第2話 僕、ヒーローになります。②
がッ!
僕は痴漢男につかつかと歩み寄り、太ももに這わせていた腕を渾身の力で掴む。
「あ?」
突然の出来事に男は一瞬驚いた顔をし、すぐさま機嫌を損ねたような声を出す。
年代は二十代前半……僕よりも一回り年上だろうか。
来ている背広も高価そうだし髪型も整っているが、顔からは下種な三下感がにじみ出ている。
あえて悪く言うならば、ガワだけ立派な大人……というところだろうか。
「な、何を……しているんですか?」
ようやく発することのできた問いかけは、自分でも情けなくなるぐらいに震えていた。
今にでも引き返したい衝動に駆られるが、もう後戻りはできないと覚悟を決める。
「!」
そこでようやく、うつむき恐怖におびえていた被害者の女性がこちらに気づく。
帽子から垂れた透き通るような赤色の長髪に、度の入っていない伊達メガネに覆われた端正な顔立ち。
痴漢をされていた女性は、絶世の美少女であった。
「何って、俺は何もしてねぇよ」
女性の顔に見惚れていたのもつかの間、痴漢男の声で現実に引き戻される。
「し、しらばっくれないでください。……していましたよね、痴漢」
痴漢。
男の犯行を決定づける単語に、周りの人間はみな一様に顔を上げ、僕たち三人組のほうを見る。
(うぅ……背中に刺さる視線が痛い……!)
外野から放たれる視線の集中砲火に、僕は思わず膝が砕けてしまいそうになるが、何とか持ちこたえようと気張って見せる。
「ハハ、痴漢だって?言いがかりはよしてくれよ。俺はただ、電車の揺れがひどいもんだから、ついこの女に寄りかかっただけなんだけど?」
痴漢男の笑いは乾いていたが、表情はかろうじて平静を装っていた。
「ふ、ふざけないでください。太ももと、その……お、お尻をずっと、触ってたじゃないですか」
「いや、本当にただ寄りかかってただけだって。なぁ、アンタもそう思うだろ?」
詰め寄られた男は何を血迷ったのか、すぐ傍の席でスマホを構っていた別の女性に同意を求める。
「え?えっと……えぇ……?」
当然、話を振られた女性は困惑する。
「……チッ、使えねー。もういいよ、アンタだアンタ。アンタは俺に痴漢されたって思うのか?」
痴漢男は露骨に舌打ちした後、標的としていた少女に話題を振る。
彼女は直前まで被害者でしかなかった。
男の欺瞞をすぐに否定してかかるだろう――そう、思っていたのだが。
「――ぁ――――ぁ?」
美少女は口をパクパクさせるだけで、言葉を発しようとはしない。
喋りたいのに、喋れない――僕は彼女が、一種のパニック状態に陥っていることを悟った。
「ほぉらな!二人とも何も言わねえじゃねぇか!今更痴漢冤罪なんて、舐めた真似してくれてんじゃねぇぞクソガキ!!」
二人の沈黙を肯定と強制づけた男はおもむろに、車両の端から端まで聞こえるような大声でこちらを怒鳴りつける。
「んぁ?痴漢ン?」
そこで、飲んだくれ眠りこけていた成人女性が、間抜けな声を漏らす。
「あーーあーー、こんな大勢の人の前で俺に恥かかそうなんざ、腐った性根してんじゃねぇか、このデブガキ。このままじゃ土下座じゃ済まねぇかもなぁ?弁護士に話付けて慰謝料請求すんぞこらぁ!!」
同じ日本人にして、同じ男性――同じ人間だというのに、目の前で怒号を放つ男性からは、僕を排斥しようとする圧倒的な悪意しか感じられなかった。
涙で視界がぼやけ。
拳をぎゅっと握りしめ。
唇をギリリと嚙み締める。
悔しい。
僕には到底、何も成し得なかった。
助けようとしたはずなのに、今となっては助けを求めようとしてしまっている。
大人の形をした邪悪を前に、いかにも子供らしく委縮している自分が、ただただみっともなかった。
(ごめんね、父さん……僕は、父さんみたいな男にはなれなかったよ)
泣きそうになっている少女を前に、僕は申し訳なく目を伏せた――その時。
「………あ、あの」
僕たち三人組の横から、男性の声がかけられる。
「あ?何だよ、てめぇも共犯か?」
明らかに弱腰そうなくたびれたスーツ姿の男性は、痴漢男の脅すような声には答えず、おずおずとスマホを掲げる。
「え、えっと…………撮ってました。あなたの痴漢行為」
「「「「!!!」」」」
男性の一声に、場の空気が一変した。
男性のスマホには、痴漢男が右手を女性の太ももに這わせる動画が映し出されていた。
痴漢行為に気づいていたのは、僕だけではなかったのだ。
「…………んだよ、この……!!こんなのやらせだ、ヤラセ!!俺を貶めようとする罠だ!!」
痴漢男の威嚇するような大声は、もはや虚勢そのものでしかなかった。
「どうでしょう。これって、確実に痴漢ですよね?」
「……そ、そうですね。これは見るからに、痴漢です」
男性はスマホの証拠映像を傍の席の女性に見せる。
味方をつけるには十分足りえる行動だ。
ポン。
その時。
痴漢男の肩に、優しく手が置かれる。
いつの間にか後ろに立ってたのは、飲んだくれ寝ぼけていたはずの酔っ払い女であった。
「観念しな、クソ野郎。アタシが車掌さんに引き渡してやっから、今はもう大人しくしとけ?」
笑顔を浮かべる酔っ払い女の背後には、「でないと殺す」とでも言いたげな鬼の幻影が浮かんでいるようだった。
もはや今となっては、車両の隅から隅までの乗客誰もが、痴漢男に侮蔑と敵愾心の眼差しを向け、排斥しようと敵意を向けていた。
が、そのとき。
「~~~く、くそっ!!」
何を血迷ったのか、痴漢男は身をひるがえして別の車両に逃げ込もうと駆けていく。
「待ちやがれ、この成金汚物野郎!!!」
酔っ払い女は暴言を吐き、男の後を追う。
先ほどまで喚き散らしていた悪人は姿を消し、この車両に再びの静寂が訪れる。
「…………ひぅ、ぐす…………っ」
静寂を破ったのは、痴漢被害に遭った美少女の、すすり泣く声であった。
「ごめんなさいね。私がもっと早く、気づいて上げられれば……」
「よしよし、もう怖くない怖くない」
泣きじゃくる少女を介抱しようと、周りに大人たちが駆け寄ってくる。
脅威が去った僕も、ひとまずは安心だ。そう思い、ほっと肩を撫でおろしていると。
「ありがとう。君のお陰で、あの男に一矢報いることができた」
証拠映像を撮影していたスーツの男性が、笑顔を浮かべてこちらに話しかけてくる。
「……いえ、僕は男に掴みかかっただけです。あなたの映像がなければ、どうにかなってたのは僕のほうでした」
「いや、僕のほうこそ子供の君に怖い思いをさせてしまって、申し訳なく思っている。映像をとって車掌に提出すればと思っていたんだが、男につかみかかる勇気だけが出なくてね。君の行動がなければ違う結果になっていたかもしれない」
譲歩の応酬になると判断した僕たちは、脱力したように笑いあう。
「……僕たち、れっきとしたヒーローになれたでしょうか」
「……あぁ、そのはずだ。今はその事実を享受しよう」
ささやかな安心感と達成感に身を委ね、お互いに目を潤ませて立っていると。
「ぎゃあああああああああっっっ!!!やめてっっ!やめてくりぇぇえっっ!!!」
「ヒャ―――ッはっはっはっはっは!!こちとら就職面接五連敗で燻ってたんだよ!テメェみたいなクソ野郎の背骨を、1本や2本ポキッてやりたかったんだよなぁあ!!!!」
隣の車両から、痴漢男の悲鳴と酔っ払い女の怒号が響き渡り、現場に駆けつけた車掌さんが場を納めてから程なくして、地下鉄車両は目的の駅へと到着するのだった。
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