極道の休日
神楽耶 夏輝
第1話 他に好きな娘ができたんだ
「俺、他に好きな娘できたんだ」
人がまばらなカフェには、穏やかなボサノヴァが流れている。
目の前で熱いコーヒーをすすりながら
重たい荷物を肩から降ろすように。
或いは、コインロッカーに預けるかのように。
亮は同じ大学に通う同級生。
同じベッドで朝を迎えて、一緒に小倉トーストを食べたのは今朝の事だ。
「うん。そっか。そうだよね。そう、だと思ってたよ」
頭が真っ白な時ほど、真逆の言葉を発して、真逆の表情を作ってしまう。
「だから、別れて欲しいんだ」
いつだっただろうか。ほんの2,3日前だ。
「これ捨てといて」と、亮は私に大量の楽譜を差し出した。
「もういらなくなったから」と。
その時と同じテンションで、別れて欲しいんだ、と言った。
「うん! わかった」
子供の頃から物分かりだけはいい子だった。
こうする事が正解だと、本能が訴える。
涙なんて見せちゃいけない。
重い女だなんて、思われたくないから。
穏やかに笑って、さよならをしよう。
「荷物は必要な物はもう移動させたから、後は適当に捨てるなり、ネットオークションで売るなり、
カップから上がる湯気の向こうで、ゆっくりと長いまつ毛が上下する。
きりりと一文字に整った眉。
切れ長でクールな目元。
彫刻のような凛々しい鼻。
こんな時でも私は、その整った顔に見とれてしまうのだ。
「あ! あと、これ」
亮はさっとポケットからチケットを取り出した。
「え? これ……」
「今週の日曜日、甘谷でハロウィンイベントあって、そこで俺たちのバンドが出るんだよ」
「え? うん! もちろん知ってる。楽しみにしてたんだよ~。亮、すっごく頑張って練習してたもんね。行っていいの?」
亮はインディーズとはいえ、MyTubeでフォロワー10万人を抱える人気アーティスト『ゴースト』のヴォーカルだ。
「ああ。来てくれると嬉しい」
「行く! もちろん、行く!」
亮は、チケットをこちらに滑らせた後、手を差し出した。
掌を天井に向けて、何かを要求するかのように。
「へ?」
「5000円」
「ん?」
「チケット代」
くれるんじゃないんか~い!
「あは、はは、そうだよねー、あ、ちょっと待って」
「ノルマがエグくてさ。50枚だよ、50枚」
「うん、うんうん、そうだよねー。友達にも声かけとくー」
震えて不器用になっている手で、バッグをまさぐり、財布を手繰り寄せた。
5千円札1枚と1000円札が3枚しか入っていない財布。
その中から5千円札を取り出し、差し出した。
「毎度あり」
さっと、抜き取り、亮は最後の一口を飲みほすと立ち上がった。
再び手を差し出して
「550円」
コーヒー代だ。
割り勘ね。
「あ、はい」
まだ手に持っている財布から、言われた通り550円を取り出し、差し出す。
慌ててカップに半分ほど残って、ぬるくなったコーヒーを飲みほして立ち上がった。
割り勘でも、奢った感を出すためか、亮はいつもテーブルで会計の半分を回収して財布に仕舞い、レジに向かう。
これまでさほど気にしていなかったが、今回ばかりは端正な美術品に綻びを見たような、嫌な気持ちが押し寄せた。
亮との出会いは1年前に遡る。
さしてドラマティックでもない、大学の合コンだ。
二十歳の記念パーティと銘打った、単なる合コンだ。
二十歳。
それはノンアルコールからの卒業。
未成年から成年へ。
内面的な境界線は曖昧なのに、表面的なそれは的確で、18歳からの2年間は今か今かとお預けを食らった犬のようで。
『よし!』
と号令をかけられて、貪るように、浴びるように酒を飲んだ。
初めて口にしたアルコールの苦みは、ほわほわと揺れる、甘やかな酩酊のひとときにかき消されていった。
そして、見事にぶち上ったテンションは、私の本性をさらけ出す。
初めて知る自分の内面。
控えめで大人しい。男には一歩下がってついて行くというイメージとは真逆に、対面に座っていた美形男子を無理やり持ち帰ったのだ。
それが、音成亮。
今、あたかも奢った感を醸し出しながら、カフェの会計を済ませている長身イケメン。
成り行き。勢い。
とはいえ、私は何にも代えがたいほど亮が好きだった。
いくら酩酊していたって、好みじゃない男を持ち帰るなんて事は絶対にしない。
あの時の亮は、アパートの家賃にも四苦八苦していた貧乏学生。
インディーズで出したCDも泣かず飛ばず。
動画やSNSのインプレッションほど、売り上げは伸びなかったのだ。
『よかったらここに住みなよ~。家賃や生活費、考えなくていいし。私はバイトもしてるし、親からの仕送りもあるしさ』
そんな甘い言葉で、彼を引き留め続けた。
だって好きだったんだもん。
彼の隣は気持ちよかった。
心地よかったのではなく、気持ちがよかったのだ。
街で、キャンパスで、彼が歩けば女の子がそわそわし始める。
隣にいる女の子には嫉妬と羨望の目が向けられる。
自分がその羨望の中心になる時が来るなんて、まるで、王子様を勝ち取ったシンデレラにでもなった気分で、そのポジションを手放すまいと必死だった。
しかし、シンデレラは、決して幸せだったとは限らないのだ。
王子様はわがままで、世間知らずで、女が自己主張でもしようものなら、すぐにイライラを爆発させ、力でねじ伏せました。
顔、頭、お腹、体中に、容赦なく拳を振り下ろす。
そして、あろうことか他の女性と遊びに行ったり、一夜を共にする事もあったのです。
そんな御伽噺にはあるまじき展開だろうと、彼がいつも私の元に帰って来てくれるならそれでよかった。
どんなに傷つけられても、何もかもを許して、受け止めて、笑っていられた。
「じゃあ、俺、あっちだから」
私の家とは反対方向を指さして、亮が背を向けた。
そっか。
もう同じ部屋には戻らないんだね。
こうして王子様は、新しい彼女の元へと去って行ったのです。
完。
いや、続く!
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