3-8 四面楚歌、背水の陣からの完璧【side 早弥】

 酉の刻午後五時半です。

 ぼくは、岩の上で、絶体絶命の状況に陥った。


 あっちもこっちも、式神しきがみ

 逃げ場がなくなった……。


 さかのぼること数分前、僕は一匹の式神を見つけて、追いかけ。すると後ろから式神が追いかけてきたので、横に逃げようとしたら、そちらから。反対に逃げようとしたら、そちらから。


 気づいたら、およそ十体足らずの式神に囲まれていた。


 昔に、めん楚歌そか、という言葉を習った気がするけど……まさにそれ、だ。


 これを全部たおせれば、めちゃくちゃ大きいけれども……一歩間違えれば、その瞬間が終わり……。


 れいくんのこと、見つけなきゃいけないのに……!


 そもそも弓矢は、遠距離で力を発揮する武器だ。弓道で、的から離れた場所から矢を射るのを見れば、まあなんとなくわかるはず。


 ……だから、この近距離は……。

 弓矢の長所を、生かしきれない……。


 そして、弓矢は連射が難しい。

 一斉にかかられたら、処理が追いつかないかも……。


 ケガも全然治ってないし、下手に動いて傷なんて作ったら、もうそれはやばい……。

治癒ちゆのうりょく》が欲しい……。


「弓矢だから追い込んで勝ち確って……? あ、甘ったるいこと、考えないでよね……!」


 強がりで言った言葉だと、すぐにバレるような、途切れ途切れの声。

 知能の低い式神しきがみなら、バレないかな……。


 でも、震える足からもわかる。

 ……怖い。すごく、怖い。ものすっごく、怖いんだ。


 矢を射る勇気はおろか、弓を構える勇気もない。

 射っている間に、襲われるに決まってる……。


「グワァ!」


 足許あしもとにいた式神が、牙を剥いて、僕の右足に手をかけ──かける。


「ひゃっ!?」


 とっさに飛び上がったけど……バランスを崩して、岩から落ちかける。

 スローモーションのように流れる映像。襲いかかる式神。


 ……せめて、落下地点の式神だけは……!


 腰の矢筒から一本だけ矢を取り出して、落下地点でうごめく式神に、それを全力で投げた……!


「なんか……よくわかんないけど、どうとでもなれー!」


 矢は、式神のギョロッとした目ん玉を直撃!

 ……いやいやいや、そんな描写いらないって! それじゃあ豚の眼球解剖のトラウマが……うわあ、思い出しちゃった……!


 グロすぎて保健室行ったんだよ……。

 ……ガラス体の感触があああああ……!!


 と同時に地面に身体が打ちつけられ、言葉にならない激痛が、全身に走り回った。


「って! ……はぁ、命が助かっただけマシだよね……」


 痛みと恐怖が一気に込み上げてきて、僕はその場に倒れこみそうになった。


 目の前に広がる式神たちが、まるでその瞬間を狙っているかのように近づいてくる。

 震える足、冷や汗、そして胃の中がひどく気持ち悪くなる。顔色が悪くなるのがわかる。体が重い、動かない。


 あの時の眼球解剖の記憶がよみがえってくる。


 冷たく、硬く、そして……あの感触。まるでガラスを触るみたいな、言葉にできない感覚が手のひらに広がる。どうが早くなる。


「あ、あれ……って、あれは違う! 僕、今、戦ってるんだ! こんなことに気を取られてる場合じゃない!」


 無理にでも立ち上がろうとするけれど、足が言うことを聞かない。痛みで一瞬動けなくなる。でも、目の前の式神は容赦ようしゃなく迫ってきている。


 その時だ、冷や汗をかきながらも、ふっと頭に浮かんだのは、霊弥くんの顔だった。


「霊弥くん……!」


 僕の内心が震える。そうだ、霊弥くんを見つけなきゃ。自分のトラウマに飲み込まれたままでいてはいけない。


「待っててね……霊弥くん……」


 息も絶え絶えで、打ちつけられた衝撃で身体中が痛い。

 そんな状態で、つぶや──いや、叫ぶ。


さんなんて、しないから……!!」


 その瞬間、式神たちの様子が変わった。

 え……なんで、襲ってこないの……?

 突っ立っている式神たちの目から、獰猛どうもうな気配が消えていく。


 戦う気力が……なくなっている?

 それでも、わずかな本能は感じるのだけれども……。


 ……でも、今!

 今しかない。今しか勝たん……!


疾貫しっかん──悠遠ゆうえんり!」


 手前にいた式神の胸許むなもとに目がけて矢を射る。

 と、貫通した矢は空中で反射しながら、ほかの式神に、そしてまた……、いつしか、一番奥の式神をも貫いていた。


 ……全員、斃した。

 最初にこの技を使わなくてよかった。


 式神の様子が変わったのがかなめだったなぁと思いながら、腕を見る。

 ああ、包帯が取れてる……。って。


「土があああああああああ!」


 傷口に、土が入ってしまっていた……。

 幸いにも、あの子からもらったものに、軟膏なんこうはあった。が、軟膏と紗布ガーゼ、包帯しか入っていない。傷口を洗うものはない。


「水辺……? あるかなぁ……」


 消えゆく式神の亡骸なきがらを踏まないように気をつけながら、薄暗くて肌寒い森を進んでいく。

 はぁ……ケガがものすごい……。


「どこかな……川か池でもあればいいけど……」


 あっても、水質が気になるけど。にごった水なんて、傷口を余計に汚しちゃうから。

 はぁ、そんな都合のいい話なんて……。


「あったー」


 何のネタだろう……角を曲がった先の斜面から、清い水が湧き出ている。

 ……湧水わきみずだ!


「はぁ、よかったー」


 ……皆さん、お気づきになっただろうか。

 傷口に水を当てることは痛い。そして、なぜこのときの僕は、それを忘れていたのだろうか……。


「いった!? 何これ痛っ!! いったっ……水だからそっか!?」


 傷口に水が滲みて、思わず身を引く。

 湧水は変わらず、涼しげな音を立てて出ていた。


 ……耐えるしか、ない……。


「はぁ……いっっでぇ……」


 体育の授業で転んでつくったすり傷を洗うときの、何倍も痛い……。

 ひえ……水、めっちゃ冷たいし……。


 でも、少し汚れていた傷は、きれいになった。

 羽織の内側に入れていた手拭いを取り出して拭い、桐箱きりばこの中から軟膏を取り出す。


「触るのは痛ぇけど、軟膏は滲みんないなぁ」


 言ってから、あ、と気づく。


 ──この世には、滲みる軟膏と、滲みない軟膏が存在するのだな、と。

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