天秤の魔王
@dae
第1話「転移」
東京のど真ん中に位置する東都大学は、日本で最も難関とされる学府の一つ。その校門をくぐる暁月黎翔(あかつきれいと)の姿は、他の学生たちと一線を画していた。
暁月 黎翔――19歳にして、わずか一年半前に主席でこの東都大学に入学し、周囲の期待を集めていた天才である。
講義室に入ると、すでに教授が授業を始めている。今日のテーマは「経済学におけるAIの応用と未来予測モデル」。黎翔は淡々とノートを取り続け、何の感慨も表さない。彼にとっては日常の一コマでしかないのだ。
講義が終わり、周囲の学生たちが立ち去る中、黎翔は自分のパソコンを開く。大学生活だけでなく、彼はすでに起業家としても成功を収めていた。彼の手がける事業は、AI技術やITを駆使した効率化サービスだ。最初は個人で始めたものだったが、次第に規模が拡大し、今では数名のスタッフを抱えているほどの事業になっている。
――だが、彼の心は常に冷静すぎるほど冷静だった。
パソコンの画面には新しい契約の通知が表示されている。「契約額1億円突破」のメールが届いているが、彼の目に特に喜びや達成感は見られない。むしろ、無感情にその通知を閉じ、次の仕事の準備を進めている。
「金は十分だ。次は……どうする。」
頭の中で計画を立てながらも、彼はふと外の窓を見つめる。
外の光景は、東京の美しいビル群。しかし、彼にとってはその光景すら冷たい灰色に見える。
そんな彼にも、一つだけ感情を揺さぶるものがあった――それは、妹の存在だ。
妹が自殺してからの1年間、黎翔は無感情な成功を追い続けていた。しかし、ふとした瞬間に蘇るのは、あの悲劇的な出来事だった。
夜、一人で自宅に戻ると、彼は机の引き出しから一枚の写真を取り出す。それは、妹と一緒に笑顔で写っている写真だった。
「おまえがここにいたら、俺は笑っていたかな」
黎翔より2歳年下の妹の美菜は、有望な陸上選手として注目されていた。幼い頃に父親を亡くし、数年前に母も病気で失った2人は、お互いに助け合いながら生きていた。
しかし、美菜は関東大会で優勝した後、ドーピング疑惑をかけられ、それがSNSやニュースでも報道された。
その疑惑は事実無根であったが、一度燃え広がった火は消えることなく、売女、恥知らず、卑怯者、など、美菜には誹謗中傷が多く寄せられた。
黎翔は気にすることないと必死に彼女を励ましたが、SNSに伴う学校内でのいじめもあって、美菜は首を吊って自殺した。
黎翔は写真を見つめながらも、表情は変わらない。ただし、その心の奥底では、絶え間ない怒りが燃え続けていた。
「この社会は、弱者を簡単に踏み潰す……力のない者は、常に理不尽に押し潰される。そんな世界で俺ができることは何だ?どうやって、この社会を変えられる?」
彼は深く息をつき、妹の写真を元に戻す。黎翔の中で、感情はどこかで凍りついたままだった。
夜の東京。灰色の空から降りしきる雨が、街灯の光をぼんやりと照らし、街全体がまるで霧に包まれたような幻想的な雰囲気を醸し出している。
暁月黎翔(あかつき れいと)は、無表情のまま黒い傘を差し、静かに夜道を歩いていた。黒いジャケットが雨を弾き、冷たい雨粒が路面で跳ね返るたび、彼の足音が微かに響く。
「雨か……」
目の前を歩いていた人々が次々と傘を差し、黙々と足早に道を急いでいる。そんな中、明らかに不良のような男が向こうから歩いてきた。だらしなく下ろしたフードに、顔にはタトゥーが刻まれている。男は周りの人々を威圧するように肩を揺らしながら歩いており、行き交う人々はその存在を避けるように道を譲っていた。
しかし、黎翔はその男に目を向けることなく、無表情のまま足を止めることなく歩き続けた。雨の音だけが響き、不良の男が通り過ぎる瞬間、一瞬だけ目が合うが、互いに一言も発することはなかった。黎翔は、ただ無機質に歩き続ける。
そしてふと、前に目をやると、一人の女子高生が交差点で信号を待っている姿が見えた。制服が雨に濡れて重たそうに見え、彼女もまた無言のまま信号が青に変わるのをじっと待っていた。
黎翔は、その光景をぼんやりと眺めながら、再び前を向く。特に何も感じることはない。いつもの、無感情な日常。ただ、冷たい雨が降り注ぎ、いつものようにただ時間が過ぎていくだけ――そのはずだった。
その瞬間だった。
足元の地面が突然、淡い光を放ち始めたのだ。まるで無数の小さな星が道路から浮かび上がってくるかのように、地面全体が白い輝きに包まれていく。
「……なんだ?」
黎翔は思わず立ち止まり、周囲を見渡した。周囲には女子高生と先ほどの男しかいなく、2人とも驚いてるようだった。視界全体が白い輝きに染まり始め、周囲の音が徐々に遠のいていく。
すると、突然――降り続いていた雨粒が空中で止まった。
一瞬の静寂が訪れる。そして、信じられない光景が彼の目の前に広がり始めた。
降っていたはずの雨が、まるで時間を巻き戻したかのように上へと昇り始めたのだ。雨粒が地面から離れ、空へと向かって吸い上げられていく。まるで映画の逆再生を見ているかのように、雨粒一つ一つがゆっくりと上昇していく。
黎翔はただ無言でその異様な光景を見つめていた。空中に舞い上がる雨粒たちが、彼の周りを囲むように踊り、白い光がどんどん強くなっていく。視界がぼやけ、辺り一面が光に包まれると同時に、足元がぐらりと揺れた。
「……これは……夢か?」
彼の意識がふっと途切れ、次の瞬間、視界が完全に真っ白になった。
しばらくして、黎翔はゆっくりと目を開ける。肌に触れる感触が、さっきまでいた雨の冷たさとは全く異なっている。暖かな日差しが降り注ぎ、耳には人々の喧騒が聞こえてきた。
そこには見慣れない街並みが広がっていた。最初は東京のように見えたが、細部を見れば見るほど、明らかに異質な何かを感じさせる。
道は石畳で舗装されており、建物は中世のヨーロッパ風の古めかしい造り。見上げると、青空の下にはアーチ状の窓や尖塔が立ち並ぶ、見たこともないデザインの建築が並んでいる。街全体が歴史の中からそのまま抜け出してきたかのような雰囲気に包まれていた。
「ここは……どこだ?」
黎翔は、周囲の人々に視線を向ける。だが、そこにいる人々の見た目は、彼がこれまでに見たことのないものだった。金髪や銀髪、さらには鮮やかな緑色や紫色の髪色をした人々が、当たり前のように街を行き交っている。肌の色も目の色も、明らかに日本人や一般的な外国人の範疇に収まらないような、鮮やかな色彩が溢れていた。
彼らの服装もまた、奇妙なものだった。絹や革でできたローブやチュニック、マントを羽織っている者が多く、現代日本で見かけるようなファッションとは一線を画している。まるでファンタジーの世界にでも迷い込んだかのようだった。
黎翔はしばらく周囲を観察していたが、現実的な情報が必要だと判断し、近くを歩いていた一人の女性に声をかけることにした。彼女は美しい銀髪を背中まで垂らし、紫色の目が印象的な若い女性だった。
「あの……ここはどこですか?」
黎翔の問いに、女性は少し首をかしげる。
「あなた、旅人?見かけない見た目ね……ここは『シャムラ』の街よ。」
「シャムラ……?」
聞いたことのない地名にれいとはさらに混乱する。続けて、国名を尋ねることにした。
「この国の名前は?」
「国って…リオンドール王国よ。」
その言葉にれいとは唖然とした。リオンドール王国……聞いたこともない国名だ。東京で暮らしてきた自分の知識には、そんな国の存在はなかった。
不安と驚きが入り混じったまま、黎翔はその場に立ち尽くした。この場所が自分の知っている地球ではないことは明白だった。そして、目の前に広がる異世界の風景が、彼に現実を突きつける。
「…………おれは別の世界に来たとでも言うのか………」
黎翔は、女性の言葉を受けてしばらく唖然としたまま立ち尽くしていた。しかし、ここが自分の知る世界ではないことを改めて理解すると、ゆっくりと街を歩き始めた。
目の前に広がるのは、見慣れない風景ばかりだ。石造りの建物が並び、通りを行き交う人々の装いも異様に見える。中世ヨーロッパのような、どこか歴史書で見たような風景が広がっているが、現実感がまったくない。目に映るもの全てが、自分がこれまで知っていた東京の街並みとはかけ離れていた。
歩きながら、ふとポケットに手を入れ、財布を取り出して中を確認してみる。中には数枚の紙幣と小銭、クレジットカードが入っているが、この世界で使えるはずもない。
「……さすがに使えないか。」
苦笑しながら、財布をポケットにしまい直す。改めて自分の状況の異常さを実感し、言いようのない不安が胸を締め付ける。この世界でどうやって生活すればいいのか――途方に暮れそうになるが、頭を切り替えなければと自分に言い聞かせた。
そして、もう一つ疑問が浮かぶ。先ほどの女性と普通に会話ができたことが、妙に引っかかる。
「……言語が通じるのは、どういうことなんだ?」
異世界らしき場所に来ているにもかかわらず、言葉が通じるというのは明らかにおかしい。偶然、自分の言語と似たものを話しているのか、それとも何かしらの「力」が働いているのか……答えの見えない疑問が頭をよぎった。
考え込んでいるうちに、ふと腹の虫が鳴いた。異世界に来てから何も食べていないことに気づき、急に空腹を感じる。食べ物を手に入れるためには金が必要だ。しかし、日本円が使えない以上、何かしらの方法でこちらの「金貨」や「銅貨」を手に入れるしかない。
「まずは……どうにかして金を稼がなければならないな。」
そうして街を歩いていると、前方から牛のような生き物に引かれた大きな檻が目に入ってきた。檻は、馬車のような構造をしているが、より頑丈で冷たい鉄の格子で覆われている。その檻の中には、人間に似ているが、明らかに異質な特徴を持つ者たちが入れられていた。
檻の中の彼らには、鋭い角が生えていたり、尖った耳を持っていたり、肌の色もどこか人間とは異なる色合いをしている者が多い。見たところ、少年や少女も混じっており、皆一様に首輪が嵌められており、無気力な表情で檻の隅に座り込んでいた。
「……奴隷、か?」
黎翔は、その異形の者たちの首輪を見て奴隷であることを瞬時に理解した。この異世界でもかつての地球のように奴隷制度があるのだろうか。それにしてもあの姿、明らかにおれが知っている人間ではない
その光景に眉をひそめた黎翔は、隣に立って檻を見つめていた一人の中年の男に話しかけた。粗末な服を着たその男は、檻の中を興味津々に眺めている。
「あいつらは罪人なのか?なぜ奴隷にされている?」
男は黎翔の問いに少し戸惑った表情を見せたが、すぐに嘲笑するように肩をすくめた。
「罪人? いや、そんなことは知らないよ。奴らが奴隷になったのは……魔族だからさ。」
魔族………やはり人間ではないのか
「魔族だから……? 魔族なだけで奴隷にされるのか?」
黎翔の質問に対して、男はまるで当たり前のことを聞かれたかのように鼻で笑った。
「そりゃそうだろうが。魔族なんてのは、人間じゃないんだ。奴隷にされて当然だろ?」
男の言葉に黎翔は言葉を失う。まるで、彼にとって魔族が虐げられることが当然のように話している。
「……なぜだ。戦争に負けたとかか? 」
地球にも、侵略してそこの原住民を奴隷にすると言う歴史は幾度も繰り返されてきた。この者たちも、そうやって奴隷になったのだろうか
男は呆れたように肩をすくめ、下品な笑みを浮かべた。
「理由なんかいるか? あいつらが魔族ってだけで充分さ。人間と違うんだ、あの連中は。そういや、あの奴隷の中に胸のデカい女がいるな……俺が買ってやってもいいくらいだぜ。」
男は檻の中にいる魔族の少女を指差し、下卑た笑いを漏らした。まるでその少女を「物」としてしか見ていないかのような言葉。黎翔の心に、強烈な不快感が込み上げてきた。
黎翔は無言で男を見つめながら、頭の中で冷静に考えを巡らせていた。
なるほどな。これは、地球における「人種差別」だ。
ただ「違う」という理由だけで、尊厳も奪われ、物のように扱われる。地球でも、人種や外見が異なるだけで不当な差別や迫害を受けた人々がいた。
檻に入った魔族を見て、ふと妹を思い出す。妹が苦しんだ時も、根拠のない噂や偏見が原因だった。それが原因で命を落とした彼女のことが、再び強烈に脳裏に蘇る。
「……魔族だから、奴隷にされる。人間じゃないから……そう考える連中が、何の疑問も持たずに支配しているのか。」
男の言葉には、魔族を「人間とは異なる存在」として見下す偏見が根深く染みついている。そして、その偏見は、地球の人種差別と同じように、魔族たちに対して過酷な扱いを正当化している。
「どの世界も変わらないな……」
地球での社会に対する怒りが、今度はこの異世界の理不尽さに向かって燃え上がってくる。自分の妹と同じように、無力なままに蹂躙され、虐げられている魔族たち。黎翔は、そんな魔族を見て複雑な気持ちになった。
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