第35話



「あー、具合悪いです……せっかくシャワー浴びてすっきりできたのに、誰かさんのせいで余計な汗をかいてしまったから……誰かさんのせいで……」

「だから事故だって言ってるだろ!」


 ところ変わって光葉の部屋。


 寝間着に着替えた光葉は、ベッドに横になりながら俺をジト目で見つめている。


「事故は事故でも限りなく故意に近い事故ですね。普通は、お年頃の女の子がシャワーを浴びているなら、脱衣所に入る前はノックをするものです」

「しかしだな、風邪を引いている後輩女子が身に着ける物が無くて困っているなら、一刻も早く届けてあげなければと思うのが先輩のやさしさというものだ。俺の親切心に感謝して欲しいね」

「うーん、難しい話をされると頭が痛くなるのでやめてください」


 そう言って、光葉は布団を頭からすっぽり被る。


 次の瞬間、ぐるるるる……という獣の鳴き声みたいな音が部屋に響いた。


 俺は一瞬耳を疑った。


「光葉、ペットでも飼ってるのか?」

「……ある意味では、飼っていますね。お腹に『食欲』という名の猛獣を」

「つまり?」

「お腹空きました、先輩。何か食べ物をください」


 布団の隙間から顔をちょこんと出し、俺に懇願するような目を向けてくる光葉。

反則技だろ、それ。


「分かった分かった。待ってろ、俺の部屋にレトルトのお粥とかがあったと思うから取ってくる」

「待ってください、先輩」

「何だよ。お腹空いたんじゃなかったのか?」

「お腹は空いています。でも……レトルト食品はイヤです」

「わがまま言うなよ。風邪なんだから、それくらいでいいだろ」


 光葉の手が、俺の袖を軽く引っ張る。


 それから、俺の人差し指をそっと握り直した。


「先輩が作ったご飯が食べたいです」

「……何……だと……!?」


 けほけほ、と光葉が咳をする。


 それから上目遣いで俺を見上げた。


「ダメ……ですか?」


 人差し指から光葉の体温が伝わってくる。心臓の音さえ聞こえてきそうだった。


「いやでも……俺、料理は……」

「どんなものでもいいんです。先輩が作ってくださったものなら。それを食べたら、きっと私、元気になります。ね、お願いです、先輩」


 弱々しく言う光葉を前に、断るわけにはいかなかった。


 俺は頷いた。


 それを見て、光葉は安心したように微笑んだ。


「……じゃあ俺は買い物に行く。お前はちゃんと寝てろよ」

「はい、分かりました……あっ」

「どうした?」

「あの、タンスの上にエプロンがありますから使ってください」


 光葉に言われた通り箪笥の上を見ると、見覚えのあるエプロンがおかれていた。


 だけど、一点だけ以前と変わっている点があった。


 エプロンの裾――目立たない箇所に、『M.H』の刺繍が入っている。


 『M.H』――召野偏、俺のイニシャルだ。


 先輩のイニシャルとか縫っておいた方がいいですか、なんてことを光葉が言っていたのを思い出す。


 まったく、こいつは。


 ベッドの方を見ると、光葉はもう目を瞑って穏やかな寝息を立てていた。


 仕方のないやつだ。


 俺はスマホを取り出して、とある連絡先に電話した。


 ワンコールもしないうちに応答があった。


「どうしたのお兄ちゃん何かあったの!? テロリストに拉致られた? それともUFOに攫われて別の惑星に行っちゃったとか? でも大丈夫、お兄ちゃんがどこへ連れ去られてもあたしが絶対助けてあげるから! ええとお兄ちゃんの現在位置は……あれ、お兄ちゃんが住んでるマンションじゃん。ということはアレかな、光葉さんに何かあったパターン?」


 すさまじい早口でそうまくしたてたのは、妹の零だった。


「察しが良くて助かるよ、我が妹。実は光葉が風邪を引いて寝込んでるんだ。それで俺が今から買い物に行くんだけど、その間光葉の様子を見ていてくれないか?」

「うん了解。あ、でも代わりに私が買い物行ってもいいよ?」

「いや、掃除とか色々頼みたいこともあるんだ。悪いけど急いで来てくれるか?」

「安心して! もう向かってるから! お兄ちゃんの現在位置くらい把握しておくのは妹の務めだよ!」

「そうかそれは心強いな。だけど俺の現在位置を特定するのはやめてくれないか。プライバシーもクソもないから」

「うん、考えとくね!」


 返事と同時に、通話は向こうから切られた。


 それから数分後、玄関のチャイムが鳴った。


 ドアを開けると制服姿の零が、夜風に金髪をはためかせながら立っていた。


「……いくらなんでも早すぎないか?」

「ふっふっふ、こんなこともあろうかとマンションの裏口でスタンバってたんだよね」

「出番が無かったらどうするつもりだったんだ」

「その時は合鍵でお兄ちゃんの部屋に忍び込んで、寝起き妹添い寝ドッキリを仕掛けるまでよ。色々作戦は考えてあるんだからね、あたしをナメないでよ。あ、でもお兄ちゃんなら特別にちょっとだけ舐めさせてあげてもいいよ、鎖骨の辺りを」

「俺には妹の鎖骨を舐める趣味もなければそんな性的嗜好もないから安心しろ」

「で、光葉さんは?」

「部屋で寝てる。部屋の掃除を任せたいんだが、良いか?」

「任せてよお兄ちゃん」


 零が平らな胸を張る。


「悪いな。後は頼んだ」


 妹と固い握手を交わし、俺は光葉の部屋を出た。


 代わりに部屋に足を踏み入れた零が悲鳴を上げるのが聞こえた。


 部屋の中はあの惨状だからな、仕方ない。騙したみたいで悪いけど助かったよ、零。


 さて。


 今、俺が向かうべきは近所のスーパー。


 買うべきものは必然的に決まっている。


 光葉に作ってあげられる料理――俺が今まで光葉に教えてもらった料理の、材料だ。




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