今日の部位はなんでしょう
草森ゆき
はじめては右手
1 爪は剥がした方がいいですよ
酒を飲んでいたところまでは覚えている。友人に誘われて飲み会に出向き、そこで会った奴原という男がなんと俺の愛する夢山平雪をよく読むと言い、超わかるよペリカンが俺とした話読んだ?と話題が盛り上がり、最終的に膝を突き合わせてひそひそ声でエレファントベッドのネタバレ感想について語り合った。最高の時間だったと胸を張って言えるし今度は王城舞太郎の早朝五百太郎の話をしようぜと約束したことも覚えているが肩を組みながら居酒屋を出て秋だけど思ってたより寒いなと言って奴原と二人で街に繰り出したところで記憶が飛んで、五百匹の象に追いかけ回されながらペリカンの話を聞く悪夢で飛び起きた今現在まったく見覚えのない部屋にいて混乱を通り越し真っ白になっている。完全なるホワイトアウトだ。でもこの理由はわかっている。なんせ真っ白になった俺の隣では肩まで伸びた長髪を無造作に垂らしながら寝息を立てる奴原がいたからだ。
控えめにというか正直に申し上げて全裸だった。俺もだし奴原もだ。しかも周りの景色が完全にラブホだ。真っ白になっているだけでは何も解決しない頑張れ久坂部負けるな久坂部、俺は自分を鼓舞しながらそっと奴原に近付いて物音を立てないように気を付けて覗き込んだ。目が合った。覚醒! と見出しをつけたくなるほどはっきりと両目を開いている奴原は非常に無表情だった。俺は爆速で土下座した。
「すみませんでした奴原さん!!!」
室内に俺の声が響き渡った。シーツに額を擦り付ける俺は奴原の動きが音でしかわからなくてでも一応体を起こしてこっちを向いたとは把握した。俺は待った。奴原の発声をとにかく待った。頼む何もなかったと言ってくれ。何かあったとするならばどっちが凹で凸かは言わないでくれ。シュレディンガー。シュレディンガーのゲイセックスとしてまだ語れる方の酒の失敗談ボックスに入れられるラインの話を聞かせてくれ、奴原!
「あのー、久坂部さん?」
「は、はい、久坂部です、この度はたいへん、たいへん申し訳がなく」
「いやまあ、いつものことなんで」
えっ?いつものこと? 条件反射で顔を上げた。奴原はぼさぼさになった黒髪を左手で掻き回してから、胡座をかいた股の間に挟んでいた右手を投げて寄越した。そう放り投げた。俺の頭に手の甲を当ててから右手は俺がついたままの両手の間にどさりと落ちた。
「いつも取れるんですよ」
「えっ?」
「ああでもすぐ生えるんで……」
「生える?」
「はい、明後日には多分生えてます」
「あっ、はい、……えっ?」
「その右手」
「は、はい、右手……ですね」
「あげます。料理好き?」
まあ、好きです。良かった、使っていいですよ。料理に? 料理に。煮込み……とか?
奴原は声を上げて笑った。手を打ち鳴らして笑いたかったらしく左手だけで右の二の腕辺りをパンパン叩いた。俺はパンパンを聞きながらまた視線を落としてちょっと指先がピクピクしている右手をぼうっと見下ろして、丸焼きかもしれねえと脳裏に右腕の料理風景を思い描いた。それは牧歌的だった。久坂部さん、良かったら僕にも食わせてくださいよ。パンパンを止めてにこにこしながら言ってきた奴原はやっぱりまだ右手が不在だったが俺は奴原の右手がなぜ取れたのか聞いていいのかまるでわからず、あーじゃあ俺の家行こっか、なんて逆に冷静になって話し掛けていた。右手の指先はまだピクピクしていた。奴原は頷いて、そういえば昨夜はありがとうございましたと思い切りファックしましたというハンドサインで言ってきたからこの朝の話は絶対に語れない酒の失敗談ボックスへと放り込まれたのであった。
奴原が凹だった。一人暮らしである俺の1Kアパートに入りちょっと早い昼飯、何なら朝昼兼用の食事のために俺がキッチンに立って奴原はベッドに座らせて特筆するところのない雑談を交わしている最中に奴原が言った。急にぶっ込むから返事に困って「お、おお、尻大丈夫?」とデリカシー氷点下な返しをしたら大きな声で笑われた。
「大丈夫ですよ、ちょっとぐらい」
「お、おお、そうか」
「久坂部さんこそご子息は大丈夫ですか?」
「お、おお、……えっ?」
なんだなんだ記憶なしなんだよ俺はと焦っていれば「女性とは違いますからね、痛かったかもしれないと思いまして」と丁寧に補足してくれた。奴原はけっこういい奴だ。いい奴原。下の名前そういや聞いてないような気がするけど俺も教えてないような気がするな。
諸々考えながらまな板の上に右手を置いた。ピクピクはもうなくて指先はちょっと曲がった形のままドンと構えてくれている。輪切り、と思うけど包丁が逝きそうだ。えーどうしようこれこのまま煮ても食えるのか?
「爪は剥がした方がいいですよ」
いつの間にか背後に来ていた奴原にアドバイスを受ける。まあ確かにそうだ、食っている途中に爪が絡むと小骨にカッ! となるあの感じになるだろう。手首を掴んで固定しながら包丁の角を爪の際に当てる。力を込めれば案外とすぐにぽろりと落ちて、うまいじゃないですかと奴原が感心しながら俺の肩を左手で軽く叩いた。振り向いて確認する。右手はまだ生えていない。
「その手、いつ再生するんだ?」
聞いてみると日によってまばらだと返事がある。
「左手でも箸を持てますのでお構いなく」
「いやあ構うよなあ普通」
「調理はしにくいからお任せしてしまってますが」
「いやいや、うん、ていうかそのー、なんで取れるんだ?」
一秒二秒三秒待ったが返事がない。振り向くと泰然と、この世の苦痛は幻ですとでもいいそうな雰囲気で微笑まれていてなんだよその顔ってちょっと怖くなる。結局奴原は取れる謎は残したまま後は頼みましたとベッドへ戻っていって、まあ体の一部が取れる奇病なんて説明しにくいわな遺伝的な説明しにくい症状なのかもしれねえしと勝手に補填して調理の方に集中する。
一度軽く茹でて浮いた皮を剥いていく。右手全体に切り込みを入れて煮汁を染み込みやすくしていく。でかめの鍋で表面を炙りながら豚の角煮を作るときの煮汁を作って右手に振りかけていきつつ本格的な煮込みを始める。はじめは中火、煮立ったら弱火、灰汁を掬い取って落とし蓋にして一旦放置!
「奴原さん、米は食う? 実家から送ってもらったニホンバレがあるんだが」
「あ、いただきます」
「せっかくだから炊き立てでいこう、冷蔵庫にキャベツとにんじん余ってたからこれで野菜炒めも作ればまあそこそこ食卓だろ」
「久坂部さんは自炊男性なんですね」
「奴原さんはあんま料理しねえの?」
「しますよ。今日は無理ですが」
と言いながら袖が超余っている右手を振られる。はいすみませんでしたと言うしかなくて俺はきっちり頭を下げてから野菜炒めを作り始める。右手の角煮(?)の味が濃いから塩胡椒だけにしよう。そういや味噌あるから乾燥わかめオンリーのわかめ味噌汁もつけとこう。冷凍庫に安売りしてたダーゲンハッツもあったはずだ食後に出そう。今日は奴原をもてなすしかない。なぜ取れたかは不明だけど俺とナイトファイトしている間に取れたことは間違い無いから下手に出て遺恨を残さないようにする。
そして右手の角煮(?)が出来上がる。
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