ファインダー向こうの赤い火

菜梨タレ蔵

そこには曼珠沙華の花が群生しており、赤に白に、薄桃色なんて珍しいものもありました。

君はその景色をファインダーに収めようとカメラを構えたのですが、偶然通りかかった老婆に止められましてね。

「ならね、ならね。」老婆が仕切りに地元の言葉で叫んだんですよ。私達にはそれが『やめろ』と言っているのだと理解出来ました。

君はカメラを下ろし老婆にわけを尋ねました。ところが老婆は応えることなく怯えた表情を浮かべ足早に向こうへ去って行きました。

残された君は怪訝な顔で花畑を見つめます。この美しい場所に何の怖い事があろうか、そう言いたげです。私は君の、そういう鈍感なところが好きでした。

曼珠沙華、彼岸花と呼ばれるそれを見れば、多くの人は何か怪異じみたものを連想することでしょう。なぜならそれは名前自体が『死』を連想させ、そのものに毒性があり、またその鮮やかな赤い姿は何かを捕まえようとするように手を広げているからです。

君は老婆が去ったのを確認すると、カメラを持ち上げ、ファインダーを覗きました。一面に広がる花畑、灰色の空、横切る二羽の影。

カラスの声がどこからか一つ、二つ、三つ…四つ聞こえてきました。私は思わず溜息を漏らして君に言いました。

「誰かが連れて行かれるよ。」

君は私の方を見向きもせず、シャッターを切りました。


黄土色のSUVは鈍い音を立てて国道を走ります。私は後部座席で君の鼻歌を聞いていました。十年前のヒットソング、既に懐メロとは時の経つ速さは無情です。

初めてのデートの時、何か音楽をかけてと言われて選んだのがこの曲でした。海岸線のドライブにお誂え向きな爽やかなサウンド。

今走ってるのは海岸線ではなく両脇に田園が広がる田舎道ですが。思い出してくれたのかな、なんて都合のいい事を考えてしまいます。


日はいつの間にか傾いて西の空がぼんやり赤くなっていました。それは薄桃色の曼珠沙華と同じ色でした。

カラスが二羽、寄り添うように電線に止まりこちらに顔を向けます。

言われなくても分かってるよ、なんて聞こえるわけはないのに口をついて出ていました。



あなたは出会った時から写真家だった。風景専門だから人を撮るのは少し苦手だと言いながらも、私の事は何度も撮ってくれた。

ファインダー越しのあなたの視線はいつだって熱を帯びていて、それは私の胸を熱くした。

その中から一度だけ大きな賞を貰った事がある。君は賞金を大きなルビィの指輪に替えて私にプロポーズしてくれた。

「ダイヤじゃないんだ」と私が冗談を言えば、「在り来りな宝石より君にはこの赤い石で気持ちを伝えたかったんだ」と言ってあなたは微笑んだ。

その表情があまりにも愛しくて、私はあなたの頬に口付けで返した。ルビィは左手の薬指で熱を持ったように輝いている。

思えば、あれが幸せの絶頂だったかも。



何も感じないはずなのに、頬に冷たいものが流れたような気がしました。

私の左手には幸いにもそれが残されています。

光を反射して輝くことはないけれど、確かにそこで私を君に繋ぎ止める役割を担っています。


カツカツとウインカーがリズムをとります。空は既に紺色、東の空には赤い月が大きく膨らんで鎮座していました。

その不気味さに私は思わず身震いしました。誰かに見られているような気がしたからです。咎められているように思えたからです。

私は君の後ろ姿を見つめるしかできませんでした。

何度も触れた丸くて形のいい後頭部、左耳のピアス。それは早世したお兄さんの形見なのだとか。


車はどこまでも山道を登っていきます。

電灯のない山道を走る事に、私はかつて何度も文句を言いました。狭く舗装されていない道、すぐ下が崖になっている時もあります。そうまでして、君は風景を捕まえに行くのです。それが自身の『生きること』などと言ってしめくくるのです。

私はそれが誇らしく、たまらなく苦しかった。払拭できない不安を抱いたままでいるのに、とうとう耐えきれなくなったのです。

私は手紙と片側に印鑑を押した離婚届を残し家を出ました。着信拒否をし連絡を断ちました。そうまでしないと心が揺らぎそうだったからです。

私が君と離れるのは苦渋の判断でした。ただ、今思えばそれは正解だったと思います。


でも、君は五年経った今でも離婚届の片側を空白にしたままです。


私を待っていたの?まだ私を思ってくれているの?…こんな形で知ることになるなんて。


その山は君が好んで撮影に来ていた場所です。岩崖から見える夕焼け空をとても愛していました。私も君の撮ったその写真が好きで、大きくのばして部屋の壁に飾っていました。

今は夕焼けが終わり、宝石を散りばめたような星が天上いっぱいに広がっています。

君は何度かそれをスマートフォンで撮りました。そして直ぐに誰かに送ります。


慣れた手でテントを組み立て、焚き火を作りました。私は自分がそこに存在しているかのような感覚になって君を見ていました。

君は一通りの作業を終え焚き火のそばに腰を下ろすと、鞄から何か紙を取り出しました。

それはあの日私が残していった離婚届でした。

広げてそこに書かれたものを確認すると、君はそれを赤い火の中に落としました。

灰になって消えるまで、実にあっという間でした。


あぁ…。


目が合ったような気がしました。見えるはずがないのに。

君は柔らかく微笑むとゆっくり口を開き言いました。

「もう、迷わない。」


パチパチと焚き火は音を立て、灰を空に送ります。けれど思いはもうここに届いている。


鞄に乗せていたスマートフォンの画面が光りました。すぐ近くに集落がある為、わずかですが電波が届くようです。何度かけても出なかった名前からの電話に、君は躊躇なく出ました。


見開いた瞳が揺れて見えるのは焚き火のせいでしょうか。

私はおもむろに左手を焚き火にかざしました。赤い石は既に光る力を亡くし、殆ど見えなくなっていました。私はいよいよなんだと悟りました。



この世を去るのに言い残した事はない。あなたに伝えたかった事は既にあの日手紙に書いたから。

まさかこんなに長く待っていてくれたなんて思わなかったよ。流石に五年も音信不通なら悟るでしょ?…あ、そっか。あなた鈍感だもんね。

愛してくれてありがとう、私もあなたを忘れたことはなかったよ。



朝日は山の向こうから容赦なく光を放ち登ってくる。崖から下を眺めれば曼珠沙華の花が群生していた。


カラスが崖下に光る物を見つけ降下すると、壊れたフィルムカメラがあった。フィルムに映っていたのはあの景色を背景にして寄り添う二人の姿だった。



— 終 —

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ファインダー向こうの赤い火 菜梨タレ蔵 @agebu0417

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