介護犬ジョイス

長井景維子

保護犬ジョイス

ジョイスは虐待されて飼い主に捨てられ、保護犬になっていたところを、保健所に勤務する介護犬トレーナーの斎藤さんに助けられた。ラブラドールレトリバーとボーダーコリーのミックスのメスで、ワサワサと長い毛におおわれている、茶色い雑種だ。


保護された時、ジョイスの体重はわずかに今の半分しかなく、狭い檻の中に入れられて、散歩もシャンプーもしてもらっておらず、保護しに来た保健所の職員に、すがるように鳴いた。飼い主にネグレクトされ、時には暴力を振るわれ、それでもジョイスは人間を恐れず、近づいてきた保健所の職員に尻尾を振った。


ジョイスという名前は、斎藤さんがつけたものだ。それ以前の生活に戻したくない、飼い主の影をこの犬から消したい、その思いで、斎藤さんたちは新しい呼び名、『ジョイス』と名付けた。一旦は、殺処分を待つ犬の末尾に入れられていたが、生来の性格の良さを斎藤さんが見抜き、ジョイスを介護犬へのトレーニングの道へと進めた。


ジョイスは基本的なおすわりや待てもできなかったが、斎藤さんは辛抱強く教え込んで行った。お散歩の時はついつい喜びすぎて、人間より前を走ってしまう。それをなだめなだめ、リードを持つ人の横にぴったりと寄り添って、スピードを人間に合わせてゆったりと歩けるように訓練した。


そして、ジョイスが極めて優れていたのが、その性格の優しさだった。子どもやお年寄りにも優しくその手を舐め、決して吠えることはなかった。小さな子供がその毛を引っ張っても、嫌がるそぶりを見せず、じっと我慢が出来た。こういう犬は珍しいという。


保護された時のジョイスの年齢は推定5歳。斎藤さんは、まだ若いジョイスを、特別養護老人ホームでの介護犬にしようと決めた。認知症を持ったお年寄りは、犬と触れ合うことで、認知機能が高まったり、認知症の進行が抑えられたりすることがある。介護犬は認知症の老人に時には叩かれたり、蹴られたりすることもあるが、その時に吠えたり、噛みついて抵抗したりしない従順さを身につけておく必要もある。ジョイスの訓練は続いた。


そして、2年の訓練を終了して、介護犬ジョイスが誕生した。町の特別養護老人ホームに初出勤となった。斎藤さんが同行した。車に乗せられ、ホームの駐車場に着くと、ジョイスはおとなしく指図されるまで、車内で待機していた。


サルスベリの白い花が咲き、ツクツクホーシの鳴き声が聞こえる。ジョイスはリードをつけてもらって、車から降りた。しばらく珍しそうにあたりの匂いを嗅いでいたが、斎藤さんの合図でピタッと斎藤さんの脇に並び、小道を歩いて建物の中へと一緒に入って行った。


お年寄りたちは、昼食を終えて、それぞれ寛いでいるところだった。急に扉が開き、斎藤さんとジョイスが静かにフロアに入ってきたが、それに気づく様子もなく、車椅子に座ってお茶を飲む人、杖を突いて廊下を歩く人、ソファーに座って考え事をしている人。ジョイスは人懐っこく、その中の一人に近づいて、じっと顔を見つめた。尻尾を盛んに振りながら。


そのお年寄りは、ジョイスに気づいて、一瞬驚いて、

「怖い。」

と言った。斎藤さんがすぐに駆け寄り、ジョイスの首輪を抑えて、

「噛まないですよ、この子は。いい子です。女の子で、ジョイスといいます。」

お年寄りは不思議そうにジョイスを眺めていたが、恐る恐る手を出し、ジョイスの頭をそっと撫ぜた。ジョイスはじっとお年寄りの目を見て、尻尾を振った。

「本当だ。おとなしいね。可愛い。」

と、今までに見せたことのない笑顔になった。その笑顔を見ると、ジョイスは嬉しそうに今度はお年寄りの手を舐めた。

「ははは。くすぐったいよ。」

お年寄りは声を出して笑った。


斎藤さんはジョイスとこのお年寄りをずっと見守りながら、

「これ、犬用のおやつです。やってみますか?」

と、ジャーキーを手渡した。お年寄りはジャーキーを、

「これ、この子が食べるもの?」

と聞き、斎藤さんは、

「はい、そうです。大好物なので、喜びます。」

と笑顔で話した。お年寄りはジャーキーをジョイスの目の前に見せると、

斎藤さんが、

「おすわりさせてみましょうか?」

と言うのを聞くや否や、

「私も昔犬を飼ってたんですよ。やり方知ってます。」

としっかりした調子で話し始め、

「ジョイスちゃん、はい、おすわり。」

「おて」

「待て」

「お預け」

「よし」

と言って、ジャーキーをジョイスに食べさせた。それを遠くで見ていた介護福祉士は、あまりのこの老人の変化に驚きを隠せなかった。


「斎藤さん、ちょっと。」

介護福祉士が斎藤さんを呼ぶと、

「信じられないほどのジョイスちゃん効果です。」

斎藤さんは、

「そうでしょう。犬って特別な力を持ってるんですよ。」

と言いながら微笑んだ。


ジョイスがもたらした効果はこれだけではなかった。夫を亡くし、家族が恋しくて泣いてばかりいた高齢の女性は、ジョイスを抱きしめて、思いっきり頬ずりして、笑顔を取り戻した。ジョイスの毛むくじゃらな体を撫ぜているうちに安心したようだ。ジョイスは抱きしめられる時は、10分でも20分でも、ただ動かずにじっとしていることができた。


杖を使って歩くお年寄りには、ジョイスはゆっくりと邪魔にならぬように後ろをおとなしくついて行って、そのお年寄りが椅子に座ったり、ベッドに横になると、顔を手に近づけて、その人が嫌がらないか確かめてから、そっと指を舐めた。そして尻尾を振りながら、その人が頭を撫でてくれたり、抱きしめてくれるのを待っていた。


このように、ジョイスは介護犬として特老で仕事をしている時は、お年寄りに精一杯尽くして、お年寄りを慰めたが、斎藤さんはまだ壮年期のジョイスがストレスを溜めることを知っている。だから、仕事が終わると、車に乗せて河原に連れてゆき、思いっきり走らせてやることを日課にしていた。


ある日は、雨が降って、足が濡れていて、ジョイスは特老の入り口で斎藤さんに足を拭いてもらってから建物の中に入った。介護福祉士が近寄って来た。


「斎藤さん、実は、利用者さんがお一人危篤なんです。ジョイスを近づけてもいいでしょうか?最後にジョイスを見せてあげたら喜ぶんじゃないかと思うんですが。」


斎藤さんは、


「それでは、ジョイスに服を着せましょう。昨日シャンプーしてありますが、殺菌が十分でないといけないから。」


「ご家族に確認を取って来ます。介護犬を個室に入れていいかどうか。」


ジョイスは犬用の服を着せられて、リードをつけて、準備を整えた。介護福祉士が家族の一人と一緒に部屋から出て来た。


「ジョイスです。こちらはトレーナーの斎藤さんです。こちらがご家族の方です。」


「どうぞ、母にワンちゃんを見せてあげてください。触ってもいいんですか?」


「もし、ご本人が望まれたら、どうぞ。この子は触られてる間はじっとしている訓練をされていますので。」


ジョイスは斎藤さんにリードを握られて、個室に入った。お年寄りは、ベッドの中で静かに目を閉じていたが、家族が、


「お母さん、お母さん、見てごらん、可愛いから。」


と呼びかけると、そっと目を開いた。そして、わずかに驚いて、そしてすぐに手を伸ばし、


「あ、ワンちゃん。」


と、小さな声でささやいた。斎藤さんはジョイスをベッドに近づけると、ジョイスはお年寄りのそばに静かに寄り添うように頭をもたげて、彼女の目を見た。お年寄りは、苦しそうに息をしていたが、笑顔になり、手を伸ばしてジョイスの鼻の周りを指でさすった。


「可愛いねえ。お名前なんていうの?」


斎藤さんは、


「ジョイスです。この子は虐待されて育った子なんです。でも、私のところに来たら、こんなにいい子になりました。ここでお仕事しているんです。」


と、ジョイスの生い立ちを話した。すると、お年寄りは目に涙をためて、


「ジョイスちゃん、ありがとう、ありがとう。」


と言いながら、ジョイスの頭を撫でた。ジョイスはこれ以上ないというくらい、優しく丁寧におばあさんの手の甲を舐めた。ジョイスはおばあさんのそばでしばらく寄り添っていた。おばあさんは次第に顔色が良くなり、


「ねえ、私、ホールに出てみたいわ。元気になったみたいよ。」


全員驚いて耳を疑ったが、明らかに呼吸も整い、顔色も良い。家族も、


「じゃあ、ちょっとだけ車椅子で連れて行きます。」


と言って、車椅子の準備をした。ジョイスはおとなしく車椅子の横にぴったりと寄り添ってホールへ向かった。おばあさんは、ジョイスの横で、数日ぶりのホールへ出て、窓の景色を見たいと言った。ジョイスももちろん一緒について行った。付添いの家族は、


「信じられません。ワンちゃんの効果でしょうか。もう、そろそろダメなのかと覚悟していたのです。お礼の言葉もありません、斎藤さん、ありがとうございます。」


斎藤さんは、


「みんなジョイスの力です。あの犬は人の愛を残らず汲み上げ、それを返してくれるんです。ジョイスを今日はずっとそばに置いてください。」


と、嬉しそうにおばあさんとジョイスを見た。おばあさんは少し前まで危篤状態だったとは思えないほどしっかりとジョイスを抱きしめていた。


ジョイスは会う人会う人を慰め、それを喜びとしている犬だった。出会った人にありったけの愛情を込めて接し、それが相手に通じると、それがこの犬にとっては何よりのご褒美となった。特老で週三日働き、5年が過ぎた。ジョイスは12歳になった。人間でいえば70歳くらいだ。そろそろ引退も考えなければならないと斎藤さんは思った。


その頃、ジョイスには動物病院で乳がんが見つかった。手術ができないくらいに進行していた。斎藤さんはジョイスを引退させて、仕事から遠ざけ休ませようと思った。


しかし、ジョイスは週三日、月水金曜日の朝になると、斎藤さんより早く起きて車に乗ろうとした。仕事に行きたくて仕方ないのだった。仕事に連れてゆくと、明らかに年老いて病気もあり、疲れやすいのだが、それでも必死に利用者さんに愛嬌を振りまいていた。そして健気に指を舐め、尻尾を振っていた。ジョイスに慰められ、助けられるお年寄りたちは依然として多かった。斎藤さんは自問自答した。


「ジョイス、お前は、自分の病気をおしてまで、人助けがしたいのか。それなら、私が全力でサポートしよう。」


ジョイスは休むことなく仕事を続けた。ついに歩けなくなり、斎藤さんが犬用に車椅子を作ってやった。そしてその車椅子に紐をつけて、斎藤さんが引っ張った。ジョイスは自力ではもはや歩けなくても、お年寄りに寄り添い、愛を与え、お年寄りを笑顔に変えて行った。


ジョイスに最期の時が来た。朝、仕事に行くため、朝ごはんをジョイスにやろうと思ってドギーベッドを見ると、ジョイスが虫の息になっている。斎藤さんはジョイスを毛布に包んで動物病院へ車を飛ばした。


「先生、先生、斎藤です。ジョイスを助けてください。」


獣医の先生はまだパジャマだったが、急いで医務室を開けてくれて、心臓マッサージが始まった。


「ジョイス!頑張れ、ほら!ジョイス!お前の頑張る番だぞ。」


斎藤さんと獣医の先生の必死の心臓マッサージが続く。




ジョイスは天寿を全うした。斎藤さんは特老の職員に会いに行き、ジョイスの死を報告すると、すすり泣く声がそこかしこから漏れてきた。主任の介護福祉士が、


「ジョイスのお別れ会をしましょう。ジョイスの写真を飾って利用者さんたちにお花を一輪ずつ供えてもらいましょう。」


斎藤さんは涙を拭きながら、


「ありがとうございます。ジョイスが喜びます。」


ジョイス、12歳。虐待されて育った犬が、周りから愛され、自分もまた愛をいっぱい与えて見事にその一生を生き切った。花に囲まれたその写真の中で、ジョイスは輝くような笑顔でこちらを見つめていた。ジョイスに慰められたお年寄りたちは、花を供えながら、涙していた。斎藤さんは、ジョイスの後継犬を育てるべく、現在取り組んでいる。

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介護犬ジョイス 長井景維子 @sikibu60

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