西暦二〇二五年

 

「あの再生能力じゃ、ちょっとやそっとの怪我を負わせたところで倒せんぞ」

 老人は猟銃の弾詰まりを直しながら言った。

「鮠川君も見ただろう」

「ええ」

「怪我の様子を見た限り、構造そのものは普通の生き物と同じだ。それこそサルやなんかの哺乳類とな。人間ばかりを狙って食うことから考えても、タンパク質を構成主体とする地球型動物のはずだ。ただ再生能力がやたらと高いんだ。それが昔話の化け物だか、宇宙怪獣だかたるゆえんだな」

「ええ。あんなの、どうしようもありませんよ……」

「頭を使うんだ、若いの。細胞を単位とする生物ならまだ殺し方は幾らもある。呼吸を阻害する薬物を使って、個々の細胞そのものの活動を止めるのが手っ取り早い。薬物の吸収は呼吸器からさせればいい。口や鼻をしっかり使っていたから呼吸器官も我々と似ているはずだ。奴をどこか狭くて頑丈な部屋に閉じ込め、液化青酸を気化させて青酸ガスを吸わせるんだ。それだけでも死ぬと思うが、青酸ガスは可燃性だからな。揮発を調整して着火すれば奴は火だるまだ。細胞呼吸を邪魔された上に大やけどで死なん動物はおらん。異存はないかね」

 最後の問いは珠子に向かって発せられたものだ。

「医務室の貯蔵庫にあるあの量の液化青酸なら、部屋一つをガス室兼焼却場へ替えるには充分なはずだな、先生」

「そうですね」

 珠子はそっけなく答える。しかし、でも――、と継いで、

「あれをどこかへうまく閉じ込めることができれば、の話ですが」

「さっき、奴はどうやって事務室に入って来たんです?」

 鮠川の問いかけに、彼女は渋い顔をして見せた。

 思い出したくもない様子で、

「普通に、ドアを開けて入ってきたの」

 開錠された時、扉の一番近くには野々村老人がいたのだという。

 機械いじりが好きな彼はドア近くの棚に無線機があるのを見つけ、使えないものかと調整していたのだ。ふいに鍵が外側から開かれたので鮠川と相原が戻って来たのかと一瞬思ったが、

「北見さんの声がしたんだ」

 小柄な老人はやや肥えた自分の体を抱くようにして、震えを堪えていた。その額にはまだ脂汗が滲んでいる。

 彼がそのとき耳にしたそれは、とっくに死んだはずの人の声で、違う――、と気付いた時にはもう、遅かったのだそうだ。

 野々村は転がるように部屋の中心部にいた珠子たちへ駆けよった、そのすぐ後ろから、のっそりとサルが部屋へ入ってきた。

「出入り口を塞ぐように、扉一杯に、あいつが見えました。笑っていました」外山婦人が言った。

「向坂先生が仰るように、エントランスのカウンターに置いてあったカードキーを使ったんだと思いますわ。入ってきた時はまだ手に持っていましたから。とても利口で、器用なんです、あれは」

 菅野老嬢が金切り声で絶叫し、サルは彼女へ飛び掛かった。獲物の急な行動に対するリアクションバイトだ。血飛沫が壁を塗らし、鮮烈な臭気が部屋に立ち込めた。三人はすぐさま部屋を出た……。


「器用な上に、学習能力が相当に高い……」

 話を聞きながら、相原が自らの顎先を撫でる。

「でも、誰かがカードキーを使ったところを見たんでしょうか?」

 鮠川の問いへ、

「どこかで飼われていて、そこで覚えたのかもしれん」

「誰が飼うんです、あんなもの? 米軍の秘密研究所かしら?」

「あんたの娘さんの小説にありそうじゃないか」

「とにかく、地球の生物じゃないよね」

 相原と外山婦人の推理に、野々村老人が割って入る。

「サルのような外見の肉食動物、ってだけで相手の能力を測るのは早計だよ。僕たちはあれをただの獣と認識しているけどさ、あれが元から優れた知能や思考を持たないとどうして断言できるの?」

「あんたの言う通りだな」

 珍しく饒舌な野々村に、相原は皮肉めいた笑みを返した。

「だが動物には違いない」

「それは、そうに違いないけど……」

「なら、殺せる。さっきだって銃が弾詰まりを起こさずにもう一発撃てていたら、頭全体を吹き飛ばして殺せたかもしれん」

「だけど相手がいつもじっとしてくれているとは限らないでしょ。さっき、相原さんが撃った時はあれが菅野さんに気を取られていたから、こっちのチャンスも大きかっただけかもしれないんだし」

「だから、毒ガスを使った罠をしかけたいんだ。どこかいい場所は無いか?」

「……そんなことは、わからないよ」

 野々村は丸眼鏡を外し、ポケットから取り出したハンカチでレンズを拭き始める。彼に代わり、外山婦人が手を挙げた。

「三階のシアターが好いと思いますわ。二つしかない大きな出入り口のドアは分厚くて頑丈、隙間や空調をガムテープで塞げば気密性も高くなります。タンクや発火装置を仕掛ける時も、並んだ椅子が目隠しになってちょうど好いのじゃないかしら」

 提案はただちに採用され、鮠川、珠子、相原の三人が実働部隊となった。厨房から再び天井裏の通路へ上がり、まずは四階の医務室に行く。これはただ通路を静かに進めばよいだけの、比較的難易度の低いルートだ。液化青酸を取り、再び通路へ戻った後、医務室脇の倉庫へ。ここで取るべきは密閉用のビニルシートやダクトテープなどだ。その後、天井裏へからエレベーター孔を一つ降りて三階の天井裏へ。シアターに入り、罠の準備にかかる。

 相原を除く全員が五十歩百歩とは言え、外山婦人と野々村老人は戦闘要員として全くあてにならない。よって、エレベーター孔から直接最上階まで上がり、さらに屋上へ避難していることとなった。

 厨房へ逃げ込んだところは見られていないから、下手を打たないかぎりこの場所がサルに気付かれて襲撃される心配は低い。移動のリスクを考えれば、息を潜めてじっとしていた方が生存率は上がるかもしれない。だが万が一、サルに気付かれた場合、厨房のドアや窓はあまり役に立たない。屋上なら出入り口は一つであり、

「万が一奴が昇ってきたら、ロープで壁面へぶら下がるんだ。奴の手に吸盤はない。外壁を伝って襲ってくることはできんさ」

 移動を渋る野々村老人へ、より安全な場所へ避難しておくべきだと主張する相原が言った。

「そんなことできないよ!」

「できるできないじゃない、やるんだ。大丈夫、静かに移動すれば奴が屋上へ避難した人間に気付く可能性は低い。さっき天井裏から見たが、奴は基本、目線より上に対する意識が欠けているんだ。逆にここへ留まっていたら、奴が家探しでも始めた時に隠れきれん」

 それで、野々村老人も頷くしかなかった。

「素早く動けはしなくても、あんたがただって貴重な人材なんだ。しっかり身を隠していてくれよ」

 天井裏に全員で上がり、作業路の分岐での別れ際、彼は黒い小型端末を外山婦人へ差し出した。

「緊急通信機だ。現国家安全保障局長への単一回線が使える」

「でも、電波障害で……」

「大丈夫だ。そいつは繋がる。特殊回線だ。朝、一度試してみた」

 全員が相原の顔を見た。

 彼は飄々と、しかしどこか苛立ちを隠せない口ぶりで、

「今ここがどんな状況にあるか、朝からあったことを噛んで含めて報告してやってくれ。わし以外の話なら相手も真面目に聞くだろう。外山さんならうってつけだ」

 そう言い残し、端末を婦人に押しつけるようにして相原はさっさと作業路内を進み始めた。



     ※



 建物完成の当時からある三十人収容のシアターは、丹沢天翔園の施設としてはかなり窮屈だ。映画好きの老人たちが共同で出資し、別に超大型スクリーンを構えた本格的な映画室を園に増設させようという計画が出ていたほどだ。

 だが、その狭さが今回は役に立つ。

 天井裏からの入り口はシアターそのものでなく、シアター後部の映写室へと通じていたから、まずその中へ降りることになった。

 三畳ほどの区画を防音ガラスで仕切っただけの設計で、この部屋は廊下と通じていない。同様に防音ガラス製のドアでシアター内と往来できるだけだ。ガラスはかなり分厚そうだったが、あのサルにかかればひとたまりもないだろう。完全遮光のカーテンが内側から、透明な壁際へぐるり降ろされたままだったのが幸いだった。

 ロープで結わえてから外した通気口の覆いを静かに降ろし、着地させ、しばらく待つ。耳を澄ませていた相原が頷いたので、

「じゃあ、僕が降ります」

「いや、銃を持つ者が先行だ」

 長い銃身をつっかえることもなく、老人はするりと穴を潜った。

 まるで足音をさせずに降り立ってこちらを見上げ、続こうとする二人を手で制した彼はカーテンへ忍び寄る。慎重にまさぐり、探し当てた隙間へ顔を寄せてかなり長い間シアター内を伺っていたが、

「よし、鮠川君、青酸を降ろせ。気をつけろよ」

 鮠川は天井裏から慎重に、彼へ大型ポリタンクを渡した。ズシリと重い。液化青酸が詰まっているのだ。相原がしっかり受け取ったのを見届けてからふと顔を上げると、珠子がじっと、そのタンクを見送っていた。彼女も顔を上げる。目が合う。暗い目だった。

 珠子は自分が不用意な表情を晒したことへ気が付いたはずだ。

 しかし、

「私、シアター側の天井裏見てくるね。小さな通気口が幾つかあると思うから、それを塞がなきゃ。テープを一巻き頂戴」

 鮠川がデイパックから取り出したダクトテープ一巻きを掴むと、さっさとこちらへ背を向けて行ってしまう。

 あの目は何だろう、と鮠川は考えた。無論、こんな状況で表情の明るくなるはずもない。だが……。

 これまでの必死な顔ではない。ぼんやりと諦めの浮く顔だ。

 いつからだろうか。相原がガス室を提案した時からだったように思われた。毒ガスの使用に倫理的な抵抗があるのか?

 違う、と思う。珠子はもっと実際的な考え方をする人間だ。この非常時、怪物を相手に倫理を持ち出すほどの夢想家ではない。

 ではなぜ。

「早く降りんか」

 下から相原に急かされて鮠川は我に返った。音を立てないよう、通風孔の縁へ一度ぶら下がって勢いを殺してから飛び降りる。

「先生はどうした?」

「シアター側の天井裏にある通気口を塞ぎに行きました」

「なるほど」

 二人は静かに映写室を出た。出る直前、相原がコンソールの照明スイッチを入れたので、暖色系の天井灯が徐々に輝き始めている。

 厚いコンクリート壁で防音対策を徹底しているだけあって、部屋全体の構造もかなり頑丈なようだった。

 外山夫人の言葉通り出入り口は二つ、後方の扉は完全に封鎖してしまったので今は一つきり、取り付けのしっかりした両開きの重い金属扉は取っ手に棒を通せば外からも内からもすぐ閂を下せるので使い勝手が好い。窓が全く無いのもガス室には御誂え向きで、他の部屋に比べれば気密室にするのがずっと容易に思われる。

 だがその前にすることがあった。前方の出入り口まで来た二人は慎重に扉を少しだけ開き、今度は廊下を窺った。

 さるのばけはまだ一階にいるのか、獣臭さなどはない。それでも忍び足でシアターを出る。手分けして一番近い階段の踊り場や廊下の隅々へ幾つか、防犯装置を流用した電子鳴子を仕掛けた。この前を奴が通ればブザーが鳴って危険を知らせるから、作業を中断して天井裏へ戻る寸法だ。野々村が厨房の窓や保管庫についていた装置を外して鼻歌交じりに調整し、瞬くうちにこしらえたものだった。

 仕掛け終えると再び出入り口で合流して中へ入る。腕組みをした相原は部屋中へまんべんなく、改めて視線を注いでいたが、

「換気扇はこちら側でファンを回せるように穴を塞いでくれ」

「どうしてです?」

「青酸ガスの弱点は空気より軽いことだ。巧く発生させることができても、放っておけば上に集まってしまって、ガス室の効果が薄くなる。爆発するさせるにしても混合比の下限上限があるから、偏りができるのはまずい。空気を攪拌して、ガスがまんべんなく部屋に充満するようにしておくんだ。よし、装置を出してくれ」

 指示に頷き、鮠川はデイパックを降ろした。

 こちらも野々村特製の気化着火装置を取り出す。サーモスタット付きのホットプレートやガス検知器を携帯端末へ接続して作られたものだ。効率よく液化青酸を気化させるための温度調節機能、爆発に最適な空気との混合率を測るセンサー、剥き出しの銅線から火花を散らす着火装置がセットされている。そしてペットボトル入りの水。これをホットプレートで温め、液化青酸を湯煎にかけて気化させるのだ。これらは全て相原の端末とアドホック接続されており、遠隔操作で起動させることができるはずだったが、

「感度が悪い」

 タンクと接続しないで試運転させてみた相原が渋い顔をする。

「こっちがシアターから出ちまうと動かせんかもしれんな。外からホットプレートのスイッチを入れてみる。こっちで見ててくれ」

 鮠川へ言い残し、彼は再び廊下へ出た。

 金属扉を閉じてから三十秒ほど経って顔を出し、

「どうだ? 五回くらいスイッチを入れたつもりだが」

「うんともすんとも言いません」

「こっちもだ。温度センサーの受信データにも変化がない」

「壁が分厚すぎるんでしょうか?」

「いや、中継設備が動いているはずだ。ホットプレート、一度電源を切ってくれ」

 戻った相原は、足元に置かれた装置を見下ろして顎を撫でる。

「多分、例の電波障害の影響だな。今度は部屋の中で、できるだけ距離を取って試してみよう」

 だが、距離に比例して感度は落ちるようだった。シアター前部に装置を置き、シアター後部からの操作は可能、映写室内からガラス越しだとかなり落ち、二人が入ってきた映写室内の天井裏からだと十回スイッチを押して一回起動すればいい方だ。

「どうするかな」

 相原は腕組みをして唸る。

「ビニールなら電波通りますよね。シアター真上の換気口からだと装置との距離も近くなるし、下の様子も窺えて好いのでは?」

「爆発というものはな、上へ上へと行くんだ鮠川君。一応野々村と計算はして、シアター内で爆発を収められる値は求めてあるがな、前提となる部屋の容積は大雑把なもんだし、あいつの動きを止めるのにどれほどガスが必要になるかがそもそも分からん。仮に爆発の規模が大きくなったら、薄い天井板一枚なぞあてにならんぞ?」

 それに、気密が完全でなければ人間側が青酸ガスの影響を受ける可能性もある、と言われれば鮠川は提案をひっこめるしかない。

 天井裏で珠子がダクトテープを切り貼りする音だけが響く。

 それへ耳を傾けていたらしい相原が、

「映写室からの操作で妥協するしかない。それがこちらの身を守りつつ計画を保証する最低ラインだ。ダクトテープはまだ十分あるか? できればブルーシートも」

「ええ。持てるだけ持ってきましたから」 

「よし。じゃあ君は映写室のガラス壁を補強してくれ。正面の壁は天井から……そうだな、六十センチほどのところに、直径十センチ程度の覗き穴ができる貼り方で、その他はガラス面全てに内側からテープを隙間なく貼る。それから今度は外側を、覗き穴を塞がないように加工したブルーシートでぴったり覆う。理由は分かるな?」

「爆風除け、ガラスの飛散防止、ということですか?」

 内側のカーテンだけでは心もとないからな、と相原。

「誰かが映写室からスイッチを入れるしかない。装置を作動させたタイミングで天井の二人がその誰かを引き上げるんだ。だから爆発から零コンマ数秒ほど、内側を守ってくれる環境があればいい」

「……テープで爆風が防げるんですか?」

「さてな。とにかく今は罠を張り終えるのが先だ。わしは気化装置とスネアトラップを仕掛けるから、お前さんは目貼りだ。向坂先生、聞こえるか? 今やってることが終わったらスプリンクラーの栓を探して、閉めておいてくれ。あんたの周りにあるはずだ」

 やがて天井での作業を終えた珠子も降りてきて加わり、ガス室の作成は鮠川が思っていたよりも簡単に運んだ。今やブルーシートの要塞と化した映写室、座席の間に張り巡らされた締まり罠、そして電子指令を待つのみとなった青酸ガス発生装置。廊下の電子鳴子を全て回収し、最後に出入り口を解放した三人は映写室へ入る。扉を閉めると内側から隙間へ目張りをした。とりあえずこれで完成だ。コンソールを足掛かりに天井へ上がり、以降の手順を確認する。

「フェイズ1、まずは奴をおびき寄せる。シアター内の音響設備を鳴らせばいい。わしらは廊下側の天井で奴を待ち、奴がシアターへ入ったのを見計らって下に降り、扉を閉める。電子錠をかけるのはもちろん――」

 こいつで、と相原は椅子を一脚ばらして取った太い材木を示し、

「取っ手へ閂も入れる。用心に越したことはないから、ケーブルで取っ手自体を縛り合わせておいた方がいいだろうな。とにかく奴は体当たりをしかけてくるだろうが、それを堪えて閉じ込めるんだ。このプランで一番危険な過程はここだ。タイミングが大事だ。三人の息を合わせて、一瞬でドアを封鎖せにゃならん。いいかね、向坂先生?」

「――ええ」

 珠子の目が暗がりにぎらつき、微笑んだ相原の歯も白く光る。

「よろしい。わしと鮠川君が閂と扉抑え担当、先生が錠とケーブル担当だ。幾つか椅子を縛って作った脚立が廊下に出してあるから、下から天井裏へ戻る時は使ってくれ。奴を閉じ込め、三人とも上に上がったらフェイズ2、映写室から気化装置を作動させる。これは奴が興奮している間に始めた方がいい。毒の回りが早くなる」

「あの」鮠川は口を開いた。

「僕が映写室に降ります。相原さんの携帯で爆発限界値を読んで、着火装置を作動させたらいいんですよね?」

「非常時に進んで危険を冒そうとする自己犠牲の精神は褒められるものでないぞ、鮠川君。誰かに面倒をおっつけてでも生き残ろうとする生への執着こそが道を切り開くんだ」

「いや、あの……そういう訳では……」

「なるほど、もっと利己的な動機か。しかし君がヒーローを買って出たところで、その小娘には今、君の気持ちを汲む余裕は無いぞ」

 作業路の空気が瞬時に張り詰めた。さっと顔を上げた珠子が一歩、相原へにじり寄ろうとしたのが鮠川にも分かる。と、

「後にしろ」

 相原が言った。普段の、どちらかと言えば柔和な声からは想像もつかないほど冷たく、どすの利いた調子だった。珠子の鮮烈な怒りが一瞬で削がれたのを鮠川は感じた。彼女がもっと情緒的な人間であれば、そのまま老人へ飛びかかっていたのかもしれない。だが、珠子はそうではなかった。そこを利用された。内臓を引きずり出すように、ごく自然に、理性を無理強いされた。彼女は呻いた。

「それにな、鮠川君」

 一転、相原の声は元の調子を取り戻している。

「誰が下へ降りると言った? やりようは色々あるんだ」 



     ※



 それで今、鮠川は相原の股間を見つめている。

 彼と珠子に自分の脚を片方ずつ押さえさせ、映写室の天井穴から仰向けの姿勢で上半身をぶら下げた老人の一物は、チノパンの布地を裂いて立ち上がりそうなほど猛っていた。かなりの巨根だった。

 それに気が付いたのは、誘い込みに成功した三人が内側のサルに気付かれぬよう、こっそりシアター前の廊下へ降りた時だ。

 相原手製の脚立はサルを閉じ込めた後に全員が天井裏へ戻るためのもので、シアターへ入る前のサルが興味本位でいじったり、罠へ不審を抱いたりしないようにするためにも、予め廊下のど真ん中へ立てておくことは避けるべきだった。

 それで、サルが完全にシアター奥、トラップ原の向こう側にまで入り込んだことを確認してから、まず鮠川と珠子に支えられた相原が最初に廊下へ降り立ち、次に珠子が相原、鮠川に上下を支えられつつ降りた。最後に、換気口からぶら下がった鮠川を珠子と相原がゆっくり支え降ろす算段だった。

 だが、そこで鮠川がしくじった。素早く行動しようと意気込んだ焦りが汗を呼び、彼の手を滑らせたのだ。先に降りた二人が体勢を作るより前に体が降下を始めてしまった。指で必死に凹凸を探すも作業路内に手掛かりらしい手掛かりは見つからず、つるり、と彼は抜け落ちた。あっという間に指先だけで穴の縁にぶら下がった。

 気付いた珠子が飛びついて支えるも掴みどころが悪く、かえってバランスが崩れる。鮠川はさらに焦った。ここで音を立てるわけにはいかない。飛び降りることも体をずり上げることできない彼の、穴の縁にかかる指がまた滑った。ついに彼は落下した。外の異変に気付き、サルが飛び出してくるイメージが瞬時に脳裏へ閃いた。

 だが、どたりと廊下へ倒れ込む寸前、鮠川はばねのように強靭な体が自分を抱きとるのを感じた。そのまま、乳母車から降ろされる子供のように絨毯へ降ろされる。無様に、しかし音もなく転がった彼へ相原が微笑みながら手を差し伸べ、

「まったく、ひやひやさせやがる」

 まだまだ余裕を含むその目が言っていた。伸ばされた手を取って立ち上がり、無言で鮠川は頭を下げる。そしてその時、勃起に気が付いた。相原の股間はすでに、痛ましいほどにいきり立っていた。

 顔を上げると目が合った。老人はにやりとした。羞恥など微塵もない。この状況では当然、という顔だった。彼は興奮しているのだ。

 鮠川は珠子を見た。彼女もまた、相原の勃起に気付いているようだった。汚いものを見る眼差しを一度、老人へ走らせた。

 だからだろう。再び視線を戻した鮠川へ、相原はさらにニヤニヤ笑って見せた。腰を曲げにくそうにしながら、それでも素早く廊下の隅に置いておいた閂用の棒を拾い上げ、

「行くぞ」

 ハンドサインを出し、相原は中腰で出入り口へ歩み寄る。珠子を促しつつ鮠川も後を追った。誘い込むだけでなく、三人の行動音を誤魔化すためにもシアターの音量設定は最大だ。入り口へ近づくにつれ、空気の振動がはっきりと感じられてくる。

 相原が立ち止まり、後ろ手で二人を制した。

 開放されている両開きの扉のうち、こちら側を鮠川に任せた老人はしばらく中の様子を見計らっていたが、やがて素早く向こう側の裏へと回り込んだ。後は珠子が鮠川側の扉横にある電子錠の確認を終えればよい。彼女がすぐ後ろでカードリーダーの設定を開く間、鮠川はそっと首を突き出し、シアターの中を窺う。

 サルは映画を見ていた。

 巨体を両の拳で支えつつも僅かに姿勢を崩し、スクリーンに映し出される大昔の白黒映画を無心に眺めていた。

 それがここに居ない人々であるとは分かっているのだろう。夜の遊園地でメリーゴーランドが煌き、男と女が笑いあう映像を呆けた顔で見つめていた。照明を落とした室内でスクリーンの反射に白く照らされ、血と肌のだんだら模様を妖しく晒しながら、ただ眺めていた。その頬を伝う涙を鮠川が幻視した時、後ろから肩を叩かれた。

 振り返る。準備を終えたことを珠子が身振りで示す。鮠川は前を向き、向こう側から顔を覗かせている相原へ頷いて見せた。

 相原も頷く。指を三本立てて見せる。カウント開始だ。

(1、2、3!)

 同時に扉を閉じ、体で抑えつける。相原が取っ手に棒で閂を入れ、珠子が電子錠を下した瞬間、もの凄い咆哮が響いた。鮠川は衝撃に備えて身構えた。だが、体当たりは無かった。

「よし、罠が効いたな!」

 相原が頷く。床一面に仕掛けられたワイヤー製スネアトラップにサルは足を取られたのだ。もちろんそれでも油断はできない、

「奴なら自切くらいしかねん」

 相原と鮠川が閂の木材をさらに追加するすぐ下で、珠子が素早く両扉の取っ手と取っ手を太いコードで縛り合わせていく。

 果たして、作業が大方終了する頃、向こう側を殴りつけるような音が聞こえ始めた。だがドアへの衝撃はそれほど大きくない。

「足が千切れていてはさすがに全力を出せんか」

 相原が笑い、度々ドアがきしむのも気に留めず、ダクトテープの残りで入り口を外側から素早く目張りした。

「さあ、立派なガス室の出来上がりだ」

 彼は自作の脚立へ大股に歩み寄ると得意気に立ち上げる。三人は急いで作業路へ上がった。恨みのこもる咆哮だけが追いかけてきた。


 それで今、映写室の天井裏で鮠川は相原の股間を見つめているのだ。仰向けに穴から上半身だけをぶら下げたその残り部分、両脚の分岐で膨らみはいよいよ激しく張り詰め、衰える気配は一向にない。

 無論、鮠川は見たくて見ているのではない。今支えている相原の左足を合図があれば思い切り引いて、彼を素早く引き上げれば良いだけの役目だ。迫力があることは確かだが老人の一物を眺め続ける必要はない。だが時折、右足を担当する珠子へ目をやれば、彼女は酷薄なほど冷たい眼差しでやはり相原の股間を見つめていた。それこそ見てはいけない気がして、目のやり場に困った鮠川は結局彼女と同様にするしかない。珠子が今にも相原を落とすのではないかという不安を意識せずにいるには、かなりの労力を必要とした。

「いいぞ。ファンがうまく効いてる」

 映写室上の配置についてすぐ、相原は液化青酸の気化を開始している。遠隔操作で温められた毒液は青酸ガスとして効率良く室内へ満ち、サルの唸りは既に呻きへ変わり始めていた。やがて、

「誰か助けとくれ!」「助けとくれよゥ!」

 映画の音声に混じり菅野老嬢の声が哀れっぽく響いた。大写しのメロドラマに嫌気が差し、とうとう叫び出したかのようだった。

「その婆さんにもな、危険を冒して助けに来る仲間はおらんぞ」

 愉快そうに相原が呟く。

「よし、ガスもしっかり効果ありだ」

 見ることのできない二人へ向けているとも思われないが、頭に血が上る姿勢も苦にならない様子で彼は囁くような実況解説をする。

「やっぱり、あの足は一度取れたんだな。足首に輪をはめたような不自然な蚯蚓腫れが見える。取れた足を継ぐこともできるわけか」

「さすがにしぶといな。まだくたばらんぞ」

「うずくまって、丸まり始めたぞ。そろそろだ。準備はいいか?」

 老人が呟く度、ひくひくと股間の膨らみが蠢く。射精しないのが不思議なくらいだ。人を撃った時もこうだったのだろうか――、と鮠川がふと思ったその時、相原が叫んだ。

「引け!」 

 鮠川、そして珠子も一気に彼を引き上げた。同時に彼の端末から放たれ、ガラス張りの銃眼を抜けた信号が点火器の火花を散らす。

 混合率がほぼ最適値に達していた青酸ガスは盛大に燃え上がった。テープに覆われた映写室の壁面が内側へ圧縮する。サルが吠える。

 燃え残りのガスが作業路内まで這い上がり、異臭の先端を捉えた三人は慌てて移動を開始した。天井からシアター前の廊下へ転がり落ちるように続いて飛び降り、涙目でむせながら勝どきを上げる。

 気密の緩んだ前後の扉から煙が漏れている。新鮮な空気を求めてさらにシアターから離れつつ、

「君の仕掛けもうまく働いていたようだぞ。ちらと見えたが、奴は火だるまだ」

 相原が鮠川の肩を叩いた。厨房で見つけた戻し済みのソーセージ用羊腸へ食用油を詰め、トラップやその周辺に仕掛けることを思いついたのは彼なのだ。油詰めの水風船のようなものだ。破裂すれば辺りへ油を撒き散らし、火の着きをよくするはずだった。

「軟弱者と思っていたがどうしてどうして、やるときはやるもんだ。なあ、先生」

 立ち止まった相原が振り返る。つられて鮠川も振り返った。

 そして硬直した。

 いつの間に奪い取ったものか、珠子はライフルを構えていた。

 直前の勝利に酔うことも無かったのだろう。冷たい目のまま背筋を伸ばして突っ立ち、彼女は相原の胸へ狙いを定めている。

「いつから、気づいてたの?」


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