肥溜めと向日葵

バーニー

肥溜めと向日葵

 初めて母を殴った。一度口を殴って手応えが無かったから、改めて殴るという鬼畜ぶり。母が鼻血を出して倒れた後、私は実家から逃げ出し、電車に飛び乗った。

 しまった。慌てていたために、下りに乗ってしまった。まあ鈍行だから、次の駅で乗り換えればいい。今度は、地元なんて通り過ぎて、真っすぐにアパートに戻るのだ。

 ドキドキとしながらシートに腰を掛けていると、スカートのポケットに入れていた携帯が震えた。取り出し、耳に当てる。

 『ねえ、今どこにいるの』と、姉の声が聴こえた。どうやら逃げ出した私を心配して電話を掛けたようだ。

『両方悪い。今回の件、おばあちゃんの絵を全部売り払った母さんも責められるべきだけど、母さん殴ったあんたも悪い』

 姉は昔からそうだ。私の気持ちをわかっていると言っておきながら。私が悪いと言う。いやまあ、事実なのだけど、達観しているというか、手心は欲しかった。

『でも、キャンバスは持ち帰ったんでしょう』

 姉の言葉に、私は頷くと、脇に視線をやった。そこには、埃もぐれで色褪せたキャンバスがあった。サイズはPの三号。キャンバスの中では小さい方だけれど、それでも風を受ける。こいつを抱えて逃げている時はまるで、夢の中を走っているようだった。

 こいつだけには値はつかなかった。だって何も描かれていないから。

「そうだね、これだけでも、取り返せたなら」

 そう呟いた時だった。電話の向こうで、母さんの金切り声が聴こえた。

『親を殴りやがって。絶対許さないからね。あんたには遺産渡さないからね』

 殴った時は焦ったが、あれだけ叫べるなら大丈夫だろう。私は通話を切った。

 電車の中はクーラーが効いて涼しかった。乾いたブラウスから酸っぱい匂いが漂って、鼻の奥がつんとする。早く帰ってシャワーを浴びようと、胸元を摘まみ空気を送り込む。火照った身体が冷えて、睡魔がやってきた。

 私は、とろん…と瞼を閉じる。

 次の瞬間、ガアアンッと、車内に大砲のような音が響き渡った。睡魔は吹き飛ばされ、痺れるような感覚と共に顔を上げる。見ると、窓の外が黒くなり、辺りは薄暗くなっていた。耳がキーンとする。トンネルに入ったらしい。

 私は唾を飲み込んだ。電車は暗闇の中を走り続け、先に見えた光の中へと飛び込んでいく。トンネルを抜けた先は、田舎だった。

 ひたすらに広がる田園。その奥にそびえる小高い山々。子どもが塗ったみたいな青空が広がり、その中央で白い太陽が寝ぼけている。

 窓から陽光が差し込み、私の目を貫いた。思わず顔を顰めた瞬間、電車が警笛を鳴らす。かと思えばスピードを落とし始めた。なんだと思っているうちに、どんどんと遅くなって、遂には自転車でも追いつけるほどの速度になった。そうして、ある無人駅に停車する。

「途中、落石があったみたいで、安全確認のためにしばらくお待ちいただけますか」

 運転手さんが出て来て、私に言った。どのくらいですか? と聞くと、「一時間は」と返ってきた。喉が渇いていたので、ならばジュースでも買おうと思い、私は席を立つ。

「すぐに戻ってきます」

 運転手さんにそう言ってから、電車から出た。無人駅とはいえ、駅舎には自販機くらい置いているだろうと高を括っていたのだが、そんなものはなかった。ならば、近くに商店くらいは。そう思って携帯を取り出したが、圏外だった。一度再起動してもダメだ。

 まあ、地図なんて無くとも、すぐに見つけられるだろう。

 半ば言い聞かせるように思い、駅舎を出る。その時、入り口の傍に何かが置いてあることに気が付いた。それは、割り箸を突き刺して作った、胡瓜の精霊馬だった。そこで私は、今がお盆であることを思い出す。

 それと同時に、また母への怒りが再燃した。あの女は、お盆だというのに、祖母の遺品を処分したというのか。冒涜も良い所だと。

 私は怒りに満ち溢れた足を踏み出した。その時、一瞬頭がくらっとし、視界が明滅した。この暑さだから仕方がない。

 遠くに木造の建物がいくつも並んでいた。それを繋ぐ畦道は鬱蒼としている。近づけば蚊がわんさかと飛び出してきて、スカートから覗く私の足に噛みついた。

 私は畦道から離れると、その隣にあった向日葵畑に入る。香ばしい土を踏みしめて、陽光の化身とも言えよう花々の陰に身体をねじ込んで進んでいく。ざらざらとした葉が頬に当たりくすぐったかった。

 そうして私は、他所様の畑を横切り、何とか、あの家々に近づくことに成功した。頬についた花粉を払い、「よいしょ」なんてお道化たように言って、畦道へと戻ろうとする。

 その時だった。

 背の高い雑草を超えた瞬間、足が空を切った。ふわっと、浮遊感が股間を駆け抜ける。瞬間、私の身体は重力に引っ張られ、足元に空いていた大穴へと引きずり込まれた。視界が暗転したかと思えば、何か柔らかいものの上に腰から叩きつけられる。

 一メートルくらいの落下。痛くはない。けれど、息を吸いこんだ瞬間、強烈な臭いが鼻を刺した。便臭であることに気づくのに時間は掛からなかった。私は穴の中で悲鳴を上げた。纏わりついてくる雀蜂を払うように、顔を擦ったり、頭を振り乱したり。けれど意味はなく、心音は激しくなっていく。

 臭気で意識が飛ぶ、その時だった。

「ロープ、掴みな」

 頭上から、ハスキーな女性の声が聴こえた。その声に我に返る。顔を上げると、四角に切り取られた空が見えた。瞬間、毛羽だった手綱が降って来て、私の前に垂れた。私は餌に食いつく鯉のように、そのロープを掴む。強い力で引っ張られた。私は足元に溜まった糞を踏みつけると、勢いに体重を乗せ、硬い壁を駆け上がった。

 光の中に飛び出した瞬間、まるで深海から上がったかのように息を吸い込む。私の肺に流れ込んできたのは、夏の爽やかな空気…ではなく、大便の臭気だった。途端に噎せて、胃酸を噴き出した。

 そして耐えられず、気を失った。

 どのくらい眠っていただろうか。

 目が覚めた時、真っ先に鼻を掠めたのは、リノレン酸の臭いだった。ツンとしつつも、あの地獄のような便臭を忘れさせてくれる懐かしい香りだ。瞼を押し上げると、トタンの天井が見える。身体を起こすと、胸に掛かっていた毛布が落ちた。私は素っ裸だった。

 木の板で作ったベンチに、横たわっていたのだ。

「目え、覚めたか」

 隣から声が聴こえた。毛布を手繰り寄せつつ身体を捻って見ると、そこには女性が椅子に腰を掛けていた。綺麗な人だ。美人さんってやつ。目が猫のようにぱっちりとしていて、肌は白くてきめ細やか。鼻筋は自然で、細い身体つきをしている。決して骨と皮じゃなくて、人形のような、写真でも撮って飾りたくなるような儚げな細をしていた

 年齢は、二十歳くらい。私と同世代か。紫陽花柄の浴衣を着崩していた。

「この時期は草が生え散らかして、肥溜めの穴が分からなくなる。落ちる奴は何度も見てきたけど、臭気で気を失うやつは初めてだ」

 どうやら、介抱してくれたのはこの人のようだ。女性でよかった…と思う一方、情けないことをしたと後悔する。

 私は辺りを見渡した。こういうのを小屋って言うのだろうか。天井や壁は波打つトタンで出来ていて、足元はコンクリートで固められている。壁際に、彼女が描いたものと思われる絵画や、彫刻が無造作に置いてある。絵の具や三脚と言った画材もその傍にあった。

「ここはアトリエ。借家は隣にある」

 私の祖母と同じ画家さんか。警戒心を解いた私は、女性に感謝を述べようとした。だが、喉の奥まで出かかった言葉は、彼女が持っているあるものを見てごくりと飲み込む。

「あの、それ、私のキャンバス」

 女性は、祖母の家から持ち帰ったキャンバスを抱えていた。しかも、ただ抱えているだけじゃない。鋭利に削った鉛筆を握り、黙々と手を動かしている。

「あの、返してください。何しているんですか。それ、私のキャンバスです」

「ああ、そうなの。すまないね」

 女性はなぞる様に言うだけで、手を動かすことを止めない。

「肥溜めの傍に落ちていた。黴生えているから、誰かが捨てたんだろうって思ってね」

 それでも手は止めない。私の鼓膜を、彼女の枯れた声と鉛筆が紙を擦る音が揺らす。

「でもまあ、何も描かれていないわけだし、良いじゃないか。倉庫に使っていないやつがあるから、それを持って帰れ」

「そういう問題じゃないんですよ」

 私は声を荒げていた。

「それは私の祖母のものです」

「そうか、じゃあ、謝っておいてくれ」

「死んでいます。最後の一枚だったんです」

 そう言って初めて、女性は手を止めた。キャンバスから顔を上げて、眠たげな眼をこちらに向ける。それから首を傾けた。

「でも、何も描かれていないけど」

 女性の言葉が、私の胸に突き刺さる。

 女性は鉛筆をくるりと回した後、また描き始める。さらさらと、軽快な音がした。

「ただのキャンバスだ」

 気が付くと、腹の底で燃えていた怒りが、窓際の風船のように萎んでいた。ごもっともだと思ってしまった。そうだ。売りに出されて、数十万の金になったのは、皆絵が描かれていたキャンバスで、何も描かれていないこれは、ゴミ処理場へと行くことになっていた。

「そもそもかなり古い。普通はこいつを使って描こうとは思わない。後は捨てられるだけ」

 女性が何か言った気がしたが、くぐもって聴こえた。かと思えば、目に映る光景がぼやける。白く褪せた。熱い液体が頬を伝い私の太腿に落ちていく。吃逆が洩れて初めて、自分が泣いているのだと気が付いた。

「大丈夫か」

「大丈夫です」と無理して頷き、顔を上げる。そこで初めて、能面のようだった女性の顔に、焦燥が宿っていることに気が付いた。

「そんなに嫌だったか。悪かった」

「そういうわけじゃないです」

 私は首を横に振った。何か弁明の言葉をと思い息を吸い込んだが、空気はそこで行き止まり。頭の上で、「無意味」という言葉が尻尾を追う猫のように回っていた。

 女性はため息をつく。

「でも、私は、キャンバスは絵を描いてなんぼだと思う。謝りはするけど、でも、やっぱり、そこは譲れないというか」

 なるほど、女性はかなり偏屈な性格らしい。自分の非を認めながらも、そのふんぞり返った態度は、逆に私を吹っ切れさせた。

「もういいです。たかがキャンバスだから。大事に持っておく意味はありませんね」

 その言葉に、女性は胸を撫でおろすような顔をした。

「それ、差し上げます。あなたの絵に使ってください。弁償も構いません」

「うん、そうさせてもらうよ」

 遠慮も後悔の欠片も見せず、女性は笑みを含んだ顔で頷く。そしてまた、止めていた手を動かした。

 ふと見ると、掠れた窓越しに庭が見えた。そこで、私の着ていたブラウスとスカートが干してあって、風に揺れている。

「足元に浴衣置いてるから、それ着な」

 女性に言われて、椅子の下を見ると、そこには薄手の浴衣があった。薄紅を基調として、裾に花のような文様が浮かんでいる。すべすべとした生地で、纏うとひんやりとしたものが肌に貼りついた。

 服を着て落ち着くと、椅子に腰を掛ける。

「どこから来たんだ」

 そう尋ねられて、私はアパートを借りている町を答えた。

「都会の子か。どうりで」

「言うほど都会ではないと思いますが」

「こんな田舎に何の用で」

「里帰りですよ」食い気味に答えた。「母が、祖母の実家を解体して、その時に、祖母の遺品の殆どを処分してしまったと言ったので、用事を放り出して、慌てて帰ってきました」

 そう言った後、ふっと鼻で笑う。

「でもまあ、間に合いませんでしたが」

 私の視線に気づいたのか、女性は、おやと言いたげな顔をし、抱えていたキャンバスを撫でた。

「これが、あんたのおばばの遺品か」

「それだけしか回収ができませんでした」

「画家だったのか。一度お目にかかってみたいものだな」

 女性の声は、どこかなぞるようだった。

「でも、もう死んだんだろう? いつ死んだ」

 私は「二年前」と答える。

「病気で死にました。入院なんてしないで、腕からチューブ伸ばしながら、縁側に腰を掛けて絵を描いてた。絵の具を絞る力なんて無いから、殆どが鉛筆画だった」

 当時のことを思い出すと、胸に亀裂が入るようだった。私は何度も止めたのだ。「長生きしてくれ」って。でもやめなかった。病院の天井眺めているよりも、実家から見る青空の方が好きだと言った。最終的に入院したけれど、一週間ともたず逝った。それでも、二日前までは描いていた。何もしなければ、後半年は生きただろうに。

 祖母にまつわる話をすると、女性は目は笑わず、でも口元はにいっとしていた。

「良い生き方だ。人間自由にやるべきだよ」

「でも、描いた絵は全部、お金に汚い人の手に渡った」

 脳裏を過るのは、帰省した私を出迎えた母の姿だ。白髪を染めてパーマを掛け、派手な服を身に纏っていた。胸で宝石が輝いていたし、「おかえり。お腹空いたでしょう」なんて言って、柄にもなくお寿司の出前を取った。

「好事家に全部売り払いました。特に、病気になってからの絵は好評だったようで」

「そりゃそうだ。晩年に命を燃やして描いた絵だからな。ダヴィンチの新作を見つけるようなものだろう」

 流石に烏滸がましいとは思うが、つまりそう言うことだ。死に際で絵柄が変わったこと、そして、もう二度と描かれることが無いという事実が、あの黒鉛だけを擦りつけた絵に価値を与えた。病室で描いた風景画には特に値が付いた。誰もそこに描かれている場所がわからなかったから。もしや、心象風景じゃないかって。

「よかったな。絵は売れてなんぼだよ」

 またもや、女性は逆撫でするようなことを言う。本人も自覚したのだろう、しまった…と言いたげな顔をした後、後頭部を掻いた。

「嫌な言い方か。悪かった」

「いえ。あなたの言う通りです」

 絵は多くの人に見られるべきであり、私だけが独占することはあってはならない。

「でもまあ一枚くらいは、欲しかったな。進学の時にでも持って行けば良かった」

 また引きつる様に泣き始める私に、女性は狼狽していた。それでも絵は描こうと手は動かすのだが、調子が上がらないようだ。遂には鉛筆を傍に置いて立ち上がり、言った。

「気分転換だ。ラムネでも飲みに行こう」

 そう言われて私は、喉が渇いていたことを思い出した。そして、犬のように頷いた。

 アトリエである小屋を出ると、雑草の生い茂る細い畦道を歩く。二百メートルと行かないうちに、小さな駄菓子屋に辿り着いた。ラムネは、軒先の金盥に氷柱と一緒に浸けてあった。女性は二本引っ張り出すと、一本を私によこす。

「キャンバス代と思ってくれれば」

 ばつが悪そうにそう言った女性は、浴衣の袖から巾着袋を取り出し、引き戸を開けて駄菓子屋へと踏み入れていった。中で何か会話が聴こえた後、戻ってくる。

「よし、飲もう」

 二人で、店先のベンチに腰を掛けた。開栓が上手くいかなかったから、女性にやってもらった。瓶を傾けると、涼しい味が喉に流れ込み、私の体温を一度下げた。

「おいしい」

「そうだね」

 ふと見ると、女性は瓶を脇に置き、また絵を描いていた。何であるか気になり、横から覗き込む。そして、「あ」と声をあげた。

「向日葵畑だ」

 カビの生えたキャンバスに広がっていたのは風景画だった。黒の濃淡だけで描かれているが、日輪を髣髴とさせ、ある一点を見つめて咲き乱れるそれは向日葵であるとすぐに分かった。その背後には入道雲。ある夏の一時を切り取った一枚である。

「すごい、上手いですね」

「そりゃあ、私も画家見習いだから」不本意そうに言った後、首を横に振る。「いや、上手くない。上手かったら金になるはずだから」

 その自虐に、私は唇を尖らせた。またそれだ。みんな金の話しかしない。

「金が一番わかりやすい評価の仕方なんだよ」私の心を読んだように言う。「少なくとも私は嬉しいけどね。作品が売れるのは」

 理解はできても納得できないことはある。

 気分が悪いから、私は話を逸らした。

「見ないで描けるんですね、向日葵畑の絵」

「まあでも、やっぱり嬉しいよ。金の話じゃなく、絵の話をしてくれるのは」

 私の言葉を遮って、女性は話を続ける。

「金は評価をわかりやすくしたもので、やっぱり、線で、色で、構図で、好きだと言ってくれる人の方が、少なくとも私は好きかな」

 私の気を遣ったのか、それとも、本心だったのか、女性はそう言った。それから私の方を見て、悪戯っぽく笑う。

「あんたはさ、おばばの絵の何が好きだった」

 すぐに答えられなかったのは、好きなところが沢山あったからだ。

「色です。凄く鮮やかだった。現実の風景よりも、凄く明るい色で塗っていて、特に、夏の空とかは絵の方が見ていて気持ちがよかったです。後は山の風景とか。まるで雨の後に葉が洗われたみたいな」

「他には」

「あと、存在しない場所を描くのが得意でしたね。私が海を見たいと言えば、海を描いてくれたんです。人の居ない、閑静な海を」

「そうかい」

 女性は笑みを含んだ声で頷くと、また手を動かし始める。

「私と同じだ」

 その言葉に、さっきの質問を思い出す。

「そうだ、向日葵畑、見ないで描いてる」

「師匠には見て描けって言われた。その通りだと思う。でも私は好きじゃないな」

「どうして」

「だって見て描いたら、それは写真と変わらないから」

「でも、それは実際にあるものですよね」

 女性の言っている意味が分からず、私は首を傾けて問う。すると彼女は、鉛筆を止め、苦虫を噛み潰したような顔をした。

「そうだけど違う。私の心で見たものだから」

 その言葉に、私は逆方向に首を傾けた。

「それは野暮だろう」

 女性が開き直ったように言い、鉛筆を走らせる。だが、また手を止め、傍に置いてあったラムネを掴むと、ぐいっと飲み干した。

 ゴクンという音に、私も釣られてラムネ瓶を傾ける。一口目よりも喉が痛かった。

 空になった瓶を置いた彼女が、私を横目で見て言った。

「好きなものを好きな色で描く。存在しなくても構わない。それは心で描いたようなものじゃないか。おばばもそうだったと思うよ」

「そうですかね」

「それで、気づいてくれる人がいることが、私は堪らなく嬉しいと思うことがある」

 捲し立てるように言った後、女性は我に返ったように息を呑んだ。それから、黒い髪をくしゃくしゃに掻き毟り、取り繕う。

「とにかく、気にするなよ。絵は金になって当然で、でも、あんたみたいな奴の方が、私は好きだから。だから、あんたからは金をとらずに、絵を描いてくれたんだろう」

 それでも、私は納得できなかった。

「祖母は良くても、私は悲しいです」

 鼻で笑う声が聴こえた。

「頭が固すぎるよ。あんたは」

 私の方へと、彼女の右手が伸びてくる。どのくらい筆を握ったのだろう。黒ずんで、中指の関節が変形していた。そのごつごつとした手で、彼女は私の頭を撫でた。

「ありがとうね。大切に思ってくれて。お前は良い孫だ」

 なんだかとっても、懐かしい感じがした。

 それから、私たちは駄菓子屋の前で駄弁り、時々お菓子を摘まみながら時間を潰した。そうして夕暮れ、これを逃すともう電車は来ないということで、私は帰ることにした。

「見送るよ」

 女性はそう言ってついてきた。

 私が駅舎の方へと歩き出そうとすると、「おい」と呼び止められた。振り返ると、私の鼻先に、風呂敷包みが突きつけられる。

「これ、あげるよ。勝手に描いて悪かった。でも、キャンバスは描かれてなんぼだから」

 絵を完成させたのだ。

「ありがとうございます。大切にします」

 ここで開けるのは野暮なので、脇に抱える。心なしか、重くなっていた。

「それじゃあ」

「うん、元気でね」

 手を振り合って、私は歩き出す。駅舎の軒を潜った時、入り口の傍に何かが置いてあることに気が付いた。薄暗闇の中目を凝らして見ると、それは茄子の精霊馬だった。

 一瞬、視界が明滅する。

 私は振り返って問うていた。

「あの、また来ても良いですか」

 だが、そこには誰もいなかった。赤く染まった畦道が続いているだけ。何処かで蜩が鳴き、温い風が吹いてきて私の頬を撫でていく。

 私は三歩戻り、あの女性の姿を探した。けれど、何処にもいなかった。もしや、私を揶揄うために草むらに隠れているのではないかと、近くにあったドクダミに近づく。

「おーい、そろそろ出るよ。行くの?」

 駅舎の方で、駅員さんが私を呼んだ。私ははっとし、踵を返して走り出す。整理券を手に取ると、停まっていた電車に乗り込んだ。

 私は座席に背を凭れると、女性に貰った風呂敷を解いて、絵を取り出していた。黒鉛だけで描かれていたのは風に揺れる向日葵畑。心で描いたという割には写実的で、空の青さ、太陽の眩しさ、肌を這う汗だとか、焼けた土の匂いが想像できるようだ。

 私は自然と笑みを零し、キャンバスの縁をなぞる。その時、絵の端に人が描かれていることに気づいた。

 それは私だった。丁度、肥溜めに落ちんとしているところで、表情は描かれていなかったけれど、膨れたスカートだとか、間抜けに伸ばした手、烏が翼を広げたみたいな髪の揺らめきは、我ながら滑稽だと思った。

 タイトルは『肥溜めと向日葵』。そして、落ちている私の下に、女性のサインが記されている。

 瞬間、私は人目も憚らず驚嘆の声をあげていた。

 向かいに座っていた人に見られたので、慌てて口を噤む。そして、不思議なこともあるものだなあと、また絵を見た。

 その女性の名前は…











        完

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肥溜めと向日葵 バーニー @barnyunogarakuta

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