発展途上な私たち

 私は身支度を整え、冷蔵庫に作り置きの料理を詰めた。きっと自分では作らないから。


 なんとなく落ち着かない気持ちを抱えたまま、彼女の部屋の扉の前に立つ。


 扉を軽くノックすると、返ってきたのは力の抜けた「うーん」という声。


 部屋に入ると服や本が乱雑に置かれ、悪い意味で生活感が溢れている。


 ベッドに目をやると、真白は毛布もかけずに丸くなって眠っていた。春とはいえ、まだ少し冷える。そう思った私は、自分が着ているコートをそっとかけた。


 オシャレをしたのに意味がなかったな。今からでもコーディネートを変えようか。そんなことを考えながら、ふと足を止めて彼女の寝顔を見つめる。


「真白……」


 つぶやいた名前に、何の意味もない。けれど、その言葉が出るのは、何かを期待しているからかもしれない。返事がないことは分かっているのに、答えを求めてしまう自分が嫌。


 普段は凛とした彼女も、寝顔はこんなに無防備で愛らしいんだな……でも、この人を独り占めした人がいるんだよね。


 心を許している相手がいるのがズルい、私は孤独に過ごしているのに。はあ、嫌な嫉妬の仕方。恋人がいるのが羨ましいわけではない、ただ寂しい。私のことも見てほしい、それだけ。


「作り置きがあるから好きに食べてね。いってきます」


 そう告げて、立ち去ろうとしたその瞬間、真白が寝ぼけたような声で呟く。


「お姉ちゃん、どこにも行かないで……」


 耳を疑った。彼女の言葉に、一瞬だけ自分の心が大きく揺さぶられた。振り返ると、彼女はまだ夢の中にいるようで、無意識に私を引き止めていた。


 少しずれたコートを直しながら、その寝顔をそっと覗き込む。


「1人にしないで……」


 彼女の口から弱々しく聞こえる。私もずっと同じことを思っていた。彼女もきっと孤独を感じている。


 髪を軽く指でとかし、彼女の頭を撫でる。


「大丈夫だよ、真白。私はここにいるよ」


 小さな声でそう囁くと、彼女の表情が少し和らいだように見えた。『お姉ちゃん』と呼ばれる相手が誰かはわからない。でも、今この瞬間だけは、私がその存在になれたかも。


「いってきます」


 ◇◇◇


 講義が終わり図書館に向かい歩いていると、ふと真白のことが頭をよぎる。


 「ちゃんとご飯食べたかな……?」


 少しだけ心配になった。初対面の時はイケメン女子って感じだったのに。実際に暮らしてみると、その印象は見事に覆された。


 そういえば、寝言で「お姉ちゃん」って言ってたような。あまり妹の印象がないけど、あのだらしなさは甘やかされてきたと容易に想像できる。


 彼女のことを考えながら足を進めていると、急に背後から声をかけられた。


「あの、真白さんと一緒に住んでいるんですよね?連絡先教えてください?」


 振り返ると同年代の女の子がスマホを握りしめ、こちらを期待の目で見ている。派手な見た目ではないが、しっかりとした雰囲気のある子だった。


 彼女が何を求めているか察しがつく。真白は女性からの人気も高いしね。


 真白には恋人がいるっぽいし、彼女の個人的なことにあまり首を突っ込みたくない。でも、目の前の子を突き放すような言葉を言うのも気が引ける。


「今、スマホが手元になくて……ごめんね。明日は講義あるから、そこで聞いてみて」


 なるべく印象を悪くしないように、軽く断りながらも提案を添えてその場をしのぐ。相手は少しだけ不満そうだったが、無理に食い下がってくることもなく去っていった。


「真白って、やっぱり別次元の人なんだな……モテるのも大変そう」


 そう呟いて図書館に足を踏み入れる。この静寂が好きだ。本をめくる音、ペンが紙を走る音。それだけが響くこの空間は、喧騒とは切り離された別世界のようだ。


「あの小説あるかな?」


 昨日、真白から借りた小説が思いのほか面白く、続きが気になっていた。本棚を探すと、上段に見覚えのある背表紙が見つかった。


 「もう少し、もう少しで……」


 けれど、高い位置にあって手が届かない。


 必死に背伸びをするものの、指先が微かに触れるだけで思うようには取れない。仕方なく諦めかけたそのとき、不意に誰かの手が伸びる。


「これ?」


 誰かがひょいっと本を取ってくれた。私を包む影のほうを振り向くと、そこにいたのは真白だった。


「え、真白?今日は講義がないはずだよね」


「うん、あまり寝られなかったし暇だから来ちゃった」


 彼女は棚から取った本を軽く眺めながら、何でもないように答える。その態度はいつもと変わらないはずなのに、どこかぎこちなさを感じた。


「それと、ご飯美味しかったよ」


 思いもしない言葉に、驚きを隠せなかった。彼女はいつもの無表情な顔。でも、手は落ち着かず指をクルクルさせ、照れ隠ししているのが伝わる。


「それならよかった」


 ほんの少し安心する。普段の真白だ。でも、手渡された本を見て、私は思わず苦笑いを浮かべる。


「あ、あの取ってくれたのは嬉しいんだけど、私が探してたのは隣の本で」


 私の言葉に、真白の動きがピタリと止まる。一瞬きょとんとした表情を見せてから、彼女は小さく「あ」と声を漏らし、申し訳なさそうに目をそらした。


「ごめん……気づけなかった」


「いいよ、気にしないで。じゃあ、もう一回お願いしてもいい?」


「……うん」


 真白は軽くうなずくと、再び棚に手を伸ばし、今度は私が探していた本を取り出してくれた。


「はい、これで合ってる?」


「ありがとう」


 受け取るとき、ふと彼女の指先が触れる。そのひんやりとした感触に一瞬ドキッとしてしまい、慌てて本に視線を落とした。


「これ、昨日私が貸したやつの続きだよね。ハマったの?」


「うん、すごく面白かったよ。一気に読んじゃった」


「結月ならハマると思ったよ。あとで感想、聞かせて」


 ――なんだろう、この感じ。なんか友達っぽい会話。


 まだ、本という共通点でしか会話は展開されないけど、それでも少し進歩した気がする。私たちの関係は、ゆっくりだけど発展途上。


 目的の本を借り図書室をでようとする。すると、タイミングが悪く向こう側の人とぶつかってしまう。


「すみません」


 頭を下げた私に、どこか聞き覚えのある声が返ってくる。


「あれ?結月ちゃんじゃない」


 顔を上げると、そこには腰まで届く艶やかな長い髪が特徴の笹木舞ささきまい先輩がいた。彼女は私が所属する文芸サークルの先輩で、バイト先も一緒だ。おしとやかな見た目に反して、フランクで気さくな性格が魅力的な人だ。


「やっほー結月ちゃん」


 先輩はにこやかに笑うと、いきなり両手を広げて熱い抱擁をしてきた。


「ま、舞先輩っ!真白の前なんで――!」


 慌てる私をよそに、先輩は屈託なく笑っている。その明るさは相変わらずだけど、今はちょっと恥ずかしい。真白がこちらをじっと見ているのが視界の端に映る。


「舞先輩、この子、私のルームメイトの星宮真白ほしみやましろです」


 精一杯冷静を装いながら、紹介する。


「……よろしく、お願いします」


 真白は低いトーンで挨拶をする。その声はどこか冷たく感じられた。


「はい、よろしくね真白ちゃん」


 まい先輩はいつもの柔らかい笑顔を向ける。でも、真白の態度が妙に素っ気ない。こういう人と話すのが苦手なのかな?

 

「今度、バイトのときにお話しましょう! 真白、行こ!」


 私は真白の腕を軽く引っ張り、その場を離れる。


 図書館から少し離れた場所まで来ると、真白がふと私の手を振り払った。その仕草に、どこか気まずさを感じる。


「もう、舞先輩はお世話になってる人なんだから、あの態度はダメだよ?」


「……気をつける」


 短くそう返してくる真白。私にまでその冷たい態度が伝わってきたようで、少し胸が痛む。


 もしかして、真白は人見知りなのかもしれない。まだ、彼女のことをちゃんと分かっていない。彼女の素っ気ない態度には何か理由があるのかも。


 そう思うと私の言葉が、単に自分のためだけに叱ったように聞こえてしまい、申し訳なさを覚える。


「この後、時間ある?よかったら一緒にどこか寄っていかない?」


 少し明るい声で誘う。しかし、真白は私の目を見ず、かすかに眉を寄せる。


「ごめん、用事を思い出した」


 そう言いながら、真白は少し急ぎ足で去っていった。私はその後ろ姿を見送りながら、胸の奥に広がるなんとも言えない気持ちに呑み込まれる。


 空を見上げると、少し曇った空が広がっていた。


 午後から暇なのに――そんな思いが、雲のようにぼんやりと頭の中を巡る。


 彼女が私を知ろうとした瞬間は確かにあった。それを信じて、もう一度向き合いたい。


「今度は、ちゃんと話せるといいな……」


 空を見上げながら、そんなささやかな願いが浮かんだ。

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