ローバちゃん。
この阪神淡路大震災の朝は、私はまだ布団の中にいてそろそろ起きなくてはと思っていた時に大きな揺れを感じてそれもかなり長く感じたので、よ~く覚えています。
その時はどこが震源地かもよく分かっていなくって、まさか阪神の方とは思いませんでした。
こちらは被害は全くなかったのですがもっと近くかと思ったほどの揺れでした。
そのうち、大被害がテレビで放送されるたびに怖くなったものです。
その日が東谷落語研究会の一周年記念を祝う日だったとは、忘れることができませんね。
作者からの返信
まだまだ詳しい情報が届かなくて、地震を気にしながらも愉快に賑やかにやっておりました。
あれ程の被害を知っていれば当然のこと、大笑いしてる場合じゃなかったと思います。
30年も経った今でも、忘れられないこととなり、そしてそれ以後も色んな所で大災害が起きていますね。
明日はその会の賑やかな模様の紹介となります。
ぜひ、ご一緒にお楽しみくださいませ。
この地震が起きた時、日本へ引っ越してから2年経っていませんでした。家族では日本語のテレビも見ていなかったので、夜のニュースで知りました。神戸に伯母、西宮と尼崎に叔父が一人ずつ住んでいて、3人とも家族は皆無事でしたが、住んでいた家はダメージを受けました。親戚のニュースは祖母が電話で教えてくれました。叔父の一人が、広島から軽トラで、中国山地を横切って、物資を届けていると言う話は聞きましたが、日本の生活に慣れてなかった私達には、異国の出来事の様に思えたのを覚えています。
作者からの返信
この時、姪は結婚したばかりでした。
なかなか連絡がつかず、姉達はすごく心配致しました。
やっと電話が繋がり、被害は全く無かったことに安堵し、そして大きな揺れに飛び起きた瞬間に、お婿さんが姪に覆いかぶさるようにして守ってくれた、という話を聞いて姉夫婦は大いに感激したと言っていました。
日本の生活に慣れない博士やご親戚の所でも、日本中のそれぞれの場所でも、色んなエピソードがうまれていたんですね。
神戸大震災ですか。懐かしいですね。私は渦中の人でしたが、家は半壊くらいで済みました。私は本の山に埋もれて幸せの中死ねるのだろうか、なんてアホみたいな事を考えておりましたが、こんな命でも残っていたようなので、被災地へせっせと足を運んでおりました。
無法地帯でした。自治体などは機能しておらず、上からの指示も滞り、現場は混沌としておりました。これが日を追うごとに酷くなってゆくのです。良くなり始めたのはずっと先のことでございました。
これからも日本のあちこちで起こるものとして、我々は生きてゆかねばなりません。とは言え相手は自然。何も出来ることなどございません。お義母様の仰る通り、『ねーきゃーねーよーに』と考えておくのが一番ですね(*´ェ`*)
作者からの返信
渦中の人でしたか。さぞ大変だったことでしょうね。
半壊とは言え、それは大きな被害ではありませんか。
被災地の方々は、命があっただけめっけもの、と思われるほどの悲惨さでしたね。
無法地帯だったそうですが、私もTVの報道で知り、卑怯な火事場泥棒に怒りが爆発しそうになりました。
救援物資も届かない、救急の医療物資も不足などと、聞く度に何とかならないものかと、歯がゆい思いでした。
(かといって、実際に手を差し伸べた訳でもない自分で、言えた義理ではありませんが)
何度も足を運ばれたそうですが、頭が下がる思いです。
やはり何もせずにいられない、という気持ちに動かされるのでしょうね。
そんな時、自分は果たして何か出来ただろうか、と思うと、実際に動いてくれた人に敬意を表したいと思います。
30年。あれから幾度も大災害が起きました。心して暮らさなければ、ですね。
そうですか!
あの日は記念すべき日だったのですね。
うちの方も朝方揺れて、大慌てで子どもに覆い被さった記憶があります。
作者からの返信
それほど酷い揺れは感じなかったので、テレビを見てもあのような大災害が起きてるなんて思いもしませんでした。
東日本の時はもろに揺れを感じましたから、これは!と思いましたけど。
大はしゃぎしていたのが、後になって申し訳ないと思えました。