最終話 あるべき場所へ(2)
この三年全く音沙汰なかった紫貴が目の前に、まさに、『そこ』に、座っていた。
石畳の階段に座るには彼の手足は長すぎて、下の段にまで投げ出されている。子ども用の椅子に座らされたみたい。彼の着ている高そうなロングコートは、土で汚れた野外の階段にひどく不釣り合いだった。
コートの下の紺色のスーツは昼間の日差しを浴びて紫色に輝いている。着ているベストの胸元には紫色のハンカチーフが挿されていて、そのままパーティーにでも出られそうな装いだ。彼の手首にはめられた高そうな腕時計や、タトゥーだらけの指にはめられた高そうな指輪、艶々の革靴、その高級品の何もかもが彼のために誂えられたかのよう。
彼は、この昼間の広場の階段に無防備に手足を投げだすことがあまりにも似合っていない。彼だけ別の世界から切り取られ、ここに貼り付けられたみたいだ。
(もしかして、夢……?)
そう疑うぐらい、彼には現実感がない。
彼は腰を少し浮かして私から拳一つ分の距離をとると、気まずそうに腕を組み、目を伏せた。
そうして距離をとられてしまうと、感じていた体温すら嘘に思えてしまう。
(……本物、だよね?)
銀色の髪に手を伸ばす。彼は驚いたのか、私から身を引いた。
「……」
「……」
言葉をかけたら消えてしまいそうで、ただ黙って彼を見上げる。彼は私の視線に負けたのか、恐る恐る、というように、自分の頭を差し出してくれた。
もう一度手を伸ばすと、サラリ、とした髪先に指が触れる。
たしかに、――触れた。
(……夢じゃない)
そっと、髪に手を差し込む。
彼のサラサラの髪の先にある頭は記憶の通り、丸みがあった。両手で彼の頭に触れる。彼は驚いたのか身体を一瞬硬直させたが、すぐに力を抜いた。だから、私は両手で彼の頭の形を確かめた。額からのライン、顎からのライン、全てが手が記憶している通り。彼の横顔の美しさを形作る頭の形。
(本当に……?)
不意に、私にされるがままだった紫貴が顔を上げる。目が合った。彼は私の目をのぞき込んだ後、目を柔らかく微笑ませる。
「……ウン」
それは全部受け入れてくれる、『ウン』だ。
(本当に、紫貴だ)
セットされた髪をぐしゃぐしゃにされても怒ることなく、咎めることさえなく、されるがままでいるこの男は、間違いなく紫貴だった。
両手で彼の頬を掴んで、まじまじと彼の顔を見る。
彼は目を丸くはするが、抵抗はない。ジッと見ていると、彼はまばたきをしてから、口を開いた。
「みどり」
少しかすれた声が、記憶の通りだ。
私が手を離すと、彼は乱れた髪をそのままに微笑んだ。
「もう、いいの?」
「……ウン、もういいの」
「そう……」
彼は開けた拳一つ分のスペースに手を置くと、姿勢を正した。記憶よりも少し身長が伸びて、少し髪が伸びて、少し痩せた彼は、けれど記憶の通り優しく笑っている。
彼は深く息を吸い、深く息を吐くと「ひどいよ。予定が狂った」とわけのわからないことを言った。
「こんなところで声をかけるつもりじゃなかった。今まで準備していたことを全部ぶち壊してしまった。馬鹿だな、本当に……ひどすぎる……」
「そうなの……?」
「そうなの」
彼は前髪を後ろに流すと、クスクスと笑った。
「君に関わると俺は馬鹿になるよ」
「何よ、その言い方。私のせいなの?」
ついムっとして言い返すと、彼は顔を上げてニヤリと笑う。
人のことを子ども扱いしているような笑顔がムカついたので、彼の額を軽く叩いた。
「何なの、その顔。自分で勝手にぶち壊したんでしょう。私は予定なんて知らないんだから、私のせいにされても困るわ」
彼は額をおさえて、ムと顔をしかめた。
「初対面の男にキスなんてされそうになっておいて偉そうに……」
「はあ? 男? キス? 何の話してるの?」
「好き勝手触られておいて……こうやって手まで繋がれてたじゃないか」
彼はそう言いながら、私の両手を両手で握った。そして真剣な目で私を見下ろす。この構図には確かに覚えがあった。
「エ、もしかしてさっきの子どものこと? 男なんていい方……」
「男扱いしないほうがどうかと思うよ。彼はしっかりみどりを口説いてた。『初めてキスするならみどりみたいな可愛い子がいい』ってね」
「あの子、そんなこと言ってたの!?」
「そうだよ。あの男は、俺の『
彼の手はとても冷たかった。
彼は私の両手に口を寄せて、フ、と息を吹きかける。驚いただけで嫌だったわけではないのに、勝手に肩が揺れてしまう。すると彼は名残惜しそうに、私の両手を離した。
(やだ!)
咄嗟にその手を追いかけて、掴んでしまう。
彼は目を丸くして私を見下ろす。私も似たような顔できっと彼を見上げているだろう。
(あ……私、……手を離されるの、嫌なんだ……)
私たちはしばらく見つめ合った後、クスクスと笑い合ってしまった。
「……紫貴に関わると、私は馬鹿になる」
繋がれた手を見下ろして呟くと、彼が、コツン、と私の額に額をぶつけてきた。この距離に異性がいるのは、彼と別れて以来だ。
「みどり、嫌ではない?」
「……ウン、嫌じゃないよ」
彼の指が私の手の甲を撫でる。指でも好きだと言われているのがわかった。だから指でお返しに彼の手の甲を撫でる。
彼は嫌がることはなく、私も少しも嫌ではない。
まるで、ついさっき買い物に出かけていただけのように、私たちは手を取り合って、当たり前みたいに笑い合っている。
(ずるい人だなあ……)
彼は私の耳に口を寄せる。吐息が耳の縁に触れた。
「……俺、詳しいよ、この国。車も出すし、案内するし……俺の家なら滞在費もいらないよ?」
彼の手を離し、身を引いて、腰を上げて、距離をとる。
「あなた、何を考えているのかしら?」
彼は可愛らしく首を傾げた。
「みどりをどうやったら家に連れ込んでどうにかできるか考えているけど?」
「そんな言い方でついていく女がどこにいるのよ!」
「前はこんな言い方でついてきてくれたんだよ、君は」
思い返すと確かにそうだったかもしれない。が、私はム、と顔をしかめた。彼はニヤリと笑う。
「……ヤ、折角のローマなのに」
「それはそう。……どこに行きたいの?」
彼は私がとった距離を詰めてくると、当たり前みたいに私の左手を握る。『こんなにちょろくちゃだめだ』と思うのに、私の身体は少しも彼を警戒してくれない。
「ほら、スマホで管理しているんでしょう? 見せてよ。どんな店も開けてあげるよ、バイヤーさん?」
「当たり前みたいに私の仕事を把握しているのね……」
「そりゃマフィアだもの。のこのこ俺の縄張りに入ってきたんだから、逃げられると思わないでね」
彼は私からスマホを奪うと、教えてもいないのにパスコードを入れてマップアプリを起動する。
「ほら、デートだ。行こう、みどり」
「……イタリア男みたいね」
「ここはローマだ。ローマではローマ人がするようにせよ。先人の教えだよ」
私の左手を握ったまま自分のコートのポケットにしまうと、彼は私を見下ろす。その目は少しも怖がっていない。私が彼のことを好きだと確信している顔だった。
(……もう、しょうがないな)
私は彼の手を握り返した。
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