ばかりで、ほとんど家に帰らない人たちでした。家の中も荒れ放題で、学校の行事なんて一度も来てくれたことはありません。ご飯も、インスタント食品か菓子パンなんかが用意されていればありがたい方でした。お母さんの手料理なんて食べたことなかったんです」


 光葉は静かに話し続ける。その口調には、どこか寂しさが滲んでいた。


 俺は黙ったままスプーンを置いた。


「小学生の頃、お腹が空いて夜中に何度も目を覚ましたことを覚えています。でも、家には私一人しかいませんでした。お腹が空いた、と言える人は誰もいなかったんです。そして、いつの間にか両親は離婚していて、私は父方の祖父母に引き取られることになりました」


 ふう、と息をついて、光葉は言葉を続けた。


「おばあちゃんは私に美味しいご飯をたくさん食べさせてくれました。お料理も教えてくれました。おかげで今、私はこうして生きていられるんです。相変わらずインスタント食品は苦手なままですけどね」

「そう……だったのか」


 親代わり。


 光葉のおばあちゃんがそう言っていた意味がようやく分かった。


 茫然としている俺の手から、光葉がスプーンと味噌汁を取り上げ、また一口飲んだ。


 そして、このお味噌汁とっても温まりますね、と俺に微笑む。

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