第56話 マッサージ
ハルスト侯爵邸の客間に案内されるが、落ちついて座っていられる気分ではなかった。
侯爵の話しによれば、事態は思ったより悪い。
隣国グレンブノの協力を得て、ミダリルが王宮を占拠している。
グレンブノがどこまでの覚悟で、どう動くのか。ミダリルが流した噂のせいで、どれだけの貴族の心が離れてしまったのか。
一刻も早く王宮へ戻るべきなのに、一人では無力で情勢すら手に入れられない。何もわからず、調べる手筈もないことが歯痒かった。
窓辺から王宮の方向を見つめ、ため息をついた1つ吐いた時、控えめなノックの音が聞こえてきた。
使用人かと思ったが、隣の部屋で休んでいるはずのコーヤが部屋に入って来た。
話すのを聞きながら、コーヤという治療師について、改めてまじまじと観察する。
見れば見るほど不思議な男だ。威圧するような上背があるわけでも、目を見張るような容姿や体格を持つわけでもない、どちらかというと痩せぎみの、平凡な若い男だ。
なのに何故か惹きつけられる。今も心地良い声で、疲れが見える私を癒したいというなど、可愛いではないか。
他の誰かに言われたなら、そんな場合ではないと一喝するかもしれない提案も、コーヤに癒されたなら妙案も浮かぶかもしれないと思える。
頭であれこれ考えるより先に、身体がすぐさま浴室に向かっていた。
「はぁ……」
黒髪に染めた頭髪を、繰り返しコーヤの指が泡で擦ると吐息が漏れた。
表情を変えない訓練はできていても、厳しい情勢と既知の侯爵の前ということで、知らぬ間に全身で怒りを表してしまった。
コーヤの頭を揉む指の力加減は丁度良く、強張りを解していく。
だが裏腹に手つきに慣れを感じ、使用人でもないコーヤが、エリックや他の者にも同じようなことをしているのかと訳のわからない怒りが湧いた。
そしてつい意地悪を言ってしまい、コーヤは先に浴室から出て行ってしまった。
人一倍、自分の心を制御できると自負していたが、コーヤの前ではそれが難しい。やはり不思議だ。
温まった身体を湯から引き上げ、コーヤの癒しの続きは何かを考えながら浴室を出た。
コーヤが手伝いに戻らないため、1人で置いてあった新しい衣服を身に付けると、部屋に戻る。
来ないはずだ。コーヤは、椅子に座ったまま居眠りをしていた。
部屋のあちこちに灯りは点けてあるものの、日中の明るさとは違う。疲れもあったんだろう。
引き寄せられるように、キメの細かな頬に指を這わす。
「わっ、王様出てたんですね。ああっ、髪濡れてるじゃないですか」
目を覚ましたコーヤは、慌てて拭くものを取りに行って戻った。
「ここに座って下さい」
前に立ち頭から大判の布を被せられると、ガシガシと髪の水分を取っていく。
布の隙間からは、コーヤの腹部しか見えない。
その細い腰を引き寄せたい衝動に駆られるが、何を馬鹿なことをと自分を諌め耐えた。
あらかた水分が取れると櫛で整えてくれる。
「出来ました。次はこちらでうつ伏せになって下さい」
腕を引き、ベッドのカバーの上に敷いた布に誘導された。
「何をする気だ」
これはもしかして、と思わない男はいないだろう。
「お風呂で温まった後にマッサージすると効果的なんです」
「……そうか」
邪な考えを振り払い、大人しくうつ伏せになると、コーヤもベッドに上がってきた。
「足の上に上がりますね。痛かったら言ってください」
見えない背中にコーヤの手を感じ、ビクッとしたが、何事もないように振る舞う。
次第に体重をかけ、首から腰まで揉まれていった。
「どうですか?これも気持ち良くないですか?」
確かに気持ちが良い。だが落ち着かない気分にもなる。
「ああ。ありがとう。だがもういい」
「遠慮しないでください。脚の裏も張っていますね」
コーヤは足から降りると、上がっていた太腿の後ろを揉み始めた。
「っ」
太腿裏など普段人に触られる場所ではないため敏感だ。
「やめろ」
寝た体勢から勢い良く起き上がり、コーヤの手を掴んだ。
「嫌でしたか?すみません」
驚いた顔が曇るのを見て、胸がぐっと詰まる。
「違う。もう充分だ。まだ考えることもあるから、部屋へ戻って休め」
そうだ。王族の義務について、侯爵にも釘を刺されたではないか。男相手に私は何をしようとしていたのだ。
洸哉が出て行くのを見送りながら、自分の手の平を見つめる。
コーヤの手を掴んだ瞬間、そのまま押し倒したいと思ったのは何かの間違いだと自分に言い聞かせていた。
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