【アップ】2024年6月2日主日公同礼拝/讃美歌とMynoteもあります

天川裕司

【アップ】2024年6月2日主日公同礼拝/讃美歌とMynoteもあります

【本日の礼拝メッセージ】

https://www.youtube.com/live/sfMO8arnquM?app=desktop&feature=share


【ブログ】

https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12855450200.html

(讃美歌や聖書の内容を閲覧できます)



前奏

招詞 コロサイの信徒への手紙 3章1〜4節

詩 編 歌 65編 1節

シオンよ、汝の神は賛美を待つ

開 会 祈祷

主 の 祈り(週報裏面)

十戒・祈祷(週報裏面)

子ども説教

子どもと親のカテキズム問 90

「神さまへの賛美から」

こどもさんびか

つくりぬしをさんびします[改 4(2,2 節)]

牧 会 祈祷

讃美歌 228番

聖書

使徒言行録19章1〜7節(新約P251)

イザヤ書44章1〜5節(旧約 P1132)

説教

「主イエスの御名によって

~洗礼の奥義と聖霊の働き」

宮武輝彦

祈祷

讃美歌 199番

使 徒 信条

聖餐式 配餐(パン・杯)

感謝のささげものと執り成しの祈祷

頌 栄 543番

祝 祷

報 告



讃美歌~♪


讃美歌228番(歌詞付)54年版「ガリラヤの風」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=KHYe9EUpWDQ


ガリラヤの風 かおるあたり

「あまつ御国は 近づけり」と のたまいてより

いく千歳(ちとせ)ぞ きたらせたまえ 主よ、御国を

たたかいの日に いこいの夜(よ)に

御国をしたう あつきいのり ささげられしは

いく千度(ちたび)ぞ きたらせたまえ 主よ、御国を

憎(にく)み、あらそい あとを絶(た)ちて

愛と平和は 四方(よも)にあふれ みむねの成るは

いずれの日ぞ きたらせたまえ 主よ、御国を


讃美歌199番(歌詞付)54年版「わが君イエスよ」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=H7HBYLT0CRU


1

わが君イェスよ つみの身は、

くらきたびじに まよいしを、

くまなく照らす みめぐみの

ひかりをうくる うれしさよ。

2

きみの血しおに すくわれし

われは今より ひとすじに

みあしのあとを したいつつ

みくにのみちを すすみゆかん。

3

つみのこの身は いま死にて、

きみのいさおに よみがえり、

かみのしもべの かずにいる

きよきしるしの バプテスマ。

4

うまれかわりし よろこびは、

なにになぞらえ たぐうべき。

わが身もたまも みなささげ、

み名をたたえて 日をすごさん。



2024年6月2日 礼拝説教 中心聖句


パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。

使徒言行録19章3節


わたしは乾いている地に水を注ぎ 乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ あなたの末にわたしの祝福を与える。

イザヤ書44章3節


はじめに

今日、恵みの時、救いの日、聖霊の恵みによって、洗礼の日を思い起こしたい。

「アポロがコリントにいたときのこと」とは、先に一度、エフェソの会堂で教えた、アレキサンドリア生まれのユダヤ人との経緯。パウロとアポロは、同時に居合わせなかった。しかし、パウロの派遣によって、主の宣教が継続される。後にパウロは、「わたしは植え、アポロは水を注いだ」(コリント一3章6節)とコリントの教会へ手紙を送ったように、共に、神の業に仕えた。また、プリスキラ(プリスカ)(妻)とアキラ(夫)のように、アポロに、キリストを伝え、アポロについて推薦状を送った兄弟たち、同労者として尽力した者たちもいた。「パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て」とは、アンティオキアから三度目の伝道旅行において、先に、福音を伝えた「ガリラヤやフリギアの地方を次々に巡回し、すべての弟子たちを力づけた」(18章23節)。このように、キリストの福音は、困難の中で、主の召命と教会の励ましによって、前進していく(フィリピ1章12節参照)。

「何人かの弟子に会い」とは、そこで、出会(くわ)した「ある弟子たち」。彼らに、「あなたがたは信じたとき、聖霊を受けましたか」と、パウロは尋ねた。パウロは、信仰を認めながら、聖霊の賜物を受けたか、と聞く。それは、自分の霊が新しく生まれ変わったことを証明を見たか、ということ。すると、彼らは、「いいえ、(かつて聞いた)聖霊が今ここにいると聞いたことさえありません」と答えた。事実上、彼らは、救いの確信に乏しかった。そこで、パウロは、もう一つの証しといえる洗礼についてたずねる。「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と。すると、彼らは、「ヨハネの洗礼です」と答えた。そこで、パウロは、「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けた」と言い、「ヨハネの洗礼」が証しした御方を明らかにする。じっさい、洗礼者ヨハネは、「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(マタイ3章11節)と伝えた。キリストの洗礼の本質は、「水」ではなく、「聖霊と火」。聖霊の賜物は、神の裁きのもとで、十字架にかけられたイエス・キリストを信じる信仰と、「怠らずに励み、霊に燃え、主に仕える」(ローマ12章11節)熱心を与え、あらゆる事柄において、主の召命に応え、御心を求め、神の栄光をたたえるように仕向ける。

「人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた」。ヨハネの洗礼とは別(再洗礼とは言えない)。「主イエスの名によって」とは、天の王座に着かれた、生けるキリストの御名において。聖霊は、このキリストとの結合を証しする。「パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言(多分、他の国の言葉)を話したり、預言をしたりした。この人たちは、皆で十二人ほどであった」。だれもが聖霊の賜物を認める出来事が起こった。このようにして「ヨハネの洗礼」を受けた信者たちは、聖霊の賜物と、「主イエスの名による」洗礼を受け、イエスを主と証しする者(真のキリスト教徒)となった。

おわりに

真の預言者イザヤは、主の霊による祝福とその豊かさを告げた。それは、大地を潤す水のように、罪人を癒やし、キリストの救いにあずからせる。神の栄光をたたえよう。



(Mynote)

二〇二四年六月二日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守る事が出来、神様に感謝する。

(子供メッセージ)

『子供と親のカテキズム 問九〇』

「『御名を崇めさせ給え』では、何を祈り求めるのですか。」

「私達の生活の全てを通して神様の栄光を表され、全ての人が神様のお名前を崇め、褒め称える様になる事を祈り求めます。」

全ての良い事は、神様から来る。悪い事は悪魔から来て、人の罪と欲望から来る。これを先ず覚えねば成らない。その上で神様は初めから、常に、全ての人の為に良い事を用意して下さった。その神様の御名を崇め、褒め称える事は当然である。それを忘れさせるのは、神様に盲目とさせる人の罪であり、欲望であり、悪魔である。

(公同礼拝)

『使徒行伝』(第一九章一〜七節)

『イザヤ書』(第四四章〜五節)

この『使徒行伝』の箇所では、洗礼(バプテスマ)について、そして聖霊について語られる。

パウロはエペソにて、そこに住んで居た弟子達(クリスチャン達)に、

「あなた方は、信仰に入った時に、聖霊を受けたのか?」

と聞いた。すると彼等は、

「いいえ、聖霊なるものが在る事さえ、聞いた事がありません」

と答えた。そしてパウロは、

「では、誰の名によるバプテスマを受けたのか?」

と聞くと、彼等は、

「ヨハネの名によるバプテスマを受けました」

と答えた。

ここで大事な事は「神様に依る正しい聖霊を受けて居るか?」と言う事と「イエス様の名に依りバプテスマを受けて居るか?」と言う事である。

詰り、この他にバプテスマは無く、譬えヨハネによるバプテスマを受けたとしても、そのヨハネが全ての人に教えた事、

「ヨハネは悔い改めのバプテスマを授けたが、それによって、自分のあとに来る方(かた)、即ち、イエスを信じる様に、人々に勧めたのである」

とのパウロの箴言を前提にせねば、正しいバプテスマの在り方、即ち、正しい信仰の持ち方・歩み方には成らない。

これは「邪教を避ける為」でもあり、人が自分達の都合によりバプテスマの奥義を作り、「バプテスマは(洗礼も聖霊も)こう在るべきだ」とする悪の業から離れる為である。人は初めから最後まで過ちを犯す者。

その聖霊と、バプテスマの意味・内容がどこから来て居るか?これを確実に把握する事が大事に在る。「そんなこと初めから分かって居る」と言っても、分かって居らず、本当に知らず内に間違いを犯す者が人間である。

そして更に興味深い点はパウロが彼等に、

「信仰に入った時に、聖霊を受けたのか?」

と先ず聞いた事。現代の教会でもよく「洗礼はもう受けて居られますか?」など「洗礼」という言葉はよく聞かれ飛び交うが、この「聖霊」という言葉が(「洗礼」と)同じ様に飛び交う事は余り無い。

神様が人を成長させて下さる。どんな雄弁家でも実力者でも権力者が来て、洗礼について語っても、その言葉全てがイエス・キリストに結び付いて居なければ、何にも成らない。逆に口下手で、物を言えない者が神様の事を伝え、洗礼の事を話したとして、その言葉がイエス・キリストに結び付いて居れば、その内容は全て救いに繋がる。そうして下さるのは人でなく、神様である。詰り洗礼や聖霊について語る時、人のパーソナリティは全く関係が無い。神様が、その物事を運ぶのである。

『イザヤ書』では、人が神様の前に(神様のもとに)何足るか?について記される。神様と人間との関係。初めに創られたアダムとエバから、その子孫全ての命が神様に愛されて創られ、神様の御姿に似せられて創られ、信仰に歩まされる上、全ての人は神様に永遠の命の平安と繁栄が約束される。

「わたしは主(しゅ)のものである」

と言える者が現代人にどれだけ居るか?一時(いっとき)の衝動でそう言うのではなく、永遠を土台にその様に言い、その事を知る程に信じる事が出来、心の底から神様の事、神様が自分を愛して下さって居る事を喜ぶ、これをどれ程の人が出来るだろうか?詰りこう言う事である。

神様の語り掛けを聴く事。これは全ての人にとって大事に在る。イエス・キリストの名に依ってバプテスマ(洗礼)を受ける、この二つは切り離せない。現代には、イエス・キリストの真実と聖霊とを人の思いにより切り離し、「聖霊」だけをピックアップして超自然的な物事に捉え、そこに人間である自分だけの理想や考えを以て救い・癒しを見出した心算になり作り上げ、それで良しとする傾向が大いに強まって居る。

人の救いについて、聖霊について、正しい捉え方・真実を以て思い知らねば成らない。「イエス・キリストと自分がしっかり結び付いて居るのだ」と言う事を、何度も確認するのが聖餐式であり、バプテスマ(聖霊・洗礼)について考えるその時の大事に在る。信仰に生かされなければ、この事には中々気付かない。ここには、人と信仰の在り方に於ける大事も含まれてあり、人の救いを考える際の根本が在る。


【日本キリスト改革派 男山教会】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【最寄りの教会検索用】

https://www.rcj.gr.jp/



Table Café~


榎本保郎牧師 ミニ説教19 「イエス・キリストを身近に」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=MCyjy8BuIIw&t=19s


「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=c1J4I7giVuM


ハーベスト・タイム・ミニストリーズ

https://www.youtube.com/@HarvestTimeMin?app=desktop


ノート

https://note.com/unique_panda3782/


不思議のパルプンテ

https://www.youtube.com/@%E4%B8%8D%E6%80%9D%E8%AD%B0%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%97%E3%83%B3%E3%83%86/videos

(お暇な時にぜひどうぞ)





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