第四章

4-1  昇華した想いが目指す先は

『相手を想うからこそ、苦難も障害もその相手の一部として愛し、そして共に力強く歩むことを選ぶ愛』

 それは、愛加里さんが『竹邉』へと送った作品、そして僕がかつて書いた『ぬくもりは珈琲色』の両作品と、ほぼ正反対の意味合いとなるテーマ。

 端的に言えば、それは愛情や人生観を哲学的に表現した、いわゆる『愛の美学』だ。

 共に歩まず、その直線的で直感的な感情にほだされることなく、己が不幸となってもその『真の愛』を貫くという、『美学中の美学』。

 しかし、それを客観的に見てみれば、それはある意味、己に対して『嘘』をついている状態だとも言える。

 人の価値観は千差万別。

 どのように愛すか、何を以って愛とするかは、その潜在的な感性に委ねられる。

 さらに、それには時に『嘘』が伴うのだ。

 物書きは嘘つきだ。

 僕はそうして、『美学』だと伊達に振る舞う『嘘』に酔って、いままでたくさんの大切なものを見失ってきた。 

 そして、ついに僕は気がつけたんだ。

 彼女の、あの真っ直ぐな瞳に出会ったことで、自分の愛し方、人としての在り方を知ったんだ。

『苦難も障害もその一部として愛し、そして共に力強く歩むことを選ぶ愛』

 『竹邉』へと挑ませたこの新たな物語は、その想いを昇華させて紡ぎ出した、僕が僕に示した愛加里さんへの道標だ。

 物語の舞台は、大学。

 主人公の男性は、あまり感情が豊かでない大学生であり、なんとなく送る学生生活に辟易すらしている。

 そして、ヒロインの女の子と出会うのは、大学附属の図書館だ。

 その図書館で、まるで絵画のように清廉であどけないそのヒロインに彼は心を奪われ、そして彼女との邂逅を求めて何度も用事の無い図書館を訪れる。

 ある日、とあることがきっかけでふたりは話すようになり、そして静寂な図書館の中で少しずつ交友を深めてゆく。

 あるとき、彼はその想いを口にする。

 しかし、彼女からの答えは――。

『嬉しい。ほんとに嬉しい。でも、悔しい。私には、あなたのその気持ちに応える資格が無い』

 ヒロインに語らせた、愛加里さんと同じ『資格が無い』という言葉。

 それは、ヒロインが持つ、あるハンディーキャップが言わせた言葉だ。

 そして、この主人公の大学生は、そのハンディーキャップを障害と捉えず、それを彼女に内在する愛すべき個性だとして、全身全霊を捧げてその想いを彼女へと向けるのだ。




「なんとか……、間に合ったな」

 思わず出た独り言。

 見ると、本棚の時計の表示はちょうど午前二時を示していた。

 カーテンを閉め忘れていたリビングの窓の外では、点滅になった高架下の信号機がなんとも無味にそのサイクルを繰り返している。

 『竹邉』の締切は、今日。

 当日の消印まで有効なので、今日中に郵便に乗せれば間に合う。

 僕は、ようやくこの日を迎えられたことに小さく安堵の息を吐きながら、すぐに原稿データを奏さんへと送信した。

 午前中に超特急で最後の目通しをしてくれる約束だ。

 そして、メーラーの表示が無事に送信済みになったのを確かめて、僕はそのままゴロリと横になった。

 ぼんやりとした天井から降る、シーリングの白い光。

 そうして、徐々に意識が遠のき始めた、そのとき。

【お疲れさま。原稿データ、受け取りました。やっと完成ね。いまからすぐに読むわ。あなたは少し眠りなさい】

 真夜中だというのに、ほぼリアルタイムのメッセージ。

 思わず飛び起きた。

 奏さんだ。

 もしかして、起きて待っていてくれたんだろうか。

【ありがとうございます。でも、いまから読んでくださるのなら、僕は起きて待っています】

【そう? それでは、おとといに読ませてもらったときから大きく変えた部分があるかしら】

【ラストの駅のシーンをかなり変えました。そこだけは奏さんはまったくの初見になります】

【分かったわ。では、ユレと閉じ開きについてはその都度メッセージするので、全文を一括置換で修正して。最後まで読まないと分からない細かい整合性などはあとでまとめて送ります】

 ありがたい。

 最後の最後に修正する時間がとれるようにと、いまから徹夜で校正をしてくれるらしい。

 思えば、愛加里さんの作品は最後にこうやって読んであげられなかった。

 不意に出た、小さな溜息。

 そうしてゆっくりとキッチンへ目をやると、あの日、そこで朝食を作ってくれていた彼女の後ろ姿がふわりとした。

 おもむろに立ち上がり、それを追う。

「愛加里さん、『ぬくもり』、一緒に飲まない?」

 ひんやりとしたキッチンに浸潤した、返ってくるはずもない問い。

 そして僕は、袋の底に最後二杯ぶんの『ぬくもり』が残っていることを確かめて、それからじわりとミネラルウォーターを火に掛けたんだ。




『季節は巡る』

 使い古された表現だが、いまの僕には響かない。

 僕の渾身の作品が『竹邉』へと挑む旅に出て、サンタを歓迎する楽し気な調べが街角を賑わし、さらに、新たな年を迎える厳かな鐘の響きが澄んだ冷気を清らかにしても、僕の季節はまったく巡らなかった。

 実家へは帰らず、マンションで『くだらない異世界』のラストを執筆しつつ、彼女からのメッセージを待った年末年始。

 なんの音沙汰も無いまま迎えた仕事始めの日の夕刻、そのメッセージは突然に僕のスマートフォンを鳴らした。

【二次審査で落ちました】

 一瞬、ドキリとした。

 愛加里さんだ。

 ずいぶん久しぶりの、彼女からのメッセージ。

 クリスマス前まで数日置きだったそれは、実のところいまはもう無いに等しい。

 それを見て、やや当惑する。

 落選?

 『竹邉ノベルズ文学賞』は、かなり敷居が高いコンテストで他のコンテストと比較すると応募総数はそう多くはないが、それでもその数は百数十を超える。

 ちょうどいまは、下読みさんたちが名作を見逃すまいと目を皿にして、二次審査へと向かわせる作品の抽出に奮闘しているころ。

 つまり、この『落選』の知らせは『竹邉』のことじゃない。

 講師控室の窓から見える古巣のキャンパスを見下ろしながら、くるくると思案すること数秒。

 そしてすぐに、それがあの『竹邉』の前に別のコンテストに応募した作品のことだと分かった。

 そうか。

 あれは落選だったか。

 彼女と僕の縁を繋いでくれた、『アルフヘイム』で突貫工事の修正を行った、思い出の物語。

 僕はすぐに、その答えを返す。

【ご苦労さま。きっと『竹邉』は大丈夫だよ。絶対に賞を獲れる】

 そして、じっとその画面を見つめた。

 その向こうには、漆黒に追われる夕日の残光を映す、大学附属図書館。

 僕の新作に登場させた図書館のイメージとして使ったそれだ。

 待つこと、数分。

 しかし、やはり彼女からの返信は無い。

 小さく息を吐いて帰り支度を始めると、この週末に共通テストを受験する子たちが挨拶をしに来てくれた。

 以前、僕の講義を受講してくれていた子たち。

 みんな、試験へと挑む最後の追い込みに、その瞳を爛々とさせている。

 それからすれば、いまの僕は抜け殻だ。

 抱えているのは、あの『ぬくもりは珈琲色』がどこかの著名な評論家から酷評を受けたときと同じ、どうしようもない虚無感。

 愛加里さんへ言った、『僕がどうにかする』という言葉に迷いは無い。

 しかし、その『どうにかする』は、彼女が自分に掛けてしまった『資格が無い』という暗示に対しては、いかにも無力だ。

 いまの僕にこの受験生たちのような意気があれば……などと、そんなことを愛加里さんが居ない日常が考えさせる。

 塾生の子たちの挨拶に応えたあと、僕は逃げるように講師控室を出た。 

 そして、『アルフヘイム』の前を早足で通り過ぎて、それから地下鉄への階段を転げるように駆け下りた。




【田原さん、明けましておめでとうございます。オフィス光風も今日が仕事始めだったんじゃないですか? 愛加里さん、元気に仕事に出てきました?】

【恒河沙さん、明けましておめでとうございます。愛加里は元気でしたよ? なにかありました? もしかして、しばらく会っていないのでしょうか】

【はい。クリスマスも初詣も誘ったんですが、丁重に断られてしまいまして……www もしかして、あまりしつこくし過ぎて嫌われたのかもしれませんね】

【愛加里らしいですね。でも、愛加里があなたのことを嫌うはずがありません。愛加里は、いまも敬愛している亡くなったご主人とは、まったく違う次元であなたのことが好きなんです】

【違う次元ですか。それなら、僕はもっと自信を持っていいのでしょうか】

【そうですね。愛加里は、本当はあなたのことが大好きなのに、他のいろんな感情が入り混じってしまって、もうどうにもならなくなっているんです。まぁ、一番の問題はお父さまのことでしょうけど】

 きっと、愛加里さんは落ち着かないんだろう。

 その、いろんな感情が入り混じった日常……、そして、人生を確定することになるかもしれない、ビッグタイトルへ挑んだ自著の評価……。

 奏さんの話によれば、愛加里さんは『父ひとり、娘ひとり』らしい。

 老舗の大手出版社を先代から引き受けたお父さんが、血の繋がった娘にその暖簾を引き継いで欲しいと願うのは、まぁ、至極当然のことだと思う。

 しかし、その言葉の中に、『物書きの嘘に騙されるな』というひと言があった。

 お父さんが言っている『嘘つきの物書き』は、おそらく亡くなった旦那さまのことだ。

 そして、あの竹邉書房経営陣の座を狙っている相川という編集者も、僕を恋人だと偽った愛加里さんに対して同じ言葉を放った。


『キミはまたも物書きに騙されるっていうのかっ? 物書きは嘘つきだ! 信用するなとお父さんから散々言われたろうっ?』


 その事情を僕に説明しようとした奏さんは、『やはり、これは愛加里さんの口から言うべきね』と言って、それ以上のことを語らなかった。

【どうしても、お父さんのことが出て来るんですね。愛加里さん、もっと吹っ切れてくれればいいんですが……】

【そうですね……。ところで、恒河沙さんは、お正月はご実家には帰られました? お母さま、変わらず元気ですか?】

【はい。母のこと、愛加里さんから聞いたんですか? 相変わらずです。今年は結局、帰りませんでした】

【あら、それは、お母さまはずいぶん寂しがられたのではないですか?】

【いえ、母にはすべて事情を話しました。もし突然、彼女の気分が変わって僕の顔が見たいってなったときでも、僕がこっちに居さえすればすぐに会いに行けるから……と】

【そうですかw 愛加里は幸せですね。彼女がお父さんの呪縛から抜け出せることを、私も祈っています】

【ありがとうございます】




 今週末、ついに共通テストが行われる。

 そして、その直前の金曜日は、愛加里さんの誕生日。

 いろいろ悩んだが、やはりプレゼントだけは買っておこうと、今日はずいぶん遠回りの家路を選んだ。

 学生時代もよく訪れた街。 

 文化芸術の中心であるこの街は、もう冬の陽光がビルの向こうに遠ざかってずいぶん経つというのに、これ見よがしにいよいよ揚々としている。

 クリスマスに買おうと思って目を付けていたそれを、今日はついに彼女への誕生日プレゼントとして手に入れた。

 その紙袋を片手に提げて歩く、駅西側の丸い広場。

 見上げると、まるでレコード盤のような円形の構造物が頭上をぐるりと取り囲んでいる。

 そのさらに上の無数の窓灯りに、まだこんなにたくさんの人たちが働いているんだなと当然のことを思ったとき、不意にその聞き慣れた甲高い声が背後から響いた。

「はっ、萩生せんせーいっ!」

 思わずすくめた肩。

 ゆらりと、吐いた息が白くたなびく。

 それがすっーと霧散したのと同時に、背中がドンと押された。

 じわりと振り返る。

「やーっぱり、萩生先生だっ! 明けましておめでとうございますっ!」

 うわ、やはり彼女か。

 そこには、ずいぶん可愛らしいピンク色のマフラーをふわりとさせた、ミステリーの大御所の孫娘。

 僕は反射的に、寒風に吹かれる口角をきゅっと上げた。

「やぁ、湊さんか。明けましておめでとう」

「萩生先生、こんなところでなにしているんですかっ? お買い物?」

「うん。まぁ、ちょっとね。そういえば、ウルトラ特進コースに変わってからどう? 面白い?」

「はいっ! 萩生先生に会えなくなったのは寂しいですけど、なんかめっちゃ賢くなった感じがしますっ!」

「そうか。それならよかった。まさかこんなところで会うなんて偶然だね。で、キミはなにしているの?」

「音楽鑑賞ですっ! そこの芸術劇場で管弦楽団の定期演奏会があったんで。彼氏と一緒に」

「へぇ……、彼氏と」

 思わず出た感嘆。

 この子と付き合うなんてとんでもなく心が広いヤツだなと思いつつ視線を上げると、その彼女のずっと向こうにずいぶん意気消沈した様子で歩いてくる男性が……。

「え? 彼氏って、まさか、アイツ?」

「はいっ!」

 相変わらずの、昭和四〇年代を彷彿とさせる独特のファッション。

 そういえば、コイツが彼女の小説をずいぶん手直ししたと、あの相川が言っていたっけ。

「鬼泪山、お前が音楽鑑賞とか、大丈夫か?」

「お? ショウじゃねぇか。こんなところで何してやがんだぁ? 仕方ねぇだろ。このワガママ娘がどうしても行きたいって言いやがるんでな」

「まぁ、よかったじゃないか。こんなかわいい彼女ができて」

「はぁ? なに言ってやがんだ。俺がこんな青臭せぇ女と付き合うわけねぇだろ! こら、お前、またそんなホラを吹いてやがんのかっ!」

 ものすごい形相で彼女を見下ろした鬼泪山。

 同時に、ものすごい形相でヤツを見上げた湊さん。

「もうっ、『はぁ?』って何? キナちゃんはぁ、もうわたしの彼氏なのっ! クリスマスのとき言ったでしょっ? これからもずーっとわたしのアシスタントにしてあげるって!」

「それは執筆の話だろ! なんでぇそれが彼氏ってぇ話になるんだっ!」

「あれは告白よっ? キナちゃん、『いいぞ?』って言ったじゃないっ! つべこべ言わないでずーっとわたしの隣に立ってるのっ!」

「はぁ? 立ちっぱなしかっ!」

 ぐふふと笑う湊さん。 

 ぐぬぬと肩を怒らす鬼泪山。

 まぁ、よく分からないが、けっこうお似合いだ。

「あー、ところでショウよ。お前から頼まれたあの『スパイ活動』だがなぁ、アレ、師匠がもう動き出してくれてるぞ?」

「え? 本当か? 高溝先生が自らか?」

「そりゃぁ、『ミステリーの大御所』だぜぇ? もうノリノリで調べ回ってるよ。まぁ、今回は自分が審査委員長をやるコンテストでもあるしなぁ」

 ほくそ笑む鬼泪山を、湊さんがきょとんとして見上げた。

「え? なにそれ、キナちゃん、わたし知らない」

「子供は知らなくてぇいいんだよ。大人の面倒くさい話だ」

「えー、ずるいー」

 そう言って、湊さんが鬼泪山の腕をぎゅっと抱き寄せると、ヤツは珍しく笑顔を作って、その手を優しく彼女の頭に乗せた。

「いいか? ちゃーんと答えが出たら桃香にも教えてやるよ。今日はとりあえず忘れとけ。ショウよ、師匠が言ってたが、どうやらお前の読みは当たってるみたいだぜ?」

「はぁ……、やっぱりそうか。高溝先生によろしく伝えてくれ。ただ、僕の作品も『竹邉』にエントリーしていることは先生には絶対に内緒だぞ?」

「分かってるよ。さ、桃香、メシ食って帰ろうぜ? ショウ、またなんか分かったらすぐ教えてやっからな」

 サッと湊さんの腕を振り払って、小さく手を挙げた鬼泪山。

 僕も同様に手を挙げて返す。

 すると、「あっ、待ってよぅ!」と声を上げて鬼泪山の腕に再度しがみついた湊さんが、歩き出しながらぶんぶんと手を振ってくれた。

 やはりそうか。

 愛加里さんの作品は、選考のどこかで落とされるように、なんらかの裏工作がされているとみて間違いないようだ。

 その発動源は、言わずと知れた竹邉社長、その人。

 由々しき事態だが、これはこれで、今後の大きな駆引き材料になり得る。

 さぁ、これで僕も臨む気構えができた。

 受験生の彼女たちと同じように、瞳に力を宿そう。

 ふわりと広がった白い息。

 僕はそれを悠々と見上げながら、彼女への想いが詰まったプレゼントを揺らす手を、じわりと握りしめたんだ。

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