レジスタンス ワンス モア

泉花凜 IZUMI KARIN

第1話 前編


 私、品川美結しながわ みゆと、友人の本条詩織ほんじょう しおりは、互いのルックスを交換した方がいいとよく周りに言われていた。


 見た目だけでなく、名前も互いに正反対だと称されていた。私は美結の名にふさわしくなく、陰気に教室の隅で本を読むのが何より好きな子どもだったし、ゆるふわ茶髪のボブヘアはコテで巻いたわけでもなく美容院でカラーを当てたわけでもなく、正真正銘の地毛だった。一方の詩織は、「本」と「しおり」がフルネームに入っているくせに読書という行為に関心がなく、陽キャたちと一緒にお洒落への道を究めたり、体育の授業で成績優秀な結果を残したりしてクラスの注目を我が物にしていたから、私たちが対照的だと見なされるのは自然の成り行きだった。


 本来、私たちは何の接点もないはずだった。

 少なくとも私はそう思っていた。


 高校入学後の、部活見学の日、ダンス部の部室の前に集まったクラスメイトたちの中に、詩織を見つける時までは。


「品川さん?」


 詩織は臆することなく私に話しかけた。彼女には人見知りという概念がないらしい。


 取り巻きの女子たちは遠巻きに私を観察した。私の方は、入学後の何週間か経ってもいまだに気安く話せる間柄の同級生を持てていなかった。気まずい空気を感じながらも、私は「どうも」と返事をする。


「ダンス、好きなんだ?」


 詩織は純粋な好奇心から質問したのだろう。私はこくりとうなずきだけを返し、会話の続きを答えられなかった。


 代わりに、詩織がいろいろと話しかけてきた。今思えば、気を遣ってくれていたのかもしれない。いまいち察しが足りない私は、そういうことにも気づけない。


「がんばろうね。一緒に」


 本条詩織はにっこりと笑いかけた。私は「どうも」と不愛想に頭を下げただけだった。



   💙



 根暗な私がダンス部への扉を叩いたことを、何人かは笑ったけれど、詩織は笑わなかった。はやし立てるわけでもなく、馬鹿にすることもなく、ただじっと、観察するように私の動向を見続けていた。


 決して運動ができる方ではない私は、振り付け練習の時によく周りから後れを取って、先輩から怒られた。その分、朝練を入れてカバーした。出来が悪いならば、その分努力するしかない。私は無我夢中でダンスにのめり込んだ。


「ダンスとかするキャラなの?」


 ある時、メインメンバーの一人が私を揶揄やゆしてきた。いろいろ気に食わないのだろうなと感じつつも、私は言い返した。


「キャラは関係ないよ。やる気があるかどうかだ」


 その子は最近、部活をサボりつつある癖がついていた。先輩たちがみんな厳しい指導をするため、やってられないと匙を投げる子もちらほら出てきた頃だった。


 彼女は私を剣呑な目つきでにらみ、その日から口を利かなくなった。



   💙



 結局、厳しいダンスレッスンに残ったのは数人程度だった。十数人いた入部者はみんなどこかへ行った。楽な部活に移ったのか、帰宅部に落ち着いたのか知る由もないけれど、私が最後まで残ったのは他の子たちにとって意外だったらしい。


 私は本条詩織とよく話すようになり、というよりは彼女が積極的に私に話しかけてきて、受け答えするうちに、仲間の輪に入れてもらったという幸運な展開になった。


 みんな私を受け入れてくれたが、あの日突っかかってきた子は、相変わらず無視を徹底していた。私の方も、避けられているのなら無理してあの子に合わせる気もないという意思表示を、態度で示していた。


 その子は一年ほど続くかと思っていたダンス部を、次第にフェードアウトしていった。



   💙



 私のダンスの実力は、日々少しずつ上がっていった。その頃には後方の列ではなく、前の方の端の位置で踊れるようになっていた。


 自分が上手くなるのを実感する。昨日はできなかったポージングが、体さばきが、体軸の移動が、スムーズに行えるようになる。ダンスは努力すれば努力するほど、体が応えてくれるものなのだと知り、自分の体が強くなっていくことや、磨かれていくことが誇らしいと感じるようになった。


 季節は過ぎ、私たちはいよいよ二年の終盤に差し掛かっていた。


 来年になれば受験生だ。部活の引退が迫ってきた最中、最終的に五人のチームにまとまった私たち二年生は、青春が終わる間際の部活動に勤しんでいた。


 ダンス部は、全国大会に進めるような実力ではなかったものの、まずまずの好成績を残し、学校側から表彰された。品川美結の青春としては、合格点と言えるだろう。


 ピークを過ぎたダンス部の部室には、詩織以外誰もおらず、二言三言会話をした後は、私たちは各自の準備運動に入り、しばらく黙々と取り組んだ。


「美結、がんばってるじゃん」


 詩織は対面鏡に並んだ私たち二人の体を見つめ、にやっと笑った。

 彼女は時々、私と二人でいる時だけ、少し皮肉気な笑みを見せる。


「うん、ありがとう」


 短い礼だけを返し、ストレッチに励む。詩織に褒められたことが素直に嬉しくて、顔が赤くなってしまったのを見られていないか、気がかりだった。


 適当に会話を交わしながら、ストレッチをする。体を慣らすのは何より大事で、日ごろのケアを怠るとすぐに踊りに結果が反映されるため、私は人一倍入念に準備をしていた。誰より先に部室に入るし、放課後は誰より遅く学校に残る。その私と練習時間を競っているのが、彼女だった。詩織も負けず劣らず練習熱心な性格をしていた。


 私たちは互いを下の名前で呼ぶ間柄になった。主に向こうが積極的に私に絡んできて、私が受け答えをしているうちに、名前を呼び合う流れになった。最初こそ私はドギマギしていたものの、詩織は慣れた様子で「美結」と言うものだから、私も緊張するのが馬鹿らしくなり、一度「詩織」と口に出してしまえば後は自然に距離が近づいていった。


「美結は体が柔らかいね」


 詩織がこちらを見つめる。「そうかな」と私は自分の体を疑問に思った。何てことのないストレッチをしていたつもりだったが、彼女の視点から見れば、私は恵まれた体型をしているのかもしれない。


 詩織がこちらに近づき、「背中押していい?」と聞く。


「うん、いいよ」


 私は彼女に体を預けた。


 詩織の両手が背中にぴたりと張りつき、柔らかく押される。重力に従って私は体を前に倒す。詩織の手のひらは温かくて、熱いほどだった。


「詩織、熱あるの? 手が熱いよ。もしかして具合悪い?」

「どこも悪いところないよ。ほら、私、汗っかきだからさ。体温高めなんだよね」

「そっか」


 詩織の手の温度はその後もゆっくりと上昇していくように、じっとりと熱く伝わった。この子はもしかして緊張しているのだろうか、と疑問が頭をよぎったが、私といる空間に緊張などするものだろうかと思い直し、何も聞かずに前屈を続けた。


 軽く数分が過ぎたところで、詩織はぱっと手を離し、

「私の背中も押してー」

 と人懐っこく、ぺたんと床に座った。


「はいはい」


 場所を交代し、私は詩織の背中に手をつける。確かにいざ押す側に回ると、自分の手のひらが汗ばんでいないか、詩織に何か思われないか、妙に気になる。


「私、手、大丈夫?」

「全然問題ないよ。美結は気にしいだね」

「うん、そうかも」


 素直に認め、ゆっくりと彼女の背を押すと、私のものよりずっとスムーズに前に倒れた。あなたの方がずっとダンス向きだよ、と私は口走りそうになる。


「みんな辞めちゃったね」


 ふいにつぶやかれたその台詞は、独特の切なさが含まれていて、胸がぎゅっと詰まるような思いがした。私は彼女に比べれば、ずっと薄情で、他人の言動などに興味はない。でも詩織は違う。この子は去っていった子たちにも平等に同じ視線を注いでいるのかもしれない。


 どう返したらいいかわからず、私は黙ったままストレッチの手伝いをしていた。


「美結さあ、私もここ辞めたらどうする?」

「……え」


 心臓を冷たい手で撫でられているような寒気が走った。詩織が? 辞める? ダンスを?


「……ダンス、つらいの?」

「もしもの話だよ。ダンスは好きだし、ダンス部も好きだよ」


 じゃあ何で辞めるなんて言うの? あと少しがんばれば引退なのに。聞きたい言葉を飲み込んで、私は黙秘を続けた。部室には今、私たちしかいない。二人分の息遣いが、しんとした部屋に、はっきりとクリアに聞こえ出した。


 どうしよう。どう答えればいいの。


「そんなに困らないで」


 詩織が申し訳なさそうに笑う。こんな顔をさせてしまっているのも、私が原因なのか。

 私は、人を困らせてばかりだ。


「私はただ、美結はダンスの達人だなあって感じただけだよ」

「……え」


 そんなことない。私はそう言おうとして、でもなぜか口の中が重くて、舌が上手に回らなかった。言い淀んでいるうちに、詩織は軽やかな口調で私を褒め始める。


「美結はとても、とてもがんばってるよね」


 がんばってないよ。まだまだ、全然届いてないんだ。


 体の内にしこりが固まって大きくなっていくような、無視できない気まずさが募っていた。


「私は、美結が辞めたら辞めるけど、美結は私が辞めても、辞めないんじゃないかなあ」


 驚くことを口にしている詩織に、反応をうまく返せないでいると、「何となくね。願望よ、願望」と再び彼女は困り顔で微笑んだ。


「そんなことないよ。詩織が辞めたら、私だって辞めるよ。そもそも、もうすぐ引退じゃん」


 若干ムキになって反論する。


「どうかな。美結はさ」


 詩織は一呼吸おいて、断言するように言い放った。


「踊るのが好きだから」


 そんな、と私は二の句が継げなかった。一体何の根拠があって、この子は私をここまで信じ切っているのだろう。


「そんなことないよ」

「そんなことあるよ」


 言葉返しのように詩織は続ける。


「誰がどれだけいなくなっても、美結だけは、ダンスを続ける気がする」


 ぐっと、息が詰まるような苦しみが胸の中に充満した。


 私にそんな気概があるだろうか。

 今でもグループの輪に完全には溶け込めていない、コミュ障の私が、気合だけでダンスを続けられるだろうか。


 詩織は私の気持ちに気づかず、しゃべり続けている。


「美結のダンスは、『この子は踊ることが好きなんだ』って伝わるの。私はダメ、全然ダメ。私はね、張り合っているだけなの。ただの負けず嫌い。ダンスに対する愛情があるかどうかは、わかんない。私はダンスが好きかどうかもわかんないの」

「……張り合ってるって、誰に?」


 詩織がゆっくりと、こちらを振り向く。


 その目は恐ろしさを感じるほどに真剣だった。


 それ、私に言わせる?


 瞳には、私への強いメッセージが込められている。


 思わず目をそらした。どうして、私にそこまで期待するのだ。私はあなたより上手くもなければ、技術もまだまだ追いついていない。それなのに――最初から――初めて会った時から、私を特別視するのはなぜだ。


 手が震えた。もう、彼女の背中をさわれない。

 気がつくと、私は詩織から離れていた。


 詩織は立ち上がっていた。私は数歩、後ずさる。

 私たちは向かい合わせになる形で、その場に立ちすくんでいた。


「うらやましい」


 詩織が言い放った一言は、私を凍りつかせるのに十分すぎるほどの威力を伴っていた。


「そこまで好きになれるものを持っている、とか」


 詩織も自分が何を言っているのか、整理し切れていないようだった。つっかえながら話す彼女は、見知らぬ誰かに思えた。


 一言も発することができない。

 私は指先一つも動かせなかった。


 これは本当に詩織なのか。活発で、クラスの誰ともそつなく会話ができる、生粋の陽キャの本条詩織なのか。


 信じがたいほどに、詩織が私を見る目つきは仄暗い。果てがないほど深く沈んだ深海魚みたいだ。一切の日射しも届かない海。


「美結」


 ぞくりと、背筋が震えるような、低い声だった。


「私と踊っていて、楽しい……?」


 心が凍った。比喩でなく、本当に凍るかと思った。今にも倒れてしまいそうな重い沈黙が、暗雲のように立ち込める。


 何も言えなかった。何も返せなかった。


 気がつくと、私の足は部室のドアへと向けて駆けていた。


 私は詩織の顔を一切見ないまま、背を向けてその場から逃げ去った。


 それきり、私と彼女は会話をしなくなり、私は打ち込み続けたダンス部へ寄りつかなくなった。



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