第36話 頬

「第2師団に急ぎ届けて……」

「その件は準備完了している。あとは……」

 いつもより廊下を行き交う人が多い。しかも、騎士や武装した兵士の割合が多く、皆気が立っているようだ。

 俺は、午前の診療と打ち合わせを終え、読みたい文献を手に、王様の執務室までやって来たところだった。

 王様の執務室に通い始めて数日、少しずつ王様のいる空間にも慣れ、手を休めるタイミングが合う時には、他愛もない話しをすることもできるようになっている。

「何だか今日は、慌しいね」

 ちょうど室内から出てきたパドウと、扉の前と行き合い、事情を尋ねる。

 俺の存在に気づいたパドウは、急いでいた足を止め声をひそめる。

「東のグレンブノの動きが怪しいのです。今日は、王様の側に控えていてください」

 怪しい動きというものが、どんなものかは見当もつかない。だが、治療師の俺が王様の側に控える必要があるということは、穏やかではなかった。

 返事もそこそこに執務室に入ると、ご自分の執務机にいつものように座り、俺に柔らかく微笑みかける王様の姿があった。

 つられて俺の頬も緩む。

 最近は、このカルレイン王の顔を見ると自然と笑顔になる自分がいた。

「おはようコーヤ。今しがた出て行ったパドウと会ったなら聞いていると思うが、今日はここで過ごしてもらうことになる。悪いな」

 お生まれからかポーカーフェイスが身についた王様の、殆ど表情は変わらないが、申し訳なさそうに眉尻が少しだけ下がるのにも気付くようになっていた。

「どうってことありません。仲間たちは優秀ですから、俺1人くらいいなくても差し支えないはずです」

 与えられている俺の机に抱えていた文献を置いてから、王様の執務机に近づいた。

「それより大丈夫ですか?あまり顔色が良くありませんね」

 右手を王様の左頬に伸ばし、触れる寸前にハッとして慌てて手を引く。

「申し訳ありません。つい顔色が気になるあまり……」

「よい」

 よいと言う割には、引いたはずの右手は早業はやわざで動く王様の左手に捕らえられていた。

 力強い王様の手で、そのまま触れるはずだった頬に導かれる。

 余りにも強く手を引くものだから、俺の身体は机の上に乗り上げそうだ。

「書類が……」

 大きな王様の手に包まれた俺の右手は、王様の冷えた頬に触れていた。その触れた頬の熱が徐々に上がってきた気がする。いや、俺の手のひらの熱が移ったのか。

 王様の双眸は、射抜きそうな程に俺の瞳を見つめていた。そんな王様から俺も目が離せない。

 王様の瞳に吸い込まれそうになりながら、そのままどのくらい見つめ合っていただろう。

 王様が、掴んだ時と同じく唐突に手を離した。

「入れ」

 王様の目はもう扉に向いている。許可を得て側近の1人が勢いよく扉を開け室内に入ってきた。急ぎの報告なのだろう。

 俺は、顔を手で覆い、自分の席に戻る。

 恥ずかしい。ノックの音も聞こえていなかった。あのまま誰も来なかったらどうなっていたことか。

 赤くなった顔に気づかれないよううつむき加減で厚い文献を開き、目で文字を追う。

 王様は、普段とは違う国の状況に気持ちが昂っていたのだ。それを俺に鎮めて欲しかったとか、熱を測らせようとしていたとかだったのだろう。その証拠にすぐ冷静になり部下への対応をしていた。

 だけど俺は?何で夢中になっていたんだ?

 このままずっと王様と見つめ合っていたいと思って周りが見えなくなっていたのか……?

 さっきのことが頭から離れない。自分のことさえわからなくなり、本の内容は全く頭に入って来なかった。

「コーヤ、コーヤ。聞こえているか」

「っはい。申し訳ありません。何でしょうか」

 ボーっとしていたら、王様が俺の席のすぐ横に立っていた。

「すぐ出立だ。来い」

「え?どこへ?」

 俺の声は、先に部屋の入口に向かった王様には届いていない。

 王様の周りは側近たちが取り囲み、更にその周囲を待機していた護衛兵が音もなく壁を作っている。王様の姿が一瞬見えなくなり、不安感が押し寄せる。

 置いて行かれないように駆け足で王様を追いかけた。

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