秘曲

雨庭モチ

秘曲

 僕の幼馴染が国を離れたのは、ちょうど5年前のことだ。


 幼馴染は宮廷作曲家だった。並の音楽家なら喜んで続けるような安定職だが、彼は大体において『並』とは程遠い。


 弱冠20歳で宮廷作曲家を辞め、音楽家として独立し、もっと広い世界を求めて海を渡ったのだ。

 捨てたのは職だけじゃない。

 伯爵家の後継者という地位も、彼の父親が亡くなったのを契機に、あっさりと姉の婚約者へ譲ってしまった。そういったあらゆる『安定』を犠牲にする覚悟が彼にはあった。


 そんな幼馴染——リオンから5年ぶりに連絡があったと知ったのは、ついさっきのこと。

 たまたま僕が実家に寄ったおかげで発覚した事実によると、手紙が届いたのは1ヶ月も前らしい。うちは結構やり手の商会なのに、一家揃って無精者だと再認識する羽目になった。


 無人の僕の部屋に1ヶ月も放置されていた手紙の封を開けると、まだほのかに芍薬の香りがして、リオンの好きな花だったと思い出す。

 便箋にはたった2行だけ。


『たまには会いにきてよ』


 船便のチケットまで丁寧に同封されている。搭乗予定の日付は明後日だ。船を降りたら彼のマネージャーが案内する、と2行目に書かれている。


「たまには、ってなんだよ」


 最後に会ってから5年も経っているのに、と思うとなんだか笑えてくる。

 彼らしい唐突さや、たった1行の言葉で海を渡らせようとする強引さは懐かしくも悩ましくもあるが、手紙の開封が遅れたせいで猶予はない。


 だから僕は、長年にわたる葛藤をたった数時間で押さえ込み、腹をくくった。



    *



 数日間の船酔いに耐えてようやく船を降りると、僕の国とはあらゆる景色が違っていた。そびえる塔にモダンな建物。行き交う人々はみんなおしゃれだ。

 その中に見覚えのある女性を見つけた。栗色の髪がきちんと纏めてあって、シックなワンピースを素敵に着こなしている。彼女もすぐ僕に気づいてこちらへ歩いてきた。


「いらっしゃい! 久しぶりね、ジル。フラウル国へようこそ」


 彼女は明るい声で迎えてくれた。


「ヴィオちゃん、久しぶり。迎えに来てくれてありがとう」


 ヴィオレットは学生時代の仲間だ。今はリオンのマネージャーでもある。革新的な彼女はリオンのスカウトを迷いなく受け入れた。僕になかったものを、彼女は持っていたから。


 彼女の護衛もあわせて3人で馬車に乗りこむと、旅の疲れがどっと出た。ヴィオレットはそんな僕を見てくすりと笑う。


「疲れてるでしょうけど、リオンがお待ちかねよ。ずっと仕事も手付かずで大変だったんだから」

「え、なんで?」

「ジル、手紙の返信をしなかったでしょう」

「……あ」

「来てくれるのか不安だったみたい」

「ごめん。色々事情があって」


 返信できなかったのはしかたない。手紙を読んだのは3日前だ。でもそんな状態なら彼女のためにも来てよかったなと思う。


「あのさ、そんなんでスケジュールとか大丈夫なの」

「なんとかね。じつは私敏腕マネージャーって呼ばれてるのよ」


 ヴィオレットが冗談ぽく囁いて微笑んだ。彼女と離れてから数回手紙を交わしたけれど、実際に会うとほとんど変わっていなくて、急に10代の頃まで巻き戻った気分になる。


「そういうジルはどうなの? ね、ジル先生?」

「はは。音楽院の講師はねぇ、僕はマイナーな講座しかやってないから。週の半分は遊んでるようなもんだ」

「じゃあ、あの、バイオリンは? ちゃんと弾いてるの?」

「いやー、うん。趣味程度だよ。やっぱり長時間は弾けないんだよね」

「そうなの……」


 首と腕を痛めて以来、バイオリンはあまり弾いていない。もともと練習熱心じゃなかったし、幼馴染が持っているような『音楽への強い執念』は僕にはない。それでもヴィオレットが余計な慰めを口にしないことが、僕にはありがたかった。


「ところでさ、今どこに向かってるの? リオンの自宅?」

「海沿いにある別荘よ。船着場からそんなに遠くないし、郊外の方が邪魔も入らないから」

「……邪魔って?」


 首を傾げる僕に、ヴィオレットは顔を近づけて声をひそめる。馬車の中だから誰も聞いてないのに。


「あのね。リオンはこっちでは結構売れっ子なのよ。そうなると有象無象が寄ってくるわけ」

「へえ……」

「ジルだって、とばっちりで注目されるのは嫌でしょう? 『自宅に入っていくあの男は何者なんだ?』ってね、もし見られたら詮索されるわよ」

「自宅に張ってるファンがいるの?」

「ただのファンならまだマシ。どっかのお偉いさんが雇った密偵までいるんだから」

「み、密偵?」


 僕はびっくりして目を見開いた。


「お偉いさんって? リオンと一緒に仕事したいとか、そういう話?」

「微妙に違うけど……まあそんなとこ。リオンって、やたら地位もお金もあるおじさまに気に入られがちなのよね」

「ああ、なんかわかる……」


 リオンの身がちょっと心配になる話をしているうち別荘へ到着し、僕たちは馬車を降りた。周囲をぐるりと見回しても木と海しかない。木々に紛れた別荘のすぐ横が崖になっていて、崩れたら海の底へ真っ逆さまだな、と縁起でもないことが頭に浮かぶ。

 僕の物騒な想像とは真逆に、クリーム色の壁と赤い木材の建物は可愛らしい雰囲気だ。エントランスまで続く小道には薔薇と緑がたくさん繁っている。


 玄関につくと、ヴィオレットはおもむろに鍵を出して解錠した。


「今あの子、昼夜逆転してるのよ。きっと眠ってるわ。私は帰るから、さあ中に入って」

「えぇ、勝手に入るの? 大丈夫? 怒られない?」


 ヴィオレットは開いたドアを片手で押さえたまま僕を見上げて、はあぁ、と大げさなため息をついた。


「怒るわけないじゃない。大丈夫よ」

「なんでそんなこと分かるの」

「……これだからまったく……世話の焼ける……」


 戸惑う僕の背中を、ヴィオレットが強く押す。子爵令嬢にここまでされては逃げられない。大きなドアをくぐって中に入る。

 もういちど振り向けば、2つ年上の彼女の眼差しは弟を心配する姉のようだった。


「今度こそちゃんと話しなさい、君たち。筋金入りの親友でしょう?」



    *



『親友でしょう?』


 昔、リオンに言われたことがある。

 あの男は達観してるように見えて、たまに子供みたいにピュアなことを言うのだ。


 中に入ってすぐのドアを開けてみると、仕切りのない空間が広がっていた。窓も大きく部屋全体が明るい。

 窓の向かいの壁にはピアノ。床には紙が散らばっている。一枚拾い上げると、書きかけの楽譜だった。


 落ちた楽譜の先に目をやれば、長いソファとテーブルがある。

 どきん、と心音が響く。僕は少し緊張しているらしい。

 音を立てない方が良い気がして、忍び足で近づく。ソファの背に手をかけてそっと覗き込むと案の定、そこに別荘の主が眠っていた。


「ほんとうにいた……」


 いて当たり前なのに、間抜けな感想がこぼれおちた。

 彼は体を横に向けて、手足を縮めて眠っている。天使みたいな寝顔は子どもの頃から変わらない。

 僕はソファの背に腰掛けて、5年ぶりのリオンを見下ろした。


「おーい」


 指を伸ばして、長いまつ毛にかかる金色の髪を払ってやる。


「来てやったぞ、リオン」


 次は肩に触れて軽く揺らす。んん、と声がして瞼が震え、ぱかりと目が開かれた。


「おはよう」


 ぼうっとしているリオンに声をかければ、中性的な顔が上を向く。いきなり腕を伸ばしてきたので思わず避けてしまった。


 僕を視界に入れて、何度か瞬きをして、宙に浮いていた手をぱたりと腹に落として、それからやっと彼は口を開いた。


「あれ? 夢じゃないんだ。ジルがいる」


 自分で呼んでおいてそれかい。

 かなり無理をして急な連休を取ったのに。

 僕は肩の力を抜いて吹き出した。

 少なくとも勝手に入ったのを怒られることはなさそうだ。


「起こしちゃったけど、まだ眠い?」

「……眠い。でも起きる」


 どうやらリオンは寝ぼけていたらしい。金色の目を乱雑に擦って、緩慢な動作でソファから起き上がった。


「ジル、ここに座りなよ。ちょっと飲み物を持ってくる」


 そう言ってのろのろと歩き始めた背に、僕は驚いて声をかける。


「使用人は? いないの?」

「ここにはいない。たまに掃除とか、料理人には来てもらってるけど」


 飲み物って、家事とは無縁のリオンがお茶を入れるのかな……。という心配は本人が奥へ行ってしまったので口にできなかった。


 ソファに腰を下ろすと窓から庭がよく見える。ちょうど芍薬が満開で、綺麗だけど手入れが大変そうだ。部屋の中は楽譜が落ちているのを除けば散らかっておらず、掃除も行き届いている。

 静かでのんびり過ごせそうな場所だ。


 パタパタと音をさせてリオンが戻ってきた。数分前よりも足取りがしっかりしている。手にはトレイに乗ったグラスと果実水らしき瓶。


「あ、ほんとうに本物のジルだ」


 なんだそれ。

 僕の存在を確かめるようにまじまじと見てから、リオンはトレイを置いて隣に座った。あくびをしながら果実水の瓶を掴み、2つのグラスに注いでいく。


「頭がちゃんと回ってなくて、なんか……まだ夢の中にいるみたい」

「だいじょうぶ?」

「うん……。ジル、来てくれてありがとう」

「どういたしまして。それにしても、リオンはほとんど変わらないなあ。髪が短くなったくらい?」


 肩のラインで揃った金髪は寝癖で乱れても輝いている。


「そんなことない。いろいろ変わったよ。それよりジルは? どう音楽院は?」


 ああ、講師になった話はヴィオレットからか聞いているのか、とぼんやり思う。僕はリオンの今をほとんど知らないのに。


「……まあね。それなりに楽しくやってる」

「どんな授業を担当してるの?」

「民族音楽の歴史とか、そういうマイナーなやつ」

「マイナーなんだ? 面白そうじゃん」


 きょとんとした顔でリオンが言った。彼にはマイナーもメジャーもなく、音楽関連であれば片っ端から勉強するタイプだ。


「はは、言うと思った」

「……音楽院かあ。ジルの授業は受けてみたいかも」


 懐古的な声色でつぶやいた彼は、空けたグラスへ2杯目を注いでいる。寝起きで喉が渇いているのか飲むペースが早い。


「そういえば、リオンにちょっと似た生徒がいるんだよ。その子も民族音楽に興味あるみたいだったな」

「似てるって、外見? 中身?」


 リオンが首をかしげて僕を見た。そういう仕草をすると余計に似ている気がしてくる。


「んー、なんとなく、雰囲気かな。女学生だけど」

「え、女の子に似てるってこと?」

「その子がボーイッシュなの。髪短いし、たまに少年みたいなファッションしてたり」

「ふーん、専攻は?」

「チェロ」

「わ、チェロ? 今ね、ちょうどリズム隊を探してて、でもなかなかピンとくる音がないんだよ。その子、似てるって言われると気になってくるよねぇ」


 なんとなく出した話題に、思いのほかリオンが食いついてきた。合わなくはなさそうだけど、まだ彼女は入学したばかりの16歳だ。


「会ってみたい?」

「うん」


 どうしたもんかと考えつつグラスを手にとる。赤い果実水はラズベリーだ。と思いきや、飲むとアルコール独特の熱さが喉奥にじんわりと広がっていく。


「うわ、これお酒が入ってるの」

「だって果実酒だもん」


 当然でしょ、と言いたげなリオンの口調は悪気がまったくない。


「……僕がお酒弱いってことは覚えてる?」

「もちろん覚えてるけど、ジルが飲めそうな飲み物がこれしか見つからなかったの」

「そう、それならしかたないね……」


 酒に弱いことを除けば、確かに甘くフルーティな味は好みだ。平民の僕はハーブティを淹れたりもするけど、リオンに人並みの給仕レベルを求めても無理な話だ。しかたない。

 それにお酒のせいで、彼の口調がだんだん子供っぽくなっている。酔いはじめは下手に刺激しないに限る、と5年前までの実体験が物語っている。


「——バイオリンは」

「へ?」


 唐突なひとことに、僕は不意をつかれてリオンを見た。いつの間に飲みきったのか、もう3杯目を注いでいる。


「ジルは、前みたいに演奏会とか……、他の作曲家に呼ばれて弾いたりとか、もうしてないの?」

「してないよ。今は趣味で弾いてるだけ」

「そうなんだ」


 リオンは考え込むように黙った。

 あ、弾かせたいんだな、と経験上で分かってしまう。昔はそれが日常だったから。


 リオンは警戒心が強い方だ。社交的で愛想は良いのに、なかなか他人を自分の内側に入れようとしない。でも気を許した相手には健気で一途。裏を返せば執着心が強く、それは彼が人生を捧げようとしている音楽に対しても同じだ。


「ーー聴きたいな。ジルのバイオリン」


 切長の目を伏せたリオンがぽつりとこぼす。一瞬言葉に詰まった僕は、グラスを手に取り苦手な酒で唇を湿らせた。


「そのうちね」

「今は?」

「持ってきてないよ」

「俺持ってる。ここにある。ねぇ、弾いてくれる?」


 顔を上げたリオンの、縋るように訴えてくる金の瞳。生粋の貴族らしく押しが強いのに、少しだけ不安そうな色が宿っている。僕に頼み事をするときはいつもそうだった。

 この顔を見ると、僕は断れない。

 断ったのはあの一度きり。

 だから心配しなくても大丈夫なのに。


「1曲だけだよ」


 そう言って安心させるために微笑むと、彼はあからさまにほっとした様子を見せた。弾かれたように席を立って楽譜を取りに行き、僕に手渡す。


「これ、新曲?」


 受け取った楽譜をパラパラとめくる。嫌というほど見慣れた筆跡。曲が生まれるたび嬉しそうに見せてくれた昔を思い出す。


「新曲。初見で行けそう?」

「うん」

「じゃあ楽譜を読んでおいてね」


 僕に指示を出してバイオリンを取りにいく後ろ姿を眺めていると、不意に過去の残像が重なった。


 今よりも華奢な後ろ姿。

 あれは学生時代のことだ。


『——わたくしでは力不足ですか? リオン様はなぜ、あの平民のご友人ばかり……』


 練習室の前で僕を待っていたリオンが、令嬢に詰め寄られていたことがあった。たしかバイオリン専攻の貴族令嬢だ。不運にもスキャンダラスな現場に遭遇した僕は、下手に音を立てることもできず柱の影でじっとしていた。


『そんなことないよ。貴方には才能があると思う。でもジルの音は、俺にインスピレーションを与えてくれるから』


 リオンが曲を披露するときに選ぶソリストはほとんど僕で、フルートはヴィオレットだった。今思えば令嬢のあれは嫉妬だったのかもしれない。


 リオンは伯爵家の嫡男で、伯爵家お抱えの商会の次男が僕だ。

 彼は最初から僕より上だった。家柄も容姿も努力も、バイオリン以外は何もかも。

 初めて会った時からずっとそうなのに、リオンはただの平民の僕に心を開いた。

 一切会わなくなっても、手を離したつもりでも、ぐちゃぐちゃに絡んだ弦が僕たちを繋いでいる。まるで呪縛のように。


 次第に大きくなる足音で我にかえると、ドアを勢いよく開けてリオンが戻ってきた。


「お待たせ! これなんだけど、どう?」


 彼は剥き出しのバイオリンと弓を押し付けてくる。落とさないようにあわてて立ち上がり、僕は両手で受け取った。

 そのまま軽く音を出してみると、かなりしっくりとくる。心地よい感触。


「うん。このバイオリンはいいね。僕に合ってるみたい」

「でしょう?」


 リオンが得意げに口角を上げ、ピアノの椅子に座った。


「ジルが調整してる間に軽く弾いてみるね」


 ポーン、とピアノの単音を響かせた後、彼は穏やかに微笑みながら曲を弾き始めた。


 懐かしい音色だ。

 ずっとそばで聴いてきた。

 恵みの雨のようにじわりと滲む音。

 演奏技術が特別優れているわけじゃない。でもこの清らかさは他の誰にも出せないだろう。


 初めて聴く曲は、やっぱり好きだなと思ってしまう。長調なのに憂いを帯びる旋律に自然と目が潤んで、慌てて瞬きをする。


「……良い曲だね」


 僕は思ったままをつぶやいた。

 リオンの管理するバイオリンはほとんど調整する必要がなかった。準備を終えてピアノのそばに立つと、泉のごとく溢れていた音が止まり、残響が広がる。


「これ。ジルの音に合わせて作った曲」


 演奏をやめたリオンが唐突に言った。


「こっちに来てから自重してたけど、とうとう作っちゃった。そうしたらどうしてもジルに弾いてほしくなったんだ」

「ああ、それで呼んだの?」

「うん。……嫌だった? 怒ってる? 我儘言ってごめん」


 まただ。不安そうな顔。僕はその頭に手を置いてわざと乱暴に金の髪をかき回す。


「嫌じゃないし怒ってないよ。我儘なんて今更じゃないの?」

「今更って……。まあ、否定はしないけど……」


 眉を下げて微笑んだリオンは再びピアノに向き合うと、穏やかに話し出す。


「ジルはね……Aの音を弾く時に、ほんの少しだけボリュームが上がって重くなる癖がある。音を長く伸ばす時はCの音が一番いい感じに響く。それを生かしてみたんだ」


 鍵盤に視線を落として、AとCの音を出しながら説明してくれる彼を、僕は驚いて見つめた。


「えっ、そう? 自分でも気づかなかった……」

「気づかなくてもおかしくないと思う。ほんとうに僅かな差だから」


 それでも気づかなかった。

 きっと彼が言うとおり微細な差で、たとえば昨日と今日で髪がどれだけ伸びたか測るようなものかもしれない。


「リオンは……相変わらず僕の音が好きだね」

「うん」


 何の衒いもなく頷くリオン。

 自惚れじゃなく事実だ。

 その理由が分からなくて、嬉しいというよりも苦しい。


『今度こそちゃんと話しなさい、君たち』


 ヴィオレットに言われたことが重石のようにのしかかってくる。

 思っていたより全然ダメみたいだ。

 一度会ってしまえば封印は解けてしまう。だからきっとお互い音信不通なままでいたはずなのに。

 平凡で平穏な日常を僕から遠ざけるのはいつもリオンだ。

 子爵令嬢としては異端だと言われるヴィオレットが一番真っ当で正しい。


「ジル?」


 床に腰を下ろしてバイオリンを置くと、リオンが不思議そうに声をかけてきた。

 僕はピカピカに磨かれた石タイルの床にあぐらをかいて、まっすぐに見上げる。


「リオン。5年前の君の頼みごとを、僕がなんで断ったのか分かる?」

「いきなりどうしたの」

「分からない?」

「……分からないし、聞きたくない」


 僕の真剣さを感じ取ったのか、顔をこわばらせたリオンはこちらを見ようとしない。そのきれいな横顔に僕は視線を定める。


「リオンと違って、僕はなんでも程々のレベルで満足できる質なんだ。練習も努力も好きじゃない。僕の音の癖のことも、リオンは気づいたのに僕は気づかない。でもそれで良いんだよ」


 あのときは言えなかった。吐き出してしまえばなんてことはない。自分のダメなところを知られたくなくて、一緒に上を目指せないのを自覚したくなくて、だからといって死に物狂いの努力もできなくて、ぬるま湯の中で目を逸らしているだけだ。


「……だってジルは天才だから。少し努力しただけであんな音が出せるんだろ」

「は? 天才はリオンでしょ」

「俺は違う。俺は……。どうしてそんなこと言うの? ジルこそ分かってないのに」


 リオンが苦しそうに眉を寄せる。


「……じゃあ、違う言い方をしようか。リオンはただの天才じゃなくて、努力の天才でしょ」


 彼の努力は並じゃない。ずっと見てきた僕はそれを知っているし、本人も当然分かっているはずだ。少しでも音楽に関連することなら片っ端から拾い上げ、徹底して掘り下げる。しかも絶対に途中で投げ出さない。


「好きなことのためにすべてを投げ打って、自分を律して、苦しみながら一途に努力し続けられる人はほんとうに少ない。ましてリオンみたいに成果を出せる人なんて……、そんな天才の1人が君だよ」


 リオンは僕の言葉を否定できずに、黙って唇を噛んでいる。


 自分自身に厳しい幼馴染のために、いつだって僕は優しさをあげたかった。僕が当たり前に家族から与えられてきた優しさと同じものを。


「リオン。君には同じ感覚で世界を見てくれる人が必要だ。ヴィオちゃんみたいにね。だから僕は断った。分かる?」


 きれいで健気な僕の幼馴染。

 君には僕の気持ちが分からないだろう。

 きっと、永遠に。


「——ねぇ、ジル。初めて会った頃のこと覚えてる?」


 僕の話を黙って聞いていたリオンが唐突に、そして静かに言葉を紡いだ。


「俺は父上の後を継がなくちゃいけなくて、何でもただ教えられた通りにやるだけの子どもで」


 彼は椅子を引いて立ち上がると、しゃがみこんで僕の右手を取った。そして子どもの頃みたいに両手で包み込む。


「でも、ジルはまるで違った。いつも自由でまぶしくて、温かいこの手を握れば俺も自由になれる気がした。ジルのお父さんが持ってきた商品のバイオリン、あれを勝手に持ち出して裏庭で弾いてくれた日もそうだったね」


 急に懐かしい話をされて、一気に記憶が蘇る。

 あの日のことは僕も覚えている。

 商会の仕事をする父と共に、2度目に伯爵家を訪れた日のことだ。


「あー……、そんなこともあったな」


 今の僕たちの背丈は同じくらいだけれど、8歳の彼はひとまわり小さかった。

 あの日の父はリオンの姉のためにバイオリンを持って行ったらしい。それなのに、小さなリオンが食い入るようにバイオリンを見ていたのだ。あんなに目をきらきらさせてたら弾いてやりたくもなるだろう。


「嬉しかったんだ。すごく。嬉しかった」


 両手で握ったままの僕の手を、彼はじっと見つめてつぶやいた。


「そのときに決めたの。俺の武器はこれだって」

「武器?」

「自由になるために必要な武器」


 その意味を数秒かけて咀嚼し、僕は呆然とした。

 リオンが吐露したのは、初めて聞く本音だ。

 ただ音楽が好きなだけだと思っていた。

 好きな音楽を続けるために自由を欲したのだと思い込んでいた。

 でも逆だった?

 リオンが真に欲しがったのは自由で、そのための手段が音楽だった?

 僕は幼馴染のことを全然わかっていなかった?


 じゃあ僕は何なのだろう。

 僕の音は——。


「リオン」

「……」

「まだ分からないんだ」

「なに」

「僕の音に拘るのはなんで?」


 さらさらと流れる髪がリオンの表情を隠している。体を寄せて覗き込もうとしたら、その頭がぱっと上がった。


「よく分かんない」

「……わざわざ来たんだから教えてよ」

「分かんないけど……ジルの音が聞こえると安心するっていうか……。救われた気分になる」  


 率直に淡々と答えたリオンが、僕の手を離して苦笑する。


「ジルが望まないなら、またちゃんと諦める。でもそうじゃないなら……また俺の曲を弾いてくれる? 一緒に同じ世界を見なくていいから、たまにでいいから、ここで」


 一途で我儘な僕の幼馴染。

 僕には君の気持ちが分からないだろう。

 きっと、永遠に。


「僕はね、実はリオンの曲が大好きなんだ。知ってた?」


 僕がおどけて言うと、きょとんとした金色の目が瞬く。

 いつも曲を聞かせてくれるたびに散々褒めたんだ。知ってるだろう?


「リオンのため弾きにくるよ」

「ほんとう?」

「たまには君が里帰りしてくれてもいいけど」

「……わかった。行く」

「僕もリオンに会いたいしね」


 僕が素直な気持ちを口にすると、リオンはあどけなく歯を見せて笑った。そして何を思ったか、物珍しそうにペタペタと床を触りだす。


「床、ひんやりして気持ちいいね」

「いや、うん。むしろ寒いけど今それ?」

「だってこの別荘たまにしかこないし、床の材質なんてよく見てなかったし」

「リオン酔ってるだろう。だから気持ちよく感じるんだよ。ほら、風邪ひく前に立ちなさい」


 先に立ち上がって手を掴み、リオンを引き上げてやった。彼は嬉しそうにニコニコしている。

 そして当たり前のように僕はバイオリンを拾い、彼はピアノの前に座った。


「弾ける?」

「うん」

「じゃあ……」


 ピアノの演奏が先に始まる。

 隣でバイオリンを構えた僕は、最初の音を5年ぶりに幼馴染へ捧げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

秘曲 雨庭モチ @scarlet100

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ