第4話
ラガート音楽学校の奏者科の一日は、もっぱらこうだった。
早朝に起き、音楽学校付属の神殿まで赴いて神官の話を聞いてから、賛美歌の合唱。早朝ではなかなか声が出ないのは当たり前だが、我慢して歌わなければならなかった。
食堂で朝食を済ませてから授業。授業は座学と実技に分けられるが、座学は楽譜の読み方から旋律の解釈の種類。中には大昔の物語や詩の暗唱まであり、なかなか大変だ。
実技は歌を歌うためにと校庭を一周走るランニングからはじまって、新しい歌を覚えては皆の前で歌唱。午後の授業の頃には、アイダはへろへろになってしまっていた。
食堂で食べるご飯は故郷よりも種類が豊富で、アイダはここで初めて食べたカスタードプディングを夢中になって食べていた。カスタードプディングを食べているときだけは、へろへろになった頭も体も癒やされているような気がする。
「学校の授業って、いっつもこんなに大変なんですか?」
「たしかに音楽に特化した授業には驚くけど、これって普通の学校よ。そういえばアイダの故郷には年寄りしかいないんだっけ?」
チェルシーに尋ねられて、アイダは頷いた。
「学校が必要なのは私だけだったから。皆お年寄りばっかりだし、文字の読み書きは全部お母さんに習ったんです」
「はあ……あなたのお母さんって結構なハイスペックね。故郷ひとつ守り通せるくらいに奏者代行として歌を歌い続けて、あなたの勉強も見て。あとは故郷の品の売買?」
「うん。故郷の人たちは皆お年寄りだから、悪徳商人の上手い話にまるめこまれて商品全部安く買い叩かれたのを見かねて、売買の席にお母さんも着いていくことになったんです。私はお母さんから勉強を教わったあとは、ずっと畑仕事をしていたから」
「はあ……ザックス様じゃないけれど、よくあなた故郷で生きてこられたわねえ」
チェルシーの呆れた声に、アイダは首を傾げた。
「ザックス?」
「ああ、そっか。アイダはいなかったものね。ザックス様がアイダの退学を取り消させてくれたのよ。すっごい王子様みたいな人だし、肩書きだってうちの口でも有数の貴族の名家の跡継ぎなのよっ。あなたもザックス様に出会ったら、ちゃんとお礼言わなきゃね……」
「おやおやおやおや……俺のことをお探しかな、お嬢さん方」
それに思わずアイダもチェルシーも仰け反った。
眉目秀麗な金髪碧眼の輝かしい人が、ひょっこりとこちらに声をかけてきたら、誰だって同じような体勢になる。アイダたちの席を、周りはびっくりして様子を窺っていた。有数の貴族ともなったら、気軽に声をかけるのすら憚られるものだ。
それを気にすることなく、ザックスが口を開いた。弁舌はさわやかで、声色こそ低いもののひどく甘い声がする。
「君が噂の新入生だね。新学期早々反省室送りになり、危うく退学寸前にまでなった」
「あ、あのう……助けてくださり、ありがとうございます……」
アイダはペコリと頭を下げると、ザックスはにこりと笑った。
「いやいや。助けるのは当然だ。この学校にせっかく入学したというのに、入学早々退学ではご家族にも、推薦してくれた神官にも申し訳が立たないからね」
あまりにもいい人なため、神殿騎士がさっさとアイダを拘束して暗い反省室に閉じ込めたのとは一転、優しい人に思える。
(でも……神殿に逆らうのは国に逆らうことと一緒って、チェルシーは教えてくれたのに)
「でも、そういうこと言って大丈夫なんですか? こう、神殿とか……」
アイダが思ったことを、そっくりそのままチェルシーが尋ねて、隣でアイダもうんうんと頷いた。彼女も自分を庇ったがために誰かが怒られるのは悲しい。
ザックスはふたりに「ははは」と笑う。
「新入生は政治のこととか関係なく、精霊に奉仕することだけ考えなさい。それがこの国のためになるのだからね」
「はい」
「困っていることがあったら、俺でもいいし上級生に尋ねなさい。できる限りのことはなんとかしてあげるから」
「あ、あのう……」
それにアイダはおずおずと手を挙げた。それにチェルシーは気付き、ニマニマとした表情を浮かべる。
「探している人がいて、お礼を言いたいんですけど……いつも見つからなくって……」
「おや、新入生の君にもう知り合いが?」
アイダはザックスに小さく頷いた。
借りたハンカチは一生懸命洗い、アイロンもかけて綺麗にした。そしていざ返そうと思って職人科の教室に何度通っても、見つからないのだ。
「エリオットさん……職人科の先輩を探しているんですけど、何度職人科の教室に通っても何故か見つからないんです……」
その言葉に、ザックスは綺麗な目を見開いたあと、天井に顔を上げて大声で笑いはじめた。
アイダにはなにがなんだかわからない。やがてしばらく笑い続けていたザックスは、目尻を涙で濡らしてやっと教えてくれた。
「彼かい? 職人科のエリオット・ブルースター」
「は、はい。そうですっ!」
「変わり者なんだよ、彼は。授業が終わったら途端に天井裏に入り込んだり、床下に潜り込んだりしている。あんまり変わったことをしているから、なんでそんなことをしているのかと聞いたら、『探検』しか教えてくれないんだよ。多分今も探検中じゃないかい?」
それはどう考えても反省室の天井裏からいきなり降りてきた彼と一致する挙動である。チェルシーは信じられないものを見る目でアイダを見るが、アイダは「その人です」と答えた。
「だとしたら、また床下とか……ですかねえ……?」
「おや、心当たりがあるのかい?」
ザックスに問いかけられたが、さすがにエリオットとは反省室で出会ったなんて言える訳もなく、アイダは曖昧に「一応……」とだけ言葉を濁した。
「そうか、じゃあ探しに行っておいで。あと、ザカライア・ヤングアズバンドが探してたとでも言付けておいてくれよ。頼んだよ」
言いたいことだけ言い終えると、ザックスは颯爽と立ち去ってしまった。それをアイダはポカンと見送っていた。チェルシーはそんなアイダの頬をツンツンとつっつく。
「すごいじゃない。変わり者の有名人に有名貴族の王子様にまで覚えてもらえるなんてっ。私なんて炉端の石扱いで、きっと顔すら覚えてもらえないっていうのにね」
「それって、ただ物珍しかったから覚えてもらっただけじゃないでしょうか……」
「悪目立ちでも目立つって意外と重要なんだから。でも本当に探せるの? そのエリオットさんって人」
「はい……多分」
食事を終えたアイダは、チェルシーと手を振って別れると、人のあまり通らない廊下をそわそわきょろきょろしながら歩いて行った。
地下の反省室に繋がる廊下はあまり人が通っておらず、そこにしょっちゅう向かうことで問題児扱いされても困る。
やがて階段に差し掛かると、アイダはきゅっと目を閉じてから、手すりを使っておそるおそる歩いて行った。鱗粉入りの瓶以外で光源がない以上、なんとか目を馴らしてから歩かないと危ない。
階段をするすると降りて、目を凝らして辺りを窺う。反省室の通りを抜けていくと、かすかにバイオリンの音が響くのに気付いた。
授業でよく楽器演奏を聴くが、曲の練習というよりも、楽器そのものの確認のように何度も何度も音が途切れる。
その音を頼りにアイダは廊下を突っ切っていった先。そこは精霊の鱗粉が蔓延し、辺り一面が発光していた。
その中で、ひとりでバイオリンを一旦弾いては弦を修正し、また弾いては弦を修正しているエリオットの姿があった。
「エリオットさんっ……!」
アイダが声をかけると、エリオットは振り返った。そしてしばらくぼんやりとアイダを見てから「ああ」と答えた。
「反省室の子。よかったね。退学にならなくって済んだんだ」
「入学式のときは、ありがとうございました! あ、あのう……ずっとハンカチを返したくって探してたんですけど」
「あー……そういえば貸してたね。わざわざここまで探してたんだ?」
「はい……ザックスさん? ザクラ……」
どうにもアイダには馴染みのない名前で上手く思い出せなかったが、そこまで言ったらエリオットは「ああ、ザカライア・ヤングアズバンド?」と教えてくれた。それにアイダは小さく頷いた。
「はい。探してらっしゃいましたよ?」
「ふーん。まあいいや。あの人、人が好きな割に利用するのに躊躇ないから放っておいても。君もザックスには気を付けなよ? あの人の中で、好意を示す相手を利用するのになんの矛盾もないから」
そう会話をしながらも、エリオットは終始ずっとバイオリンを弄り続けていた。アイダは彼の隣にチョコンと座って辺りを見回した。
「ここっていったいなんなんですか? 反省室は真っ暗だったのに、ここはわざわざ鱗粉を撒いて光らせてますけど……」
「うん。僕も不思議だからここにしょっちゅう来てるの。楽器に関しては直してみたくて仕方がないからさ」
「そのバイオリンをですか?」
「これ? 違うよ、これは手慰み。奏者科からの依頼でバイオリンを修理していただけ。これで小金を稼いでるんだよ」
「そうなんですか……でもここにいるのは、楽器を直すためって……」
「うん。僕結構耳がいいほうだけれど、ここからはいつも音が聞こえるから、その音の正体について知りたかったんだ」
エリオットの中ではひとつの結論があるのだろうが、アイダにはどうも話が反復横跳びしているようで落ち着かず、わからないまま聞いていた。
やがて、地下からなにかが聞こえた。
──ケテ
──ダシテ
──タイ
──イ
前に反省室でひとりで聞いた声だった。
「今……たしかに聞こえました」
「うん。僕も最初は学校にあったパイプオルガンの音がおかしいから気付いたんだ」
「はい……?」
「いつも礼拝堂で賛美歌を歌うとき、奏者科の講師が演奏をするでしょ? あのパイプオルガン。あれは音ひとつひとつを鳴らす際にパイプに風を送って音を鳴らすんだけれど、ここは空の上で、どうしても風を強く吹かせる訳にはいかないから精霊の力を借りてパイプに風を送る必要があるんだけれど、それの際に精霊の力が弱まる場所があるんだ」
それにアイダは思わず目を瞬かせた。そもそも、奏者の歌は精霊に祝福を与えるものなのだから、奏者の歌を聞いている精霊の力が弱まるというのは、まずありえないのだ。
「それ……毎朝賛美歌を歌っているのに、矛盾してませんか?」
「うん。してる。最初はパイプオルガンの修理をさせて欲しいって依頼してみたけれど、神殿から断られちゃったんだ。こっちでするから学生が触るなって。なら、精霊の力を弱めているのはなんだろうって、校内を探検して原因を探しているところ」
精霊の力を弱めている。まさか奏者は歌で精霊を祝福して力を借りているのに、その奏者を育てる学校で精霊の力が弱まるなんてことがありえるんだろうか。だが。
アイダは自身の胸に手を当てた。それにエリオットは綺麗な碧い瞳を瞬かせた。
「どうかした?」
「……私、そういえばここに来てから、歌を歌っているとピリピリするんです」
「ピリピリ?」
「なんでしょう。ゾワゾワともピリピリとも……私がお母さんから習った歌を歌っているときは、そんなことないんですけど」
「ふうん……なら歌って」
「えっ」
「その君が君のお母さんから習った歌」
エリオットの提案に途端にアイダは困った表情を浮かべる。
「私、また反省室に入れられて、今度こそ退学になるかもしれません」
「どうして?」
「だって……つくった歌はお母さんがつくったものですし……お母さんは、神殿と関わりがありませんから」
アイダは神殿が決めていない歌を歌ったことで、反省室に入れられて泣いていたのだ。それ以降母から習った歌は人前では歌っていない。たったひとりのときにこっそりと子守歌のような声量で歌うくらいしかできなかった。
エリオットは「ふうん」と言うと、彼は自分自身を指差した。
「なら僕がこの曲をつくったことにすれば?」
「えっ……でも……エリオットさんは、たしか職人科で……」
「去年は作曲科にいたけど、転科したから。僕、音楽について疎いから、一年間は作曲科で音楽について勉強してから本命の職人科で移ったから。だから一応神殿から曲をつくる許可をもらってるよ」
そうだったのか、とアイダは思った。当たり前の話だが、曲によって都合のいい音の伸び方悪い伸び方があるが、音楽を嗜んでないとそれがわからない。だからエリオットのように授業を受けるために推薦がないと入れない奏者科は却下されても、作曲科で音楽をひと通り学んでから職人科に転科するケースは存在している。
アイダはそれで「で、では……」と言いながら口を開いた。
「雨期が来なくって畑が萎びている時に歌っている歌です」
そうひと言告げてから、アイダは歌いはじめた。
──畑に水を撒きましょう 空に群青地上に虹を
──畑で円舞を踊りましょう 森に滴小鳥に巣ごもり
──春に種蒔き 夏に間引き 秋に実りをもたらしましょう
──あなたと一緒に 新たな実り
アイダの声量は入学当時は子守歌のようなものだったが、学園生活で何度も発声練習をし、腹筋の使い方、喉の広げ方を習ってからは、全身を楽器にして歌う術を身につけていた。
(なによりも)
アイダは歌いながら、自分の胸を自然と抑えていた。
(ピリピリしないし……苦しくない)
歌いながらちらりとアイダはエリオットを見た。エリオットはしばらくアイダの歌を聞いていたが、ケープの中からなにかを取り出した。取り出したのは木でできた横笛だった。アイダの歌に合わせて笛を吹きはじめたのだ。
最初はアイダは驚いて歌を止めそうになったが、エリオットにマイペースに「続けて」と言われる。
「僕が君に合わせるから、君は好きなように歌うといい。それに、君の歌って不思議だね」
「はい?」
「ラガートに来てときから、ずっと息苦しいと思っていたんだけれど、君の歌を聞いていると不思議と呼吸がしやすいんだ。最初は空の上だから息苦しいのかと思っていたけれど、君の歌を聞く限りはそうじゃないみたいだ。不思議だね」
その言葉に、アイダは少しだけ気恥ずかしくなって、照れながら歌い終えた。
(……お母さん以外の人に、初めてこんなに褒められた)
アイダに歌の指導をしてくれる講師は、アイダの歌い方をいつも変だと首を傾げている。しかし習った通りに歌うと、エリオットの指摘通り何故だか胸がピリピリと痛むし息苦しい。しかしチェルシーも含めた他の奏者は講師の教える歌に疑問にも思っていないようだから、言うに言えなかった。
だからこそ、久し振りに自分の思い通りの歌を歌い、それを肯定されると幸せな気分になれるのだった。
歌が終わると、エリオットは笛の伴奏を綺麗に音を伸ばして終えた。それにアイダは小さく拍手をした。
「すごいですね。ヴァイオリンもですけど、笛まで吹けるなんて」
「別に。楽器の修理をずっと生業にしてたから、楽器はだいたい見たらひと通りどうやったら音が出るか知ってるだけ。多分奏者の中にいる楽器使いのほうがよっぽど上手いと思うよ」
「でも、私はエリオットさんの演奏が好きです。なんだか、とても綺麗で優しいから」
アイダが素直に褒めると、エリオットは少しだけ形相を崩した。それにアイダは首を捻った。
「あの?」
「……君、かなり変わってるね。でも、下にいるなにかは反応しないね」
「ああ、さっきからずっとなにか言ってましたけど、聞こえませんね」
「うん」
あれだけなにかを言っていたはずの声は、気付けば治まっていた。
ふたりは首を捻りながらも、ひとまずは段上に戻ることとした。
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